第三十話

「ねぇ、ほら、あそこ。三角形に星が輝いてるでしょ?」


 恵の言葉に倣って悠亮も上空を見るが、いまいちピンと来ない。

 いま自分達の居るコンビニエンスストアや近くのガソリンスタンドの照明が眩いせいでもあるし、街路灯や商店が無いあたりの空ならば、それらの輝きを捉えることも出来たかもしれない。

 しかし恵には全く違う光景に見えているのか、夜空を見て酔いしれる。


「すごいね。今日は特に星がキレイ」



 いくら田ノ原が高地にあり星座の観測で有名であるとしても、住み慣れた彼にしてみれば見慣れたいつもの星空だ。

 それ自体に感動した記憶はないし、当然ながら興味が無ければ星座の名称などわかるはずもない。

 確かにここ最近は空梅雨が続いたせいか雲も少なく、星が綺麗ではあるが隣に目映い輝きを放つ星があると、悠亮の目にはあらゆるものが霞んで見える。


 なにせ相手は清流を自由に泳げる岩魚の姫。

 将来の展望も開けずモラトリアムに過ごす彼女を水の中でしか生きられない愚者と揶揄したと思えば、対する自分が家業の酒蔵という道だけを選択し他の可能性を一切放棄している様は、まるで田畑に埋められて足枷をされて身動きもできない案山子かかしのようにも思えた。

 すなわち自分はごく限られた狭い世界だけを見て、全知全能であるかの如く語っているのでは無いかとも錯覚してしまう。

 だとしたら真の自由はどちらの手にあるか――悠亮も堂々巡りの会話で自分が正論気取りになっていた事実に混乱しだす。



「悠亮は星の名前くらいはわかる?」

「俺にはサッパリだよ」

「そうだよね。悠亮は地学の成績も悪いもんね。あれがはくちょう座のデネブ。隣がこと座のベガ。その下にあるわし座のアルタイルを結んで大三角形」

「そんなのよく分かるな。つーかよくそんなこといちいち憶えてるもんだよ」



 つい普段と同じ会話をしたつもりの悠亮だったが、恵は少しだけ眉を寄せる。

 これは怒っているのではない。

 彼女なりの哀しそうな顔をつくっているのはすぐにわかった。


「悠亮にとっては『そんなこと』でも、他の人には大切なこともあるの。あたしにしてみたら、お酒を造ることの方が『そんなこと』だったりするからね」

「いやごめん、そういう意味じゃなくてさ。悪気があった訳じゃない。そこは謝る。でも俺んちもそれなりの覚悟で酒を造ってるんだし、お前の親父さんも酒を売ってるじゃないか。そんな言い方しなくてもいいだろ」

「そんなことないよ」

「そういう感じには俺は受け取れなかった」

「お酒造りは例えであって別になんでもいいの。あたしからしたら、どれにしたってなんでもないこと」

「だとしても今日、恵が仕込んだどぶろくを祭りの時に町のみんなや観光客が飲んでくれるんだよ。そう思えば頑張ったぶん報われるだろ? やり甲斐があったろ?」

「別にあたしだけのお酒じゃないよ。悠亮のでもあるでしょ」

「だとしたらみんなの酒だ」

「だったらあたしは遠慮しておく」



 今日の恵は随分と直截的な言葉をぶつけてくる。

 付き合いが長いぶん互いに不平不満や文句を言い易いとはいえ、さしもの悠亮もこれ以上は堪え難いというのが正直なところだった。


「恵は何をそんなにあれこれ文句を言ってるんだ。自分が選ぶ進路なんだからもっと真剣に考えるべきだろ? なんか好きなことは無いのかよ? 自分の仕事にしてみたいってことも思いつかないのかよ?」

「そんなのいま決める必要ある?」

「もう進路を決めてる俺や莉緒は間違ってるってのか?」

「別に誰も間違ってなんかいないよ。自分の選んだ道が自分の人生なの。過程はどうでもよくて結果的に自分が選んだから、それが自分の答え。後になって良いか悪いかはあたしが決めること。だから今はそうしようって言うのがあたしの目標だし、悠亮とは全然違うところを目指してるの」



