第二十八話

 悠亮に言われるがまま杉製の棒を握った恵は、おざなりに濁酒の中に突っ込む。

 その様を見ていた彼は、すぐに恵を叱責した。


「おいおい。ちゃんと櫂棒を立てるようにして、内側の奥まで入れたら手前に向けて引き上げるようにして掻き回すんだよ」

「こんな感じ?」

「ダメダメ。糖化した米を櫂棒で潰すんじゃない。もっと液体そのものを混ぜるような感じでやるんだ」

「だって混ぜるだけでしょ? どんなやり方でも一緒じゃないの?」

「酒の熟成を一定にさせるためだよ」



 仕込み桶の中では酒米のデンプンが麹菌によって徐々に糖化されて糖分に変わり、その糖分を元に酵母が発酵されていくことでアルコールへと変化する。


 平日のため学校に行っていた悠亮は見学することも叶わないが、毎年祇園祭の開催から十日前にあたる七月十二日には、濁酒の仕込み神事が執り行われた。

 その日はお党屋当番の者達が権現酒造に集合して、酒米を蒸し、麴を与え、水を汲み、神社に持参する。


 神社では二個のドラム缶の桶に既定の量の原料を入れて、十日間発酵させる。

 祇園祭に供される濁酒の仕込み量は九斗九合――およそ一七.八リットルと定められている。

 それを大きなふたつの桶で、権現酒造で用意された酒米、麹菌、さらには地元の山から引いた湧水を用いて作られる。

 水や米の分量も細かく規定されており、八百年に及ぶ祭りそのものの歴史の長さを窺えるものだ。



「発酵が進むと桶の真ん中で酒は熱を発するんだよ。あんまし高熱になると、酵母の働きが悪くなってアルコール度数は下がる。それにそのままにしておくと炭酸ガスの泡の膜が出来て酸欠で麹菌がダメになる。そういうムラが無くなるように、櫂入れは桶の中の熱が均等になるようになるべく桶の外から内側に向けて、あとは酸素が入って発酵が進むように、上下もしっかりと底の方と浅いところを混ぜていくんだよ」


