水無川で
第十話
田ノ原の町も七月に入ると、祇園祭に向けて多くの神事や準備を控えているが、学生にしてみれば勉強が本分でもある以上、期末テストは避けられない。
悠亮や莉緒らクラスメイトも試験対策に追われているが、むしろ恵は県外の大学を目指しているのだから尚更かと思いきや――。
「ねぇ悠亮。ちょっといい?」
帰りのホームルームを終えて、鞄に教科書を詰めていた悠亮の席に莉緒がやってきた。
「なんだよ、莉緒」
「めぐのことなんだけどさ、なんかあの子のおじさんおばさんから聞いてる?」
「えっ? 別に恵のことは何にも聞いてねぇけど……」
悠亮は咄嗟に話題の主を探したが、既に教室内から姿を消していた。
「最近はあたし達とも一緒じゃなくてすぐに帰っちゃうんだよ。そんであたしの塾にも来なくなってさ」
「はあっ? マジか、あいつ塾にも行ってないの?」
結局のところ受験対策の塾問題は悠亮ではなく莉緒に紹介された所を選んだ恵。
加えて県外の大学を志望する唯一の目標に向けて努力していた彼女を、莉緒は間近で見ていた。
「あの感じ、めぐが『ここ』に来たばっかの頃に似てない?」
「うーん、どうだろうな」
「何かよそよそしくてさ、あたし達と敢えて距離を作って、少し遠慮してる感じ」
荷造りの手を止めると、腕を組みながら椅子に腰を預ける悠亮。
向かい合う莉緒も立ち話をやめて彼の席の前にある椅子に座った。
「少なくとも家族や蔵のみんなからは、恵の親父さん達が『娘が変わった』って嘆いてるなんて話は聞いてないけどな」
「あの子、田ノ原を出るの嫌になったとか?」
「いやぁ、それは無いと思うよ」
「そしたら受験するのが不安なのかな?」
「それを言ったら莉緒も俺も不安だよな。みんなそうだよ」
「やっぱどっかで掴み切れないっていうか、めぐは本音を言わないんだよね。だから何とか聞き出そうとしても、最近はあの調子でさ。悠亮はあの子が変わるキッカケを知ってるかなと思ってさ」
「……キッカケ?」
悠亮には思い当たる節がある。
むしろ恵というよりは自分だが。
それは神社の社務所の奥深くで眠っていた白無垢を見た直後だ。
長い黒髪の幻覚に狼狽して恵の前で失態を犯したかと思えば、その帰り道にも違和感を覚えた。
当然ながらあれが町の禁忌であるのだとすれば、おいそれと莉緒に伝える事も出来るはずがない。
それきり二人とも腕を組んだまま固まった。
そんな級友の心配もどこ吹く風か、恵は放課後には自転車に乗って町のあちこちを散策していた。
親にも莉緒にも無断で塾をサボタージュし、こうしてあてもなく移動を続ける。
母の郷里であり、十二年近くを過ごした田ノ原の風景を目に焼きつけておこうという訳でもない。
何故だか無性に外に出たくて仕方が無かった。
このモヤモヤした気持ちが続いて塾に行かぬあまり、成績に影響を及ぼすなら県外の大学受験もパスできないかもしれない。
そんな焦りもあるが、まだ大学入学共通テストまで半年以上もある。
しかも遡ること昨年の暮れからは、勉学に励み中間テストでもきちんと成績を上げたので、祖母にも得意げに振る舞うことができたし、心の余裕も違う。
なにより、あの悠亮よりも自分の成績はずっと良い。
だからテスト前にまた本気を出せばいいと、安易に考えていた。
むしろどこかに自分の居場所は無いだろうか、自分を受け入れてくれる要素が田ノ原に無いだろうかと、自転車を漕ぎ続けた。
世間的には梅雨のはずなのに、一向に雨が降らない山間部の盆地には不快な熱気が充満している。
生ぬるい風が恵の頬を撫でるが、彼女が操るのは電動アシスト付きのものだ。
ささいな力で一気にペダルが進むので、歩いていれば汗のひとつも流そうかという気温でも恵は涼しげな顔で町中を彷徨っていた。
やがて辿り着いたのは、市街地の中心にある駅から学校に向かう途中で必ず渡る橋だ。
そこは水無川と呼ばれている。
いわゆる表流水が無く、地下へと浸潤しやすい砂礫や岩石が川底にあり、増水時にだけ河川が姿を現わすために『水無川』。
