岩魚の姫

雨の水無川

第三十三話

 季節は忘れかけていた梅雨を呼び戻したように、雨が続いた。


 どうか祇園祭の当日だけは雨が降らないで欲しいと願う町の人々の、やきもきした感情が湧き上がるも、無情にも空で折り重なる鉛色の雨雲に姿を変えたそれらは、飽きることなく涙を流し続ける。



 対する恵は、降り続ける雨を見ながら心が躍るようであった。


 このまま祭りが雨で中止になるのも構わない。

 無論、雨天決行なので余程の荒天でなければ中止にはならないが。


 それ以上に大気に充満した湿気が、自分の内なる気持ちの欠けた部分を満たしてくれているみたいで安心する。

 先日、智津子と対話してからというものの、気持ちが明るくなって仕方ない。

 テスト結果や卒業後の進路、一人暮らしなどと何を些末な事で悩んでいたのかと、鼻歌まじりに右手に持つ赤い傘をじっと見ていた。

 傘に打ち付ける雨粒の音、そこを伝って落ちる水滴を飽きずに眺める。



――雨にも命があるなら、なんて無意味な人生なんだろう。

 偶然に川の一滴に戻れたのなら、まだ良い。

 でもほとんどは、せっかく雨として生まれたのに地面に落ちて、やがて乾いて消えてしまう運命だなんて。


 だとすれば自然の前では、雨粒も人間も同じ。

 長くて広い川の姿が雨粒のひとつずつの集まりであるなら、社会の歯車の一個みたいにちっぽけな存在であるのと、一緒。

 あっても無くても、さほど影響はない。


 だから雨粒は必死になって自分の存在を、その意味を主張してくる。

 傘の表面を叩きつけながら。

 あたしの皮膚や髪を濡らしながら。

 そうやって自分が青い地球の海の一滴であると主張したところで、別に何の意味もないのに――。



「どうしたの、めぐ? 通用口の中に居ればいいのに、なんでそんな雨が当たるとこで待ってたの?」


 終業式とホームルームが済み、いよいよ明日から夏休みに入る田ノ原高校。

 後から教室を出た莉緒は、共に帰る約束をしていた恵の有り様に驚く。


「なんかさ、雨ってずっと見てられるよね?」

「そんなもんかな? 湿気で毛先がウネって前髪が決まらないからあたしは嫌だな」

「莉緒はそう? あたしはけっこう好きかな」

「それにしても今日はめぐから一緒に帰ろうなんて言われてビックリしたよ。ここ最近は学校が終わったらすぐどっかに行くじゃん。それに明後日のお祭りでお党屋当番してる、おばさんやおばあちゃんを手伝わなくていいの?」

「うん、別にあたしはお祭りなんてもう関係ないから」



 莉緒は苦笑しながらも友の顔を見る。

 ここ最近はどこか覇気がなく鬱々としていたと思ったら、今日は妙に晴れやかな顔をしている。


 恵が塾の講義もサボり、悠亮とこそこそ妙な動きをしているうちにすっかり成績を落としてしまい、もはや受験どころではないはずなのは莉緒も把握している。

 二学期の期末テストまでに挽回しないと学校からの内申にも影響が出る。


 なので莉緒には、恵の態度はもはや受験は諦めて自棄になっているようにも思えたし、彼女が妥協して別の進路を模索しているとも思えた。


「あたし、莉緒に会えてよかった。ありがとう」

「ちょっと急に何言い出すのよ、めぐったら」

 突然に感謝を伝える恵の違和感は、まるで永遠の別れを告げるかのようで、莉緒の心の中に小さな波紋が徐々に広がると、次第に不安に侵食されていった。


 彼女はつい先程、教室で別れたばかりのもう一人の幼馴染の男子との会話を、振り返らずにはいられなかった。




「ねぇ、莉緒。今日は一緒に帰ろ?」


 ホームルームを終えて三々五々散っていくクラスメイトに混じり、恵は親友である莉緒に声を掛けた。

 仔細はわからぬが、先程まで悠亮と小声で口論をしていたと思ったら急にこちらに寄ってきた恵を見て、さてはいつもの口喧嘩でもしたのか、と莉緒も納得した。


「めぐがそう言うの珍しいね。ちょっと待ってて。あたし先生に用があるからさ」

「うん、通用口で待ってる」


 教室を出る恵を見送った莉緒は、同じく帰宅の準備を始めていた悠亮の元へと歩み寄る。


「悠亮さ、マジでめぐはだいじょうぶなの? あの子なんかヘンだよ」

「もちろん知ってる。俺もおかしいと思う」

「最近はまた学校が終わったら塾に来ないですぐどっかに行っちゃうからさ、あたしも悪いなと思ってたんだけど一回後を追ってみたの。そしたらさ、水無川のほとりに傘差したまま座ったらずっと独り言いってるんだよ? 隣に誰も居ないのに笑ったり頷いたり身振り手振りしててさ、あれはさすがにあたしもちょっと引いたし、マジでヤバいと思う」


