第二十六話

 晴天が続く田ノ原の日曜午後。

 悠亮の家の酒蔵は夏限定の新商品を発売したばかりで、次の出荷を控えた秋あがりの原酒を巨大なタンクで眠らせている。


 その僅かな季節の合間で皆は平穏な時を過ごしていた。

 祇園祭に供されるどぶろくの仕込みが始まれば、またにわかに忙しくなる。

 その前に仕事に追われて手つかずであった雑用を済ませようと、彼の父や杜氏、蔵人達は余す時間で倉庫の整理を行っていた。



 もちろん神事で使用する、どぶろくの用具類を準備するためでもある。

 そんな蔵人達の中に混ざり、幾度も薄気味悪い体験をした悠亮は皆と共に汗を流していた。


 酒造りは全てが技術と経験が物を言う職人の世界。

 悠亮も将来この蔵を継ぐと決めた日には、一番格下の新入社員でもある。

 なので一番勤勉に手伝いをしている訳ではない。

 身体を動かしていないと余計な思考で頭を埋め尽くされ、エアコンの冷気すら恐怖に感じてしまう程の体験をしたからだ。



 米だけでなく自身も削れてゆく――。

 酒造りにおける苦労を笑う喩えのひとつであり、昼夜を違わず酒につききりで勤務しているはずの手練れの蔵人たちも、何故か単なる肉体労働には悲鳴を上げる。

 だから若い身空の自分が率先して動くしかなかった。

 仕事と作業。

 彼にその差が理解できる日が来るのはまだ少し先のことだ。

 しかし悠亮には単純に、日中に疲れてしまえば夜は安眠できるだろう、という淡い願いもあった。


 暑さと疲れから腰と肩を叩きながら、悠亮の父は息子に指示をした。

「とりあえずこの茶箱を移動させて場所を空けるんだ」

「このあたりのやつね?」


 桐でできた大きな箱の内側には新聞紙を貼り付け、蓋の内側はトタンを打ち付けてある。

 湿度と温度を一定にしつつ虫食いを防ぐ昔の人の知恵であった。


 悠亮は勇んで箱のひとつを持ち上げようとすると、思いもよらぬ負荷が下半身や腰を襲う。

「うわっ、なにこれ重てぇ!」

「あたりまえだ。一人で持てる訳がないだろう」



 いったい何が入っているのかと、悠亮は蓋を持ち上げた。

 中身は何やら古い帳簿らしき紙の束がいくつも入っている。

 しかし、彼が目に留めたのはその周囲。

 すなわち茶箱の内側に貼られた新聞紙だった。


「あれ? これって『会津日刊』じゃん」

 作業の手を止めて茶箱の中をまじまじと見つめていた悠亮に対し、父は息子の言葉に感心したように背中を叩いた。


「なんだ? お前はずいぶん古いことまで知っているんだな」

「ちょうどこないだ恵……いや、たまたま図書館で見る機会があってさ」

「これもお前のひいじいさんや、ひいひいじいさんが残してくれたものだよ」



 改めて悠亮は茶箱の中の新聞紙を見る。

 発行は大正十年。恵が持っていたコピーのおよそ三年前くらいだ。

 そもそもカメラが日本に伝わったのは江戸末期であり、新聞はまだ活版印刷が主流のため画像や写真が挿入されること自体が稀であったが、悠亮がいま見ている新聞には、大きな見出しと共に画像が挿し込まれていた。


「『今年も祇園祭、華やかに』だって。すげぇ、この頃の写真が残ってるんだ」

「なにせ歴史の長い祭りだからな。昔から形を変えていないんだよ」

「それにしてもなんで花嫁衣裳で七行器行列をするのかね? しかも未婚女性に限るって祭りの条件にしちゃエロ過ぎるでしょ? 婚活じゃあるまいし」

「いや、実際に昔は婚活の場でもあったそうだよ。裃を着けた未婚の男、島田髷に花嫁衣裳を着た未婚の女性が行列の中で手早く出会える訳だし、親や仲人も来ているから、その場で縁談をまとめて良さそうな人同士をくっつけたりできるだろ?」

「うへぇ、冗談かと思ったらマジで婚活だったんだ」

「そうだ。もちろんうちにお党屋当番が回ってきたら、参加できるのはお前だけってことだな」


 悠亮は眉間に力を込めて目を細めながら、顔を近づけたり遠ざけたりする。

 百年以上前に発行された新聞紙で、しかも当時の撮影および印刷技術ならば写真の画像が粗いのも当然である。

 それでも画像の中に何か見える物が無いかと目を凝らしていた時だった。



『あれ? この人って……』


 その写真は見慣れた花嫁衣裳に包んだ女性や、裃を着けた男性による七行器行列であった。

 しかし写真の中央に収まる女性は、明らかに周囲の女性の着物とは色彩が異なる。


 なにせ祭りは梅雨明けに近い時期に行われる。

 あいにくの雨天に見舞われた際は、花嫁姿の女性に付き従う者が番傘を差したりもするが、写真の中央に居る女性は、特に雨でも無さそうな天候なのに人が三人はすっぽりと入りそうな、大きな番傘の陰に隠れていた。

 彼女が着ているのは写真を見る限り、特に装飾も無い白無垢。

 モノクロの時代の写真だとしても、それは容易にわかる。



『これは宇迦神社にあった、例の白い花嫁衣裳に似てねぇか?』

 それだけではない。

 写真に添えられていた注釈を読む。

『中心で番傘に収まるのは支えに、倉……? それとなんだ?』


 悠亮の父は、すっかりと静止して何も言わなくなった息子の背中を叩いた。

「おい、見入ってる場合じゃないぞ」

「いや違うんだよ。実はこの白む……」



 そこで我に返った悠亮は、今まさに父に言おうとした言葉を呑んだ。

 恵と共に神社の倉庫で見た白無垢がまさかこれだとは断言できないが、仮にそうだとすればどういう過程を経て封印されていたのかも気になる。しかしそれを問うてしまえば自分があれを見たと白状することにもなる。


「なんでもない」


 そこで全ての会話を諦めた悠亮は作業の続きにあたった。

 それでも心の内は先程の新聞に囚われている。

『あれを恵に教えてやろう。そうしたらきっとあいつも……』

 しかしそこで思い留まった。


『ダメだ。あんなの見せたらそれこそもっと調べようってなるに決まってる。俺のテスト勉強の時間も取られるから余計なことはしないほうがいい』



 とはいえ、二人だけの秘密の一端を知ってしまった以上は、無かった事にも出来ない。

 時間ができたら改めて独りでこの話の顛末を調べておこうと誓う悠亮であった。

 そんな日曜日の出来事を思い返しながら、教室で莉緒との会話を終えた彼は校舎裏にある駐輪場へと向かう。



 あさっては七月十二日、水曜日。

 祇園祭に供される『御神酒濁酒仕込』神事、すなわちどぶろくの仕込みが迫る。


 党本を中心にお党屋組が権現酒造に集合して、杜氏や蔵人による指南のもと酒米の蒸し上げから始まる。

 しかしそれ以上に、彼には学生としての本分でもある期末テストが迫っていた。

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