百年前の禍

濁酒仕込神事

第二十七話

 予定の半分まで期末テストを終えた、折り返しとなる土曜の午後。


 権現酒造の店先を悠亮は箒で掃き清めていた。

 先を見ればまだ二学期、三学期の定期テストや本命となる大学共通テストも控えているが、肩の荷が半分降りた彼は、表情も明るく動きも軽やかだ。

 冬には青々としていた軒先の杉玉は次第に枯れ始め、淡緑へと変わり始める。


「やれやれ、いつ掃除しても汚れてくよな」


 そうぼやきながら、悠亮は腕を伸ばして杉玉や軒下に張られた蜘蛛の巣を払う。

 テスト期間中なので塾の講義は無い。

 しかし自習室は常に開放されているので夕方くらいにはそちらに向かうつもりで、それまでは店番のアルバイトをしながら勉強していた。



 何でもない普段の日常であったはずの彼の目の前に現れたのは、ここ最近の非日常の代名詞とも言える恵の姿だ。

 悠亮はさほど驚くことも無く、彼女の方を一瞥すると杉玉を払う手を止めた。

「なんだ、また来たのか。お前もホント物好きだな」


 だが恵はなんとも浮かない顔をしている。

 そうかと思えば途端に腹を立てたように悠亮をじっと睨む。


「さっそく返ってきたテストの点数がすごい落ちてたの」

「そりゃそうだろうな。恵は全然勉強してなかったんだろ? 俺は上々だったぜ」

「だから点数が落ちたの悠亮のせいだよ」

「はあっ? お前そりゃ完全な言い掛かりだろ!」

「悠亮が例の白無垢の謎解きを手伝ってくれないからでしょ?」

「俺ら探偵じゃなくて学生だぞ? 主な仕事は謎解きじゃなくて勉強だろ。テストの後だって構わないじゃん。何を勘違いして、そんなに焦ってるんだよ」

「早くしないと忌まわしい記憶が薄れていっちゃうじゃない!」

「そんなのさっさと薄らいでくれて構わねぇよ。忌まわしい記憶が靴を履いて逃げてく訳じゃないっつーのに、さすがにお前ここんとこちょっとおかしいぜ? もう進学するのは諦めて、素直に留年する理由を探した方がいいんじゃね?」


 散々な言われように頬を膨らませた恵は、サンダル履きの悠亮の足を踏みつける。


「いってぇ! 俺、裸足だぞ!」


 なので恵は甲バンドに覆われた部分を丁寧に踏み抜いた。

 彼女なりに手心を加えたつもりだ。


「悠亮はそうやってすぐ、いじわるを言うからでしょ?」

「お前がフラフラして勉強もしないで勝手に成績を落としたくせに、それを俺のせいにするんじゃねぇよ!」



 口喧嘩をする二人が知らぬ間に、店の奥からは暖簾をくぐり抜けた、長身で細身の壮年の男性が出てきていた。

 ずいぶんと目立つ白の肌着の上には紺色の蔵の半纏、頭には白いタオルを巻いている。

 いかにも職人然とした、いで立ち。

 だがまるで我が家のように店の中も歩き回る。

 それもそのはずで彼はここ権現酒造に勤める蔵人を束ねる杜氏であり、祇園祭ではどぶろく造りの指南をしている熟練の職人だ。

 悠亮の親族ではないが、両親や祖父母と同じく彼が生まれたばかりの赤ん坊だった頃を知る者でもある。


 杜氏は自動ドアを開けると、通りに立って賑やかに会話する二人に声を掛けた。

「いったい店先で何の騒ぎかと思ったら、坊っちゃんと佐藤さんとこのお嬢さんか。男のくせに女性に対してそういう物言いをするってのは感心できないな」

「違うんすよ、井上さん。こいつがまた俺に難癖を……」

「後から言い訳がましく、あれこれ言うのも賛同しかねるね。蔵人たるもの醸した場の空気も全て手前てめぇの仕事の結果だよ」


 地元企業としての権現酒造を見れば、悠亮は立派な社長御曹司である。

 しかしそれ以前に自分のオムツを替えてくれたという井上には頭が上がらない。


「いや、それはひでぇっす! 井上さん、俺は冤罪っすよ!」

「さぁ坊っちゃんと佐藤さんのお嬢さんの喧嘩なら俺も看過できないし、仲直りして貰わないと俺も社長に顔が立たないんだ。さて、どうする?」


 顎の無精ひげを撫でながら不敵に笑う杜氏、井上に強烈な既視感を覚えた恵と悠亮は互いの顔を見返す。




「それでどうしてこんなことになってるのよ、あたしったら」

「ほら、ブツブツ文句言ってねぇで、さっさと手伝えよ」

 髪を手櫛で梳きつつも不満を漏らす恵の腐った様子は、言葉の端々からわかる。

 なので悠亮も敢えて恵の方を振り返ったりはせず、桶の中を覗きながら背中越しに幼馴染を叱責した。



 日没が迫る宇迦神社の境内。

 拝殿の一角には、どぶろくを仕込んだふたつの桶が並んでいる。

 桶といっても木製ではなく巨大なドラム缶の蓋を外しただけものだ。

 杜氏・井上からの言い付けで、祇園祭に供されるどぶろくの仕上がりを二人は見に来ていた。


 仕込んだ日本酒は定期的に『櫂入かいいれ』と呼ばれる攪拌かくはんを行う必要がある。

 以前は党屋組から二人が交代で神社に待機し、昼夜を問わず櫂入れを行っていた。

 しかし新型コロナウイルス感染拡大で規模を縮小した三年間の祭りの間に、権現酒造の蔵人が酒の面倒を見る方法に変更され、櫂入れも日に一度となった。

 それをまんまと恵たちに託された形になったのだ。



「だいたい、この御神酒おみき仕込みって女人禁制でしょ? あたしがここに居たらマズいんじゃないの?」

「俺が居るんだから、広い意味で権現酒造の仕事ってことでいいじゃん」

「だとしたら全責任を権現酒造さんが負ってよね」

「ここまできたら、やるしかないだろ。何をそんなに嫌がってるんだよ」

「お正月にやる『大盃回し』とか、このどぶろくを飲むとか、お祭りを理由に大人が楽しそうに酔っ払ってるだけじゃない。それで神様は喜ぶと思うの?」

「さっきうちの杜氏も似たようなことを言ってたろ。蔵人は酒を醸して、酒は場を醸す。そりゃ俺たち未成年から見たら、大人が酔っ払って騒いでワイワイやってるだけかもしれないけど、場が和んでみんなが笑顔になるのは酒の力でもあるんだよ」


 どうにも腑に落ちない恵だったが、そんな彼女の返事を待たず悠亮は杉製の長い棒を手に取る。


「さっ、ダラダラしててもしょうがないから始めようぜ」

「ねぇそれよりさ、悠亮は蔵のみんなに『坊っちゃん』って呼ばれてるの?」

「はあっ? そんなの今はどうでもいいじゃん。関係ねぇだろ!」

「あらまぁ、野蛮な言葉遣いはいけませんわよ、お坊っちゃま」



 痛いところを突かれた彼は、瀟洒なメイドの振りをした恵の茶化す視線から逃れるように、桶の中を覗き込む。

 高校生で修行中の半人前といえど、すぐに彼の表情は蔵人と同じそれに変わった。


 悠亮はぷくぷくと小さな泡を立てる桶の中にある乳白色の液体を見ながら呟く。


「うーん、やっぱ今年の空梅雨のせいかなぁ。気温が高い日が続いたから思ったよりも発酵が進んでるな」

「そこまで言うほど変わるものなの?」

「本来の蔵はだいたい十度前後の、ひんやりとしたところで酒を醸すんだ」

「そんなことまで気にして意味あるの? 悠亮んとこの蔵のお酒とは作り方も違うんでしょ? たった十日くらいで出来上がるお酒なんだから適当でいいじゃない」

「たった十日だからこそこうやって世話してんだろ? 神様に供えるものだぞ。適当にやって済ませるわけにはいかねぇだろ。せめて美味いものが出来て欲しいに決まってるじゃん」

「悠亮はまだ高校生のアマチュアじゃない。日本酒だって飲めないのに、どうやって美味しいものがわかるの? お店番してる時にお客さんに訊かれたらどんな説明してるの?」

「そりゃまぁ、俺も親父や蔵のみんなが言ってる話をそのまま伝えるだけなんだけどさ……」



 苦々しく堅い笑みを浮かべながら悠亮は再び桶に視線を落とした。

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