 それを聞かされた悠亮は目を見開くと椅子から立ち上がり莉緒に迫る。


「それホントか! 莉緒には見えないの?」

 むしろ悠亮の反応が想定外であった莉緒は、ぱちぱちと何度も瞬きをする。


「……なにも見えないよ。そういえば交流館で会った時のめぐは何も印刷されてない真っ白な紙をじっと見ながら考え事しててさ。何なの? めぐとあんたには何か見えるの? もしかして消せるサインペンとかで書いてあるとか?」


 これはやや迂闊な発言であったと反省した悠亮は、慌てて取り繕う。

「いや、俺にも何も見えないんだけどさ」

「あたしもだんだんめぐが怖くなってきてさ、お母さんに相談しちゃったもん。それのせいでめぐのおばあちゃん達も厳しくなったのなら余計な事したなって後悔してる。めぐのおばさんや、うちのお母さんからあの子と一緒に居るように言われたから、あたしも強引に塾に誘ってたんだけど。悠亮もこないだ具合が悪くなって補講日にテスト受けてたけど、もしかしてあの子も受験ノイローゼなのかな?」

「あぁ、そうかもしれねぇ」

「ともかくあたしはめぐと一緒に帰るから、悠亮もなんか変わったことあったら教えてね」



 それから莉緒は通用口で待つ友を追って教室を出て行った。

 悠亮は脚に力を無くしたかのように椅子に崩れ落ちると窓の外を見る。


 校庭にはいくつもの大きな水溜まりができていた。

 そこに映る反転した世界は雨粒によって常にその姿を歪められて、いびつな校舎は悠亮の心のように揺れ動く。


「要するに莉緒はあの白無垢を見てねぇからわからねぇんだ。やっぱこれの呪いなんだよ」


 彼は通学カバンの中に手を入れると、いくつかの紙の束をだした。

 御蔵入交流館の図書館で発見した蔵書のコピー。

 恵のようにカラーではなく安価な白黒印刷だが、ずいぶんな時間を掛けてようやく彼が見つけ出したのは、何点かの新聞記事の縮小版であった。



 それはくだんの会津日刊。

 大正十二年、五月某日。

 田ノ原で起きたあるひとつの事故を知らせるものだ。


 それから町に広まる不可解な流行性の疾患。

 当時の名主の家では一族がことごとく病に倒れ、一家断絶の憂き目に遭う。

 更には町の多くの者が亡くなり、ついにはその年のお党屋党本や神社の宮司も病に臥し、祭りの中止を余儀なくされた。


 そして田ノ原は混沌を迎える。


 しかし人の口に戸は立てられない。

 どのような形であれ、その事故と顛末は呪いや祟りのひとつとして田ノ原の後世に畏れられる物語となった。

 表向きは敢えて誰もがその話を語ろうとはしない。

 いつしか町の禁忌として事故ごと秘匿とされたのだが、それでも興味本位で語ろうという者を周囲が諫める。

 山間部の僻地という閉ざされた社会では、何事も出過ぎず目立たず荒立てず。

 時間の経過と事故の風化を待って事実を封印しながらも、祟りを恐れた町民は白無垢を丁重に保管し続けて、今にその姿を残すという矛盾の日々から百年を過ごした。



 根流しはむごいことだ。

 そう諭した僧侶は、実は巨大岩魚が化けていたものだった。

 だとすれば根流しの後に次々と村人が倒れたのは、根流しをされた岩魚の報復だったのかもしれないと思えば悠亮も妙に納得できる。


 それから彼は深い溜息を漏らした。


 普段は家業の客商売もあるし、地元の南部会津弁など田舎者みたいで恥ずかしくて言えずに居た悠亮だが、それでも耳に残っていた祖父母や年老いた先達の言葉が不意に口をついて出た。

 むしろその言葉は田ノ原で生まれ育った自身と先祖の業そのものにも思えるし、実際に田ノ原の記憶としてその事故は残されていたのに、どこか真実味を帯びない百年前の出来事はまるで昔話のようで、語りには方言がよく似合う。



「……かあっぺえりたぁ、むずせぇなぁ」


――川に身を投げるなんて可哀想に。

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