 そこまで説明をした悠亮は、自身が持つ櫂棒をぐっと桶の中に挿し込むと、水面に向けて引き上げた。

 その際に表面に出来た泡が、細かい音を立てて消えてゆく。


「今度は斜めに挿して、桶の周囲と内側を混ぜてく。外側の冷たい部分と、発酵が進んで熱を持ってる内側のもとを混ぜていくんだ。酒米を潰さないように優しくな」


 恵は隣の桶で、悠亮の見よう見まねで同じ動作をする。

「ねぇ、これ一日一回なんでしょ? なんでこんなに大変なの?」

「当たり前だろ。日に一回ってだけで『一度きり』で終わるんじゃないからな。櫂入れってのは時間と体力が要るんだよ」



 それからしばらくは無言で櫂棒を幾度も濁酒の中に突き刺していた二人だが、恵は自分の担当した桶と悠亮が櫂入れした隣のものを見比べる。


「なんか悠亮の方はずいぶん泡が消えてるじゃない。どうやったの?」

「米を潰さずに泡を潰す感覚でやってみろよ。いいか? まずはこれをこうやって入れるだろ?」


 得意そうに悠亮は、再び櫂棒を濁酒の中に沈めた。

「そんでこんな風に棒を斜めにしたら『外から内、下から上に』を意識して……」


 桶の奥底まで沈めた櫂棒を一気に引き上げる。

「……っ!」


 その先端に絡まるのは大量の長髪。


 桶の底から発酵で生じた炭酸ガスに乗って毛髪が浮かび上がる。

 どろりとした酒の感触はまるで川底の汚泥のようであり、櫂棒に纏わりついたそれは白濁した液体と深い闇に似た漆黒が不気味なコントラストを描く。



「うわあぁっ!」


 背を大きく反らした悠亮はバランスを崩して、拝殿の木床に尻をしたたか打った。

「いってぇ、まただよ……いったい何だってんだよ、最近」

 注連縄が結ばれたどぶろく用の桶に、しがみつくように上体を起こした悠亮は、すっかりと顔を青ざめさせて小刻みに震えている。


「どうしたの悠亮? ちょっと大丈夫?」

「これが大丈夫な訳ないだろ!」

「それよりも悠亮がドラム缶を抱いて温めたら、発酵が進んじゃうんじゃないの?」

「そんな事はいいから、仕込み桶の中を見てみろよ!」



 悠亮に言われるがまま、恵は挿さっていた櫂棒をゆっくりと持ち上げてみた。

 それに合わせて液体の中からぷくぷくと小さな泡が立つが、特段の異常は無い。


「もしかしてどぶろくを失敗しちゃったの? ここんとこ暑かったから腐ってた?」

「火落ち以上に恐ろしいもんがあるだろ、桶の中に」

「中って……別になんにもないよ」


 未だ桶にしがみついていた悠亮は恐る恐る腰を浮かせて、その中を覗き込む。

 確かに恵が言う通りに、見たところは何の変哲もない濁酒だった。


「俺もう、やだよ。いったいどうしちゃったっつーんだろ?」

「まさか受験ノイローゼ? それとも勉強が、はかどらないストレスじゃないの? あんまり期末テストの事で悩まない方がいいんじゃない?」

「うん、恵の言う通りかもしれねぇな。俺、考え過ぎみたいだ」



 知らぬ間にしっかりと握り締めていた桶に結わかれた注連縄を頼りに、よろりと力無く立ち上がった彼は、まるで老人のように櫂棒を支えにしている。


「これで終わりにしよう。俺もう暗くなる前に家に帰りたいもん。マジで怖いわ」


 先程とは打って変わって悠亮は覇気を無くし、途端に老人から拗ねる子供になった。


「酒蔵の息子がそんなこと言っていいの? 掻き回すのに時間が要るって言ったばっかでしょ。責任とりなよ」

「俺達の責任は充分果たしたと言えると思うよ」

「あんたがそれで良いっていうなら別にあたしは構わないから帰ろうよ。でもこれでどぶろくが不味くなったら、悠亮が手伝ったせいだって、蔵や町の人から笑われるだけだね」


 先祖が繋いだ蔵の看板は今の彼には責任や重圧もあるものの、毎年冬に掲げられる杉玉は、彼の蔵への自信の現れでもある。

 いつの日か自分も蔵人の一員として酒造りに参加するためには、十日前後で仕込みが終わる濁酒とはいえ、級友の女子に茶化されて黙ってはいられない。

 恐怖を振り払えたのは酒造りに携わるという将来へ向けての一心だった。


「ちくしょう、さっさと終わらせて帰ろうぜ」


 途端に発奮すると懸命に櫂棒を握り、酒と対話する悠亮。

 対する恵にそこまでの思慮は無く、別に彼を鼓舞したり発破をかけるつもりで敢えてきつい言い方をした訳でもない。

 いつも悠亮には言われっぱなしなのでたまには仕返ししてやろうと思ったまでのことだ。とは言っても大抵は口火を切った彼が逆襲されたり、手酷い目に遭っているのだが。

 なので恵には急に彼がやる気になったように見えたから、それはそれで自分の発言が堕落する友への叱責として実を結んだのならば良しとする。


 そんな彼の表情を恵は横目に見る。

 その顔は西日に照らされて普段よりも凛々しく見えた。当然ながら一人前の蔵人とは呼べる年齢でもないが、彼の見据える先には目指すべき未来の広がる地平がある。

 一方の自分はどうであろうかと考えれば、むしろ彼を叱責している場合ではないのもわかる。



 間もなくに迫る進路や将来のその先を知る友に対して、恵は想い馳せる。

 悠亮にはどんな景色が見えているのだろう――。

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