第三十四話
「じゃあね、めぐ。明後日は七行器行列に参加するんでしょ? あたしもけっきょく出る羽目になったから一緒に神社に行こうよ」
「でもうちのおばあちゃん達はお当番してるから、あたしはバラバラに動いてるかもしれないんだよね」
祇園祭の中でも特に準備が大変なのが七行器行列である。
午前八時半過ぎに始まるが、三十人近い女性達の
「そっか。めぐのおばあちゃん達に着付けしてもらうのかぁ。ひとりじゃなんか恥ずかしいから、めぐも一緒にお化粧しようね」
「うーん……」
「『うーん』じゃないよ。あたし一人じゃ寂しいからぜったい来てよね」
それから莉緒は手を振って恵を見送る。
家のすぐ近くまで来たというのに、莉緒はそのまま自宅に向かわずに、旧街道沿いを西町へと歩いてゆく恵の赤い傘をずっと見ていた。
ひとたび降り出した雨は一向に止む気配もなく、七月二十一日の御神酒開きを迎えた。すなわち恵達が櫂入れを行ったどぶろくを桶から上げる日だ。
アルコール度数が一パーセント以上の酒類は自家醸造といえど酒税法の対象となるが、祭りに供される濁酒など販売を目的としない場合は、その限りではない。
なので簡便な品質検査を受けた後はこの日の直会で飲まれ、さらに明日からの祭りに参加した者や観光客にも振る舞われる。
醸造前半は晴天続きで気温も高く、想定より発酵が進んでいたどぶろくだが、週後半からの雨でいくらか落ち着いたようで、鋭く刺すような尖った匂いの奥に甘い香りを放っていた。
拝殿に並ぶ二つの桶を覗き込んだ悠亮と彼の父、杜氏の井上は安堵した表情を浮かべる。
「今年は難しいかなって思ったけど上手くいったね。やっぱ酒造りに同じ環境は二度も無いんだって俺もよくわかったよ」
「ほう、立派なことを言うね。もしかしたら坊っちゃんと佐藤のお嬢さんが櫂入れをした成果かな?」
「結果的にはそうかもしれないっすね。俺もまたひとつ勉強になりましたよ」
その時、社務所の方が騒がしくなった。
お党屋の者達は口々に『アレが消えた』と言っている。
拝殿から見下ろす形で眼前に広がる社務所や倉庫などから、ひっきりなしに境内を移動する人の動きがただならぬ事なのは権現酒造の皆にもよくわかった。
「いったい『アレ』だの何だのってどういう騒ぎだろうね?」
「さぁ、何かが足りなくなったと言ってるようですけど……」
すぐにその状況を察知した悠亮は、近くで状況を確認せずにはいられなかった。
「俺ちょっと社務所を見てくるから、ここ離れるよ」
「あぁ、そうしてくれ」
悠亮は木製の階段を駆け下り靴につま先だけ突っ込むと、飛び跳ねながら左右に片足ずつ踵を入れた。
それからしばらくして拝殿に戻ってきた悠亮は、父達に状況を伝える。
「白無垢が無くなったってさ。例の白無垢だよ。大正時代のやつ」
「いったい何の事を言ってるんだ?」
「知らないフリしててもわかってるって。神社にしまってあったアレだよ」
「さてなぁ。何がしまってあったというんだ?」
父と井上は互いに目を見合わせて息子の発言をやり過ごすつもりであった。
しかし悠亮は父や井上の着る半纏を掴むと必死に訴える。
「俺、あの白無垢を見ちゃったんだよ。あれは病気が流行って祇園祭が中止になった原因でもあるし、そもそも支倉さんちの事故の祟りなんだろ!」
もはやこれ以上、知らぬ存ぜぬで押し通すのは無理だと観念したのか、父は息子の肩に手を置くと静かに語りだした。
「木嶋の家も偶然に酒造りをして、神社の宮司さんや党本たちと昵懇にしていたから聞けた話だと最初に伝えておくぞ。あくまで人づてに伝わるというだけだが確かにお前の言う通りだ。大正時代までの祇園祭は婚礼を控えた女性が七行器の中心を歩いて皆で祝うということだったらしい。未婚と限定されているとはいえ厳密には婚姻する前の女性だ。本来はそういう祝いの場だったんだ」
悠亮の父いわく。
祇園祭の七行器行列では、当年もしくは翌年に婚礼を控えた女性を行列の中心に据え、町と一族の繁栄を祝う冠婚の儀式の一環でもあった。
口伝えなので会津日刊ほど詳細は定かではないが、大正時代のある年、田ノ原の豪商として名を馳せた支倉家の後継ぎの婚約が決まる。
支倉は祇園祭の開催に惜しみない支援を行う、名家としても知られていた。
同じ田ノ原で暮らす婦女子から嫁を取るのでは、との予想を裏切り、跡目を継ぐ彼が選んだのは仕入れ先からの人づてに紹介された娘。
東京府南葛飾郡の亀戸町、すなわち現在の東京都江東区亀戸で和菓子屋を営む家の娘だった。
