第三十二話
蔵の倉庫から母屋の自室に戻っていた悠亮は、ベッドの上にあぐらをかくと、あらかじめ撮影しておいたスマートフォンの画像を真剣に見ていた。
時に画像を拡大し指でスライドさせては、帳簿に書かれた文字を読み解く。
「東京府南葛飾郡亀戸町、かめいど、かめいど……」
悠亮は呪文のように何度も繰り返し呟きながら、スマートフォンの画像と睨めっこをしている。
深い思索に迷い込むうちに、長時間放置された掌のスマートフォンが省電力モードに切り替わり、暗い画面に呆けた自身の顔が反射しているのにも気づかずに、一点を見つめていた。
すると先程はじっくり読む時間が無かったので気付かなかったが、帳簿にある一文が目に留まった。
「ここの令夫人、支倉智津子様……智津子ってどっかで聞いたような」
ここ最近、自分の周りで起きた不可解な出来事の記憶を手繰り寄せた。
やがて瞼の裏には恵が姿を現す。
彼女と会話をした幾つもの場面が忙しなく明滅する。
『あのね、智津子ちゃん。これが同じ学校の……』
『えぇ。権現酒造の子ね』
『なんだ、智津子ちゃんは悠亮のこと知ってるんだ?』
「マジかよ。もしかしてあの日傘の子は……」
悠亮は確信に近い何かを掴む。
心の靄が晴れた合図とばかりに指を鳴らすも、水無川のほとりに座った日傘の彼女のことを思い出すと、今度は自分の身体に長い髪が巻き付いているのではと錯覚し、咄嗟に全身のあちこちを見回した。
それも思い違いだと知ると、ようやく胸を撫で下ろす。
神社に封印されていた白無垢を見てから自分は幻覚に悩まされ、恵に対する感情や距離感も徐々に壊れていった。
正確な理由はわからない。
しかしこれ以上に明確な現象は無い。
悠亮は部屋のドアを勢いよく開けると玄関を抜けて自転車に飛び乗り、図書館に向けて駆け出した。
時を少し戻して、悠亮の見舞いを終えた恵は、自転車を走らせて水無川までやってきた。
ここ最近はテスト勉強もあったので智津子にも会えずにいた。
それはもちろん莉緒の監視が厳しくなったというのもある。
放課後には半ば強制的に塾へと連れられる。
にも関わらず先に返却された数科目のテストでは点数を大きく下げた。
今日のテストも芳しくない。
たぶん明日も期待はできない。
何より、先日の悠亮との会話の中で自分には大した目標や進路も無く、ただ単純に田ノ原は居心地が悪いから、どこか県外の大学を適当に目指して一人暮らしをするという理由が成立するのだろうかと自問していた。
確かに彼には継ぐべき家業があるが、目指したい物も無い自分が何かを目指したところで中途半端になってしまったり途中で投げ出したり、悠亮の指摘通りふらふらとして時間を無為に過ごしてしまうのではないかという悩みもある。
水無川のほとりには以前と同じように智津子が座っていた。
移動の間も考えに夢中になり気づかずにいたが、恵が空を見上げると薄い雲が重なり合い次第にその姿を厚くしていた。
もはや智津子の傘は何の役目も与えられていないが、それでも彼女は日傘でも雨傘でも無くなったそれを肩に掛けながら川を見つめる。
「またここに来てくれたのね」
やはり智津子は振り返りもせず、だが確実に恵の耳に届く玲瓏とした声で語り掛けてきた。
「うん、なんかまた急に智津子ちゃんの顔が見たくなってさ」
改めて彼女の隣に腰を下ろした恵は、靴下に付着したイネ科の雑草と思われる実を指でつまんでいた。
「今日の恵はなんだかずいぶん元気がないのね?」
「いくつか帰ってきたテストの結果はさんざんだった。このままだと他の科目も期待できないし全体の成績も落ちてると思う。あたし悠亮のこともう馬鹿にできないよ。やっぱ目標の無いあたしはこの程度の人間だし、田ノ原で暮らしながら若松の大学に行くか、それすらダメなら予備校に行くしかないんだ」