だがこれは愛称ではなくて
砂防用のコンクリート製の堰堤が幾重も設けられており、両岸はすくすくと生長した雑草が繁茂している。
普段ならばいくらかの水流があり、柔らかな水音を立てながら流れ落ちて行く。
自然豊かな清流ゆえに釣り人にも人気の場所だ。
そこで自転車のブレーキを握った恵は、県道と分岐する細い道の前で周囲を見回した。
空梅雨のせいか川音は一切無く、まだ気の早い蝉も鳴かないし雨の便りも届かぬ、文月の静寂。
これで月末には景色も気温も一変するのだから恵も自然には驚かされるばかりだ。
「そう言えばこっちの方は危ないからって、あんまり来たこと無いや」
幼い頃の水無川の散策はいつも親と一緒。伏流水ゆえ田ノ原上空が晴天でも上流でひとたび雨があれば突然にその姿を現し、時として濁った水が溢れかえり歩道に迫る程の急流となる。
なので田ノ原では、子供達だけで水遊びをしないように聞き飽きるくらい言われてきた。
「ちょっとこっちの方に行ってみよ」
恵は水無川に沿って続く農道に入った。
木立に覆われた狭い車道は木陰が涼しくもあり、すぐ横に広がる川の上を清涼感ある風が通り抜ける。
「水無川って子供の頃にちゃんと見た以来かな?」
河川敷に自転車を停めた恵は、長く伸びた草を漕いで川面まで向かう。
両手を広げて草を薙ぎ、足を高く上げると近くの雑草を踏みしめながら、恵は辺りを歩き回る。今が私服で足首まで隠れるズボンとスニーカーだから造作も無いことだが、これが制服のスカートのように素足が出ていたら草や小枝で肌が切れていたかもしれない。
時折、人間に驚いた様子で蝶々がひらひらと舞ったり、バッタが飛び跳ねたりしたが、それ以外は何でもない、いつもの田ノ原のありふれた風景のひとつだ。
「いいよね、あなた達は。そうやって自由に暮らしてても誰からも文句を言われないんだから。あたしなんか自分で全部やれって言われんだよ?」
恵は眼前を飛び交う虫に向けて、ひとりぼやく。
田ノ原に来てから良かった事と言えば虫の多さに驚かなくなったことくらいだ。
むしろ彼らからすると突然に人間がやって来て、平穏な時間を奪われて逃げ惑うのだから迷惑極まりないが、恵はそんな事にもお構いなし。
生い茂った草葉の間には蜘蛛の巣が張られ、憐れにも我が身を縛られたまま枯れ果てた虫の死骸があった。
だが、そういった自然の摂理や弱肉強食に対する恵の思考はそこに到達していない。
餌を捕らえるために食うや食わずの日々を擦り減らす彼らの労苦も知り得ない。
ただ社会や地域や学校や家庭に縛られている自分と比べて、自由を謳歌しているようにしか見えない虫達の姿が羨ましくあった。
そんな彼女の耳に届いたのは、突然の猫の声。
「ミャーオ」
声の主を探そうと恵は背丈と同じくらいの草薮の中を見回す。
もちろん相手は身体の小さな猫だということは理解しているので、この繁茂した夏草から見つけ出すのは至難の業だ。
「猫ちゃん? どこにいるの?」
すると鳴き声がまたひとつ。
「ミャーオ」
「近くにいるんでしょ? んもう。ちょっとはあたしのとこに姿を見せなさいよ」
山間部の盆地を照らす太陽は彼女のすぐ頭上近くにあるようで、七月初旬だというのに晴れ渡った空から降り注ぐ熱に灼かれているうちに、草を漕ぎ進む恵の額には汗が玉になって浮かぶ。
先程まで自転車で風を切っていた快適さは、とうに前の事だ。
やがて、水無川の岸まで辿り着いた。
と言っても大小の岩が無造作にごろんと並ぶだけで、水流はほぼ視認できない。
涼を求めるというにはあまりにもみすぼらしい川の姿だったが、それでも開けた川面の上を山からの風が流れ落ちると、恵の前髪を幾度も揺らす。
そこに居たのは声の主である猫――ではない。
同じ年頃の少女が日傘を差したまま対岸の草むらに腰を落として川を眺めていた。
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