ふたつの震災

第三十六話

「気付いたら水無川に居たの。その途中は全然憶えてなくて。神社からどうやって白無垢を運んで、あそこまで向かったのかも記憶が無いの」

「ホントに何も憶えてなかったのか」

「でもその間も、いろんな景色は見えてた。レンガ造りの建物とか木造の家だらけの町、和菓子屋さんとか祇園祭とか、立派なお屋敷でやってたお葬式も」

「あぁな。それな……」


 彼女は白無垢を通して智津子の記憶に触れていたのだろうことは、悠亮もすぐにわかった。


「あとね、小っちゃい頃からずっと一緒だった男の子。すごくカッコよくていつも笑顔で」

「ず、ずっと一緒の男?」


 その男子が智津子の想い人だというのも悠亮は知っている。

 それでも、田ノ原にやって来る前の秦野や横浜時代に居た恵の男友達だろうか、と勘ぐってしまい、今の彼は素直に恵への嫉妬で心が乱れてしまうのだった。

 ここは飲んで、酸いも甘いも酔って忘れて誤魔化そうと、気持ちだけでも大人に近づいたつもりで甘酒を一服する。


「いつもみんながあたしを注目する、何をしてもヒソヒソと言ってる気がする、田ノ原のしきたりを守らないと村八分になる、そんな気持ちばっかりだった」


 これは常日頃、恵が言っていた部分と智津子の苦悩が重なったようで悠亮も改めて後悔する。

 過干渉と価値観の強要を田ノ原では『人情』と呼んでいた気すらした。


「旦那さんはいつもお酒を飲んで酔っ払って、たまに暴力を振るったりもする。でも誰も助けてくれない。ひどいことをしてきた支倉のみんなだけじゃない。見て見ぬふりをしてきた田ノ原に対しても滅茶苦茶にしてやろうって、もう涙なんか枯れたはずなのにそれでも泣いてばかりで、そんな智津子ちゃんの声を聴いてたらあたしも胸が苦しくなってさ……」



 そこまで言って深く息を吐き切ると恵は、悠亮のジャージの裾を掴んだ。

 いつもの幼馴染同士が子供の頃から無自覚に行ってきた、彼への要求でもあり信頼の証。


「でも遠くから悠亮の声が聞こえてきて、悠亮はあたしのこと、すごい必死に呼んでた。それにお母さん達や莉緒やクラスのみんなの顔が浮かんだから、智津子ちゃんに『あたしを待ってる人がいるからゴメンね』って謝ったの。そしたら……」



 白無垢の呪縛は解けた。

 水無川に棲む岩魚の精は、仲間として恵を引きずり込もうとした。

 しかしそれは叶わなかった。

 智津子と恵には決定的な違いがあった。

 恵は独りではなかった。

 支えてくれる多くの仲間が居た。



「もしさ、智津子ちゃんが世間の目なんか気にしないで、今の女の人みたいに支倉の家と離縁して自由気ままに生きられたら、田ノ原なんかさっさと捨てて東京に残してきた彼氏の元に帰れたらって思うとさ」

「もう少し早けりゃ良かったけど、それも叶わなかったわけだろ? たぶんあの子が手紙で知らされた時には、その彼氏って……」

「うん、だけど智津子ちゃんは直接自分の目で見るまでは絶対信じてなかった。手紙を読んでも諦めきれなかったみたいで、東京に帰る方法をずっと考えてたの。だからせめて実家に帰れたら、もっと違った未来になってたかもしれないけど」