彼女の名は智津子。
見ず知らずの東京からやってきた娘は一夜にして町の全てを手中に収める名家の嫁となった。彼女の一挙手一投足に注目が集まる。
彼女の発言に全員が耳をそばだてる。
多くの者はやっかみや嫉妬から来る無理筋な批判や皮肉を言う。
東京の人間は田ノ原の常識もわきまえないと色めきだつ。
加えて厳格な支倉の
それでも嫁いだ以上は我が夫のため、家のためにと我慢を続けた智津子だったが、父の死を境に家督を継いだ支倉の息子は突然に大金を手に入れたことで、次第に破滅してゆく。
彼は、町の噂になる程の道楽者になった。
旧街道の宿場町にある遊郭に夜な夜な向かっては酒を飲み、朝まで遊び歩き、家の金を散財する。
智津子がたまに夫を諫めようものなら酔った勢いで手を出す事もあった。
支倉の家業は次第に斜陽になっていった。
孤立無援のなか、彼女は人目を忍んでは水無川のほとりを散策するのが日課になっていた。
雨の日も晴れの日も、使い慣れた日傘を差しながら。
それでも表立って彼女を擁護する者はいない。
彼女の心労を慮り、慰撫する者もいない。
ただ成り行きを見守るだけの、好奇の視線が注がれるばかり。
そんななか、彼女宛に届いた一通の便りを女中が渡した。
東京からであった。
それを受け取った途端、智津子の奇行は更に目立つようになった。
やがて智津子は誰にとも告げず、祇園祭の行列と婚礼の儀で着用した白無垢を持参すると、それを着て水無川に入水した。
唯一の心の支えであった愛猫を胸に抱いて。
「……ということだ。田ノ原の記録にも残っていないが、ほぼ間違いないだろう」
「なんで親父はそんなに白無垢の由来に詳しいわけ?」
「そもそも支倉と木嶋は縁戚にあたる。明治初期に独立分家して酒造りに特化したのが木嶋のご先祖だったからだ。いわば本家が潰えてしまった今、こうして我々がここに在るのはありがたいことなんだよ」
悠亮は父の言葉に強い衝撃と眩暈を覚えた。
まるで突然に頭を鈍器で殴られたかのように。
智津子を死に追いやった田ノ原の業を背負う自分は、断絶した支倉家とも血が繋がるという事実が、智津子とも遠縁にあたることが、にわかに信じられなかった。
「結局その年の祇園祭は中止。翌年からは宇迦神社が主催し、お党屋や氏子衆が直接運営する形に変えて祭りを再開したという訳だろう」
「……なにそれ? それでこの町の連中は贖罪になってるつもりなの?」
「そんなバカなことがあるか」
「震災でもコロナでも祭りは形を変えてでも維持しようっていうくせに、その前にあったことも全部ゼロになったつもりでいるのかよ? むしろ祭りが無くなって困ったもんだって被害者ヅラしてるのかよ!」
「違う! 悠亮、落ち着きなさい!」
明らかに狼狽している息子を見るなり、彼の父はその肩を掴むと大きく揺すった。
「あれを敢えて神社に残しているのは慰霊や鎮魂でもあるんだ。そして田ノ原が背負った業を現わすものでもある。無論、幾度も処分しようとした。しかし祟りを恐れた人によって後世に残されたんだ」
「あんな暗い倉庫の奥に押し込めて、慰霊だ鎮魂だっておかしいに決まってる!」
「だからお前の言う『あんな暗い倉庫の奥』にあったのだろう!」
「……マジで祟りがあったの? ホントに『岩魚の怪』みたいに人がバタバタ倒れたの?」
しばらくは父の発言の真意を掴み切れなかった悠亮は口をぽかんと開けていたが、息子の目を見据えた彼が静かに問いただす。
「いいか悠亮。俺もお前と同じで呪いだ祟りだなんて信じたくはない。俺も怖いものが苦手だからな。しかしただならぬ事が実際に起きたから封印していたのも事実なんだ。これまで何度も処分しようという話になったと言っただろう。その度に無かった話にしたのだ。実際に見たお前は大丈夫なのか?」
「全然大丈夫じゃない。あれを見てから俺も気が狂いそうになった」
「とにかくすぐ宮司さんにお願いして、お祓いして貰おう。それと念のために聞いておくが、白無垢を見たのはお前だけか?」
「……えっ?」
「もう一度言うぞ。白無垢を見たのはお前だけかって聞いているんだ」
じきに父の言う意味を理解した悠亮には即座に思い浮かぶ顔があった。
「……めぐみぃっ!」
言うが早いか、悠亮は転げ落ちるように拝殿の階段を下ると一目散に駆け出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます