第三十五話
悠亮は町を駆け抜ける。
神社の大鳥居を通り抜けると七行器通りを南へ。
普段の晴天の田ノ原ならば、まだ山の向こうへ沈む前の太陽が明るく照らしていたであろう。
しかし雲に支配された町は一面を暗灰色に塗られ、遠ざかる悠亮の姿は雨に煙り、すぐにその陰影を霞ませた。
目指すべき場所は直感ですぐにわかった。
彼女が居るという担保はない。
しかしこれだけの情報を得た今、確度は充分であった。
しつこく降る雨が彼の前髪から滴り落ちる。
次第に濡れて色を変えてゆく服が彼の肌に纏わりつく。
そんなことには一切の注意を向けず、ただひたすらに駆け続けた。
「ちくしょう! 頼む、間に合ってくれ!」
町の中心部ではパトカーのサイレンが鳴り響く。
それにも気付かない程に、悠亮は無我夢中で走っていた。
やがて彼は水無川のほとりへと到達した。
そこで一度、立ち止まると全身で荒く息をしながら周囲を見回す。
照明はほとんどない。
間もなく完全な暗闇が支配するであろう川岸で、相当に増水したと思われる水無川が轟々と叫び続ける。
雨とも汗ともつかぬ全身の湿気と悠亮自身が発する体温が混ざり、身体の周りに不快な被服を一枚身に纏うようであった。
「おーい、めぐみぃっ!」
そんな彼の声を無情にもかき消すかのように鳴り止まぬ川の音。
それから再び上流を目指して、川岸を走り続ける。
しばらくは何処が何処ともわからぬまま、日没の迫るモノクロの景色の中をあてども無く駆けていた悠亮だが、ある場所を通り過ぎた時にすぐに立ち止まり数歩、後戻りをした。
明らかに夏草が人幅に倒れて拓けている。
それは恵が付けた彼女の獣道。
この短期間で彼女が幾度も通っていたのか、悠亮を案内するために広げたのだろうか、彼は気にも留めていなかったので記憶は定かではないが、間違いなく人為的に造られたものだ。
そこを一目散に分け入る悠亮。
程なくして水無川の岸辺にやってきた。
ここ最近の晴天続きですっかりと枯れ果てた水無川の様子ではない。
視界が開けたすぐ近くまで水音が迫り、川幅や水量もこれまでとは比べようも無かった。
その薄暗がりの中で浮かび上がる灰色がかった淡い白。
腰帯も巻かず、平安時代の十二単のように長い着物を広げながら、恵はゆっくりと暴れ川に向けて歩いている。
「おいっ、恵!」
だが彼女は歩くのをやめない。
咄嗟に駆けだした悠亮は両腕で彼女の華奢な腰を掴む。
「やめろって! そっちに行くな!」
『……離れろ』
直後、恵が上体と両腕を一気に振ると悠亮の身体は宙に舞う。
とても同い年の女子とは思えない剛腕によって悠亮は後方に投げ出され、濁った水に落下した。
水飛沫を上げて尻もちをつく悠亮。
腰から下肢にかけて電気が走ったように痺れる。
仮に下が水で無ければ只事では済まなかったであろう。
しかし今の彼には自身の怪我を心配する余裕はない。
それでも片手をついて立ち上がると、すぐに恵に食らいつく。
「恵っ! おい、聞こえてるか、恵! はやく気を取り戻せ!」
『放せ、権現酒造の末裔よ!』
「お前じゃなくて恵を……ってお前と俺は同じ血筋じゃねぇか! ケンカしてる場合かよっ!」
再び恵は上半身を捻る。
それはしがみつく悠亮を再び払おうとする合図だった。
その動きを察知した彼は寸でのところで恵から身体を離す。
両腕を大きく振った彼女の正面が、がら空きになったところで悠亮は覆い被さるように恵に飛びかかった。
必死に抵抗を試みる恵の両肩から白無垢を剥がすと、彼女の両頬を軽く叩く。
「俺たちの恵をお前の好き勝手にはさせねぇよ! 恵は俺らの大切な友達だし田ノ原の仲間なんだよ! オバケのお前とは時代も立場も違うんだ!」
『違うっ!』
恵は両の掌を悠亮の胸に叩きつける。
その衝撃は彼の呼吸を奪い、反動で半身近くの距離を後方に倒れ込んだ。
「うえぇっ、ゲホゲホッ!」
着水と共に口に含んだ濁った水を何度も吐き出すと、悠亮は背を向けた恵に両手を伸ばす。
悠亮は恵の羽織る白無垢を掴むと、左右の手で一気に引っ張った。