 だが仮に東京に戻れたとしても同年、大正十二年の九月一日には関東大震災が待っている。

 新たなランドマークとして東京府東京市浅草区に建造され、文明開化の象徴でもあった展望塔、凌雲閣は震災により崩落、解体を余儀なくされた。

 奇しくもその階層は十二。

 東日本大震災から十二年を経た、今からちょうど百年前――。



 悠亮も彼なりの手段であちこち調べてみたが、智津子の実家であった和菓子屋がその後どうなったのかはわからなかった。

 さらに太平洋戦争末期の昭和二十年三月十日を皮切りに、東京大空襲が発生する。


 では果たして智津子が郷里に戻ったとして、幸せになれただろうか。

 既に想い人が居ない東京に戻る意味があるのか。

 彼女の未来には常に不幸しか待っていない運命だったのではないか。


 そう思うだけで恵は胸を締め付けられるようであった。



 恵は両の掌の中にある甘酒の入ったコップをしっかりと握り締める。

 指先から伝わる熱も徐々に冷めてきて、湯気が少なくなったコップを相変わらず揺すったり回したりするだけで、彼女は一向に口をつけずにいた。


「さぁ、冷めないうちに飲んでみろって。アルコールはほとんど入ってねぇよ」


 悠亮は自分のものをごくりと飲み干してみせる。

それでも躊躇する恵に彼はこれまでのように軽口を叩いたり、相手を急かしたりすることなく彼女のペースで事を為すよう、じっと待ち続けた。


「やっぱ恵は酒が嫌いなの?」

「うん、おじいちゃんのお葬式でさ」

「あぁ確かになぁ。恵がここに来る前、佐藤のじいさんには俺もガキの頃、良くしてもらったよ。葬式って少し悲しいもんな」

「そうじゃなくて、おじいちゃんのお葬式に来た人達のこと」



 祖父の最期を見送るために会葬しに来たくせに、大人はみんな酒を飲み、酔っ払って大きな声で笑い、好き勝手に興じる。

 セレモニーホールの会食場はとても賑々しく、先程までの湿っぽい雰囲気はどこに行ったのかという様相だったが、幼い恵が歩き回ると、本葬を行う祭壇の間でぽつんと置かれた棺の中で眠る祖父が、ひとりぼっちにされて放ったらかしで、可哀想に思えた。


「それは酒のせいだけじゃないと俺は思うな。佐藤のじいさんが繋いだ人の縁だし、生前の行いをみんな知ってるから、じいさんが好きだった話をして、じいさんの思い出を振り返ってたんだ。みんなも寂しいし心の中で泣いてる人も居たと思う。だから大人って弱ってる時や嫌な事があった時は飲まずにはいられないんだと思うよ。そういう場を醸す酒がひとつくらいあっても、いいんじゃないか?」

「そんなのおじいちゃんに聞いてみないとわかんないよ」

「だって自分の最期にわざわざお別れしたいって大勢の人が集まってくれたんだぜ? そりゃあ嬉しいに決まってるって」

「もちろんそうだといいけどさ」



 しかし恵との対話で、悠亮もひとつの思い出を手繰り寄せていた。

 祖父の葬儀では同じ年頃の者が居なくて、寂しい想いをしているであろう孫娘に寄り添うように親から言い付けられた彼は、恵を誘って昔話を披露する。


 そのうちのひとつが『岩魚の怪』であった。


 この出来事を恵はすっかりと忘れており、かつ悠亮自身もてっきり小学校の始業式か何かだと勘違いしていた。

 互いに黒い一張羅であるとすれば、それは喪服だったのでは、とすぐに気づく。


 そこでようやく記憶の霧が晴れた悠亮は膝を叩いた。

 それから見知らぬ田ノ原の町で一人で鬱々と過ごしていた、あの時のセレモニーホールの少女に改めて向き合う。


「甘酒は日本酒を絞った後の粕で作ってるんだ。ただ廃棄するだけじゃなくて甘酒や魚の粕漬けみたいに、出来る限りのものを再利用してるんだよ。自然から分けて貰ったものを無駄にしない日本人らしくて俺は好きだけどな」



 そこまで言われると、恵も無下にはできない。

 いちおうは助けてくれた恩もあるので、彼の勧めるとおり甘酒をひとくち飲む。


「……すごい甘い、それに美味しい」

「だろ?」


 まるで子供が親に褒められたように無垢に笑う悠亮。

 時間が流れればいつまでも少年少女のままでは居られない。

 それでもやはり恵にとっては、いくつになっても悠亮は悠亮のままであった。


 いつも自分の事を気にして、田ノ原の視線から守ってくれる頼れる友。

 甘酒はたった一夜にして醸されるが、長い付き合いの中で次第に熟成されてゆく関係も悪いものじゃない。


 恵もそんな彼の素直な反応が面白くもあり嬉しくもある。

 なにせ水無川で記憶を戻す前後に、悠亮の声がはっきりと聞き取れたから。


 智津子と想い通じていた東京の青年の姿と重なったのは、隣に居る男子。

 小さい頃からずっと一緒で、いつも自分のために奔走してくれる。

 敢えて彼を男子として意識してこなかった恵も、知らぬ間に逞しくなった彼を見ているうちに、あの時の声を思い出してしまい、どこか照れ臭い気がしてしまう。


 なので敢えて視線を逸らしていると、その先には自分の好きなものが見えた。


「あっ、ほら。あそこ見て」

 恵は空を指し示す。

「なんだ、雨がやんでるじゃん」


 あの騒動の中で悠亮は天候など全く気付かずにいたが、知らぬ間に雨は収まり闇夜に浮かぶ雲の隙間からは、月光と星の輝きが降り注いでいた。


「やっぱ田ノ原って星空がキレイだね」

「あぁ、俺もそう思う」



 二人の頭上には数々の星の瞬き。

 その姿を照らすのは、いつでも近くに居てくれて、互いの影を消すように輝き合う幼馴染。


 短い梅雨を終えた田ノ原に再び月明かりが戻った。

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