第二十五話
ホームルームを終えると、恵は今日もまた足早に校舎を出て、水無川のほとりへと向かった。
今日は自宅にも寄らずに直接来たので、制服姿だ。
スカート姿から出てくる素肌を、雑草の小枝や種子で引っ掻いたりしないよう必死かつ慎重に草を漕いで進むと、そこにはいつものように智津子が川辺に座っている。
恵は彼女の隣に腰を下ろした。
「昨日は智津子ちゃんが急に居なくなったから、あたし心配したよ。ヘンなこと言ってたらごめんね」
「恵のことを試したのよ。こちらこそごめんなさいね」
それだけ言うと智津子は、くすりと笑う。
いつだったかいたずらをしようと、足音を立てずに忍び歩きで彼女に近寄ったことがある。先日はそれの仕返しだろうかと思ったが、いずれにせよ智津子はここに居た訳だし、こうして自分と会話してくれたから、恵にとっては不安の種がひとつ消えた格好だ。
「今日は恵ひとりだけなのね。せっかく新しいお友達に会えたのに残念だわ」
「権現酒造さんちの悠亮は連れてきてないよ。あいつ智津子ちゃんに対して失礼なことしたもん」
「でも恵は彼が嫌いになった訳じゃなさそうね?」
恵はそこは素直に認めて何度も頷く。
「あいつの事はそんなでもないよ。昔からよく知ってるし」
しかし、恵は頬に手を添えると中空をぼんやり眺めながら、内に秘めていた言葉を続けた。
「なんていうかお酒が苦手なの。もちろん未成年だから飲んで美味しくなかったって意味じゃないよ。お酒を飲んでる大人があんまり好きじゃないな。まぁこんなこと、おうちで酒蔵やってる悠亮に言えるはずもないから、敢えて言わないけどさ」
「恵の気持ちはよくわかるわ。わたしもお酒を好む人は嫌ね」
「そっか。智津子ちゃんもお酒が好きな人は苦手なんだ」
「でもそれを権現酒造の彼に伝えないのは何故?」
「そりゃまぁ悠亮も怒るだろうからね。それにたぶんここに来たばっかりの頃の記憶のせいかな。余計なことは言わないようにしようって思ったし、逆にあたしが黙ってるんだから余計なことまで聞いてくるなって感じ?」
恵は敢えて理由の明言は避けるものの、その根底にあるのは先日も述べたように、『よその子』であるが故の乾いた気遣い。
そして真逆の立場に置かれた時の鬱陶しさ。
加えて今日の昼休みも、悠亮の機嫌を損ねてしまった。
やはり迂闊な発言はできないと、胸に誓ったばかりであった。
そんな恵を察したのかは分からぬが、智津子は静かに頷いた。
「仕方のない話よ。恵もわたしも彼らと分かり合える日は無いわ」
「やっぱそんなもんなのかな?」
「そうよ。彼らは根っからの田ノ原の人間。わたし達はよその人間。決して交わる事は無いのよ」
智津子の発言に不思議と背中を押された感覚になった恵は、自然と笑みをこぼす。
不思議と彼女の言葉には、妙な説得力と安心感をおぼえた。
恵は思わず嬉しくなり、日傘に覆われた智津子の顔を覗き込む。
「そういえば智津子ちゃんってホントに東京生まれなんだね。あたし気になって調べちゃった」
気になったのは事実だが、調べたのは悠亮の知恵を借りたところが大きい。
しかし佐藤家の娘である。その辺りの脚色はお手の物だ。
「わたしの話を憶えててくれたのね?」
「もちろん。しかも亀戸って結構都心の方なんだね。あたしビックリしたよ」
「拓けているのは山の手や丸の内くらいよ。隅田川を越えたらどこも田舎だわ」
智津子は普段と変わらぬ表情ながら、皮肉や自虐まじりの苦笑をしているのは恵にもすぐにわかった。自分のように大袈裟な声や抑揚や身振りを交えなくてもきちんと感情表現できている彼女のスキルには恵も感心してしまう。
「でもおうちはスカイツリーの近くでしょ? 家から見えた? 昇ったことある?」
「……そんなものは知らないわ」
「スカイツリーが完成するよりも前に智津子ちゃんはこっちに引っ越してきたの? すごい高い塔があったでしょ? 上に展望台やレストランがあるやつ」
「
「へぇ、なんか高級なホテルみたいだね。智津子ちゃんちは、そういう東京のお洒落な所に行ってたんだ」
そんな他愛ない話題に付き合っていた智津子だが、日傘を除けるといつもより顔を露わにして恵に問い掛ける。
「恵はまた横浜に帰りたいと思う?」
「うーん……でも実際は横浜に六歳までしか住んでなかったからね。田ノ原じゃないところならどこでもいいかな、っていうのが正直なとこ」
「それを叶えられそうかしら?」
「わかんない。テストや受験の結果にもよるし、どこまで頑張れるかもわかんない」
「まだ迷ってるのね、恵は」
うーん、と唸りながら腕を組み小首を傾げて悩んでいたが、やがて恵は諦めたように頷く。
「智津子ちゃんの話を聞いてから、なんか迷路に入っちゃった。クラスのみんなは進路のことすごい頑張ってるような気がして、ますますあたしってどうしたらいいのか悩んじゃう」
恵の話を聞いていた智津子は、肩に掛けていた日傘の柄を少しだけ傾けて、水無川を指し示す。
「ご覧なさい、大自然も生き物たちもとても自由よ。まだあなたは何かを恐れて縛られているわ。もっと自分に素直になってみたら?」
「やっぱそうなのかな……あたし?」
「えぇ。わたしから見てもそう思うわ。心を解き放ちなさい。そして真の自由を得るのよ。恵ならきっと出来るわ」
智津子の声は、恵の胸の奥深くに刺さるように残響してゆく。
一方の学校では、今日も放課後の教室から早々に姿を消した恵に呆れていたのは、悠亮だけではなかった。
「ちょっとさ、めぐはどうしちゃったの? 最近は何かに取り憑かれたみたいにあれこれ調べ回ってるみたいだけど」
親友であるはずの莉緒も、最近は悠亮とばかりつるんで、紹介した塾も欠席や遅刻の常習が続けば、内心面白くないはずもなかった。
しかし田ノ原生まれの二人の付き合いは恵よりも長い。
今更ながら浮いた行動を取り続けていたら、狭い田ノ原で人々の耳目を集めかねない彼女への心配が勝ってしまう。
「あいつな……俺もよくわかんない」
「さっきの休み時間もあたしに『莉緒はスカイツリー見たことある?』なんて聞いてきたから、てっきり東京の大学に行きたいのかと思ったんだけどさ。やっぱまだ進路を決めてないみたいなんだよね」
「東京なぁ……」
それは懇意の仲である佐藤家の娘であり、幼馴染の彼女が遠く手の届かない場所へ行ってしまうかもしれないという、悠亮の憂鬱だと莉緒も感じていた。
ところが彼の不安は別のところにあった。
それはつい昨日、恵や日傘の子と別れたあとのことだ――。
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