長らく神社の倉庫に眠っていたであろう年代物であったとしても、彼の力でも引き裂く事は叶わなかったが、首元や袖にわずかなほつれが生じた。
裂け目からはまるで黒煙のように禍々しい瘴気が霧散してゆく。
それと同時に恵の動きも鈍った。
「めぐみっ!」
足元の水は暗がりの奥から際限なく現れては漆黒の向こうへと流れ続ける。
それは彼を、そして恵を深淵に押し流そうと勢いを増し、水量を増やしながら幾度も悠亮の靴を滑らせていく。
恵の両脇から羽交い締めにしようとしたが、いとも簡単に振り払われる。
その度に悠亮は水しぶきを上げながらもんどり打つが、すぐに片膝を立てて幾度も恵へと向かう。
「もう知ってんだよ! お前の彼氏もツラい目に遭ったんだろ? 田ノ原の皆のせいだよ。それはわかってる。俺も悪いと思う。でもお前の勝手で恵まで連れてくな! 恵もお前も、もう『よその子』なんかじゃねぇよ!」
今度は彼女の両腕ごと腰に手を回す悠亮。
いささか自由を奪われた岩魚の姫は、それでも背後の人間から逃れようと、上体を左右に大きく捻る。
「俺の田ノ原の仲間を、俺の恵を勝手に持ってくんじゃねぇっ!」
相手の動きを利用して、悠亮は大きく背を反らすと恵を白無垢ごと持ち上げた。
そのままバランスを崩した二人は折り重なるように背中から着水する。
それでもなお立ち上がり、川へと向かう恵の背後ががら空きになった。
悠亮は咄嗟に白無垢を掴むと、彼女の動作に任せて着物の袖を後方に引く。
途端に恵を縛っていた白の鎖はするりと脱げる。
「マジかっ!」
思わぬ成果に悠亮も唖然と手元の白無垢を見ていたが、それをすぐにぐるぐると丸めると川岸の草むらへと放り投げた。
一方、白無垢が脱げた恵は突然に虚脱して川の中に倒れる。
彼女が流されぬよう、すかさず悠亮は流水に抗いながら、鉛のように重く感じる脚を無心に振り上げて恵の元へと駆け寄った。
「おいっ、めぐみぃ! 大丈夫かっ!」
「……へ? え! うそ、なに?」
我に返ったのか今の状況に驚いていた恵だったが、説明する間もなく悠亮は自ら川下に立ち、彼女に肩を貸すと背中を押しながら一歩、また一歩と川岸を目指す。
程なくしてたくさんの赤色灯や車のヘッドライトが、県道から畦道に入って来た。
「へぇっくしょんっ! うぅ……水浴びには早すぎたな」
両手が塞がっている悠亮は口元や頬を左右に動かしながら、むずがゆい鼻を紛らわせる。
恵と悠亮は宇迦神社の境内で焚き火に当たっていた。
全身がずぶ濡れだったので学校のジャージに着替え、さらに厚手の毛布を肩から掛けられており、神職や氏子が用意した温かな甘酒の入った紙コップを手に持ちながらゆっくりとすする。
恵が羽織っていた白無垢も境内の一角で干されていた。
因縁ある伝承の白無垢はたっぷりと水分を含んだためか、一向に乾く気配はなく水滴を永遠と落とし続ける。
それはまるで止まらぬ涙のようでもある。
警官から事情を聴かれた二人に続いて、彼女らの両親やお党屋当番の者にも聴取は及んだ。
警察や消防団の青年部も出動する騒ぎとなったが、例の白無垢が絡んでいるためか宇迦神社の宮司の説明によって事を治め、故意ではない偶然の水難事故として処分されることとなる。
そんなことは露知らず、悠亮はがっくりとうなだれていた。
「あ~あ、こんな町じゅう大騒ぎになってて学校の内申にまで影響が出たら、俺ももう大学に行けなくなっちゃうじゃん」
彼のぼやきが聞こえているのかいないのか。
恵は焚き木に視線を落としたまま黙っていた。
せっかく場の空気を変えるチャンスを棒に振った悠亮は、苦々しく甘酒を飲むと隣に座る恵に向けて問い掛けた。
「恵のことを呼んでたとき、俺の声は聞こえたのかよ?」
しばらくは変わらず焚き木がぱちぱちと爆ぜる音を聞き、燃える火を眺めていた恵は静かに語りだした。
「気付いたらあそこに居たの」
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