「随分と思い詰めているのね」
「そりゃそうでしょ。学生は勉強が仕事みたいなものだって悠亮も言ってたのに、それが上手くいかなかったらやっぱショックだもん。それにもし受験で失敗したらこのまま田ノ原に居続けることになっちゃう」
「それは恵が他人から言われた事を素直に聞いているからよ。ただ鵜呑みにするだけでは、自分の価値観を変えるなんて出来ないわ」
すると智津子は隣に座る恵に掌を差し出した。
桜色の小さな爪、華奢な指、そして彼女の着るワンピースや日傘にも負けず劣らず澄み切る透明な肌。
「わたしは自分で自分の殻を破ってみせたわ。だから恵にも出来ると思う」
まるで催促されたように、その手を握り返さずにはいられない恵だった。
互いの肌が触れ合うと、脳の奥深くに仕舞い込んだ記憶の箱からあらゆる風景の断片が堰を切ったように溢れ出てくる。
田ノ原で暮らし始めた日々、それ以前の横浜での暮らし。
秦野の祖父母、そしてここ田ノ原の祖父母。
幼稚園、小学校、中学校。
幼き頃に見た田ノ原の祖父の葬儀。
失敗し、注意され、恥をかき、堪えては泣き、怒り、苦しみ、悩み、呆れた多くの出来事。
時間が心の傷を癒すと言うのならば、それは単に忘れただけのことで、決して心の痣は消えない。
そうして癒えたと錯覚した古傷が、ふとした瞬間に痛むこともある。
似た体験から、過去の忌まわしい思い出まで呼び起こしてしまうこともある。
しかしそれは単に自分だけが負うべき咎ではない。
田ノ原が招いたことだ。
余所者の自分が人々の耳目を集め、常に監視されているようで、疎外感に苛まれているのも当然であろう。全ては彼らの行動によるものだ。
なので自分は――。
「だからあたしは……」
知らぬ間に、目を閉じて思うままに言葉を出す恵。
その間も智津子の右手はしっかりと握り返されていた。
今日の彼女は以前とは異なり、柔らかな肌には確かな温もりが伝わってくる。
「恵はどうするの? 心の中の自分に問いかけてみて。早く自由になりたいと思わない?」
「……思う」
「試験の結果や人生の進路や仕事の有無で評価されることが疎ましくない?」
「うん、面倒くさい」
「ご覧なさい、恵」
内面の奥深く、心の深淵に向けられた意識は智津子の声で呼び戻される。
いつの間にか辺りには水音が聞こえていた。
水無川に水が流れている。
おそらく上流では既に降雨があったのであろう。
見慣れたいつもの寡黙な清流とは程遠い、土色に濁った水がまだ僅かではあるが、干上がった川底の石を濡らして水量を増やしながらも、その姿を肥大化させてゆく。
するとぽつぽつと雨粒が智津子の日傘の上で踊る音がし始めた。
この田ノ原上空も、じきに本降りになりそうな空模様。
黒雲は徐々に山裾から広がり、高原の盆地を舐め尽くす。
「またこの水無川へいらっしゃい。ここがあなたの帰るところだから」
そう言うと智津子は傘を閉じた。
せっかく雨が降り出したのだから、別に陽射しを避けるためではなく本来の機能として用いてもよさそうなものだが、敢えて彼女がその端正な顔を、長い髪を、白い肌を露にした。
「あなたは水の中に居る魚よ。もっと自由に泳ぐべきなの」
「あたしはもっと自由に?」
「そうよ。自由になれる権利があるわ」
座ったままの恵を見据えた智津子の瞳が怪しく光る。
「例の『アレ』を用意しておきなさい、恵」
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