 釣果は無かった。

 岩魚の姫はやはり竿から逃げて行った。

 空には天の川。

 そこを自由に泳ぐ渓流の王女。

 人生そのものを時間という水流と呼ぶなら、彼女はいつも違う場所を目指し、世間の流れに逆らい続けて、未だ見ぬ上流へと進んでゆく。



 その時、悠亮の心拍が乱れる。

 徐々に意識が遠のき、視界の全てが霞んでいった。

 隣にいる幼馴染の姿に、白い襦袢が重なる。

 それはいつかどこかで見た白無垢。

 田ノ原に来た『よその子』が着る証し。



「俺、そんな恵は嫌いだ。いつも俺の目が届いて声が聞こえて手で触れる場所に居て欲しい」

「ねぇ、それにはどうするの?」


 不敵に笑う彼女の向こう側には、南の空から昇る夏の星が無数に瞬く。

 それらを背後に従えて燦然と輝く悠亮の星。


 限りある時間の中で無間の闇をたゆたう、憐れな岩魚にすることは――。


「恵を止められないっていうなら、俺は恵の時間を停めたい」


 その方法はひとつ。

 根を流すこと。


 撒かれた毒で清流の魚は容易に捕らえることができる。

 いまの悠亮にとって、遠からず逃げてゆく恵を手中に収めるための、ただひとつの方法。

 そう確信していた。



「面白そう。いいよ。やってみて」


 意地悪く笑うと、恵は目を閉じて上半身を僅かに悠亮に寄せる。

 彼女の華奢な首を見ているうちに、悠亮は無意識に両手を伸ばしていた。


 まるで絹糸みたいに柔らかい。

 自身の紅潮した掌や指先とは対称的に、透き通る程の白い肌。

 互いを求めて吸いつくかのように触れ合う皮膚と、彼の指先に伝わる硬い感触。

 根に苦しむ岩魚は、やがて水中から顔を出す――。




「うわあぁーっ!」


 闇が支配する暗然とした部屋の中で、悠亮はベッドの上から飛び起きた。


 知らぬ間に額には脂汗をかき、寝間着がわりのシャツもびっしょりと濡れている。

 寝汗と呼ぶには尋常ではない量であった。

『急にあんな夢を見て、なんだってんだよ……俺ほんとにおかしくなったのか?』


 シャツの袖であちこちの汗を拭いながらスマートフォンで時刻を確認する。

 カーテンの向こう側は夜が白みだしたかれ時、朝と呼ぶには早すぎる時間だった。


『いったいどこからが夢で、どこまでが本当の出来事なんだ……確か神社に櫂入れをしに行ったのまでは間違いないはずなんだけど……』


 つまるところ自分は恵を追い求め過ぎているのだろうか。

 だからこんな夢を見たのだろう――。

 胸の奥に立ち込めるもやもやとした不快感を払い去るように新しいシャツに袖を通すと耳元や瞼を覆い隠すように薄手の掛け布団に潜り込み、夜明けを待った。




 翌週の月曜。

 結局あの後はまんじりともせず、日曜の夜も同様に満足に眠れなかった彼は、目元を浅黒くくすませた疲れた顔で学校へと向かった。

 恐怖からどうしても夜の闇に耐えられず、日中に昼寝で睡眠を確保するといった始末で、夜もどうせ眠れないのならばせめてテスト勉強を、と室内灯を明々と照らしたまま、朝陽が昇るのを待つ有り様であった。


 残るテスト科目に向けて予習をしていると、知らぬ間に教室に恵が入ってきた。

 彼女の席は自分よりも前の列なので、見慣れたいつもの場所に座る人影があったのに気づき、それが特徴的におそらく恵だと判断していた。

 すると見慣れた彼女は椅子に座ったまま上半身を捻り、後方に居る悠亮を見る。



「……!」

 彼女の首元には包帯が巻かれている。

 そしてそれをそっと撫でると、微かに笑う。


『おいおい……夢じゃないのか! 夢じゃないのかよっ!』


 途端に悠亮の指先から体温が失われた。

 掌全体が汗ばみ、まるで真冬の寒暖差のように室温が痛い程に肌に刺さる。

 それに両脚も小刻みに揺れている。

 自分で自分が制御できずに大腿部や肩を忙わしなく擦り続けるが、次第に唇も震え出す。


 予鈴が鳴り担任が入ってきたところで、悠亮はすぐに挙手をした。


「せっ、先生! おっ、俺なんかちょっと具合悪くて」

「大丈夫か、木嶋。確かに顔色が悪いな。保健室のベッドで少し休むか?」

「はいっ! そうさせてください!」

「テストはまた補講期間か、体調が戻れば午後にでも職員室で……」



 彼は担任の言葉も待たずに机の上に教科書やペンケースを散乱させたまま足早に教室を出る。

「しっかり養生しなさい」

 背後から掛けられた教員の言葉も届かないくらい彼は狼狽し、覚束ない足取りながらも必死に廊下を進む。

 教室から一歩でも遠く、そこに居る恵から少しでも遠くを目指して。



「新型コロナウイルスが五類移行となったとはいえ、感染は季節や場所を選ばない。皆もテストが終了するまではくれぐれも気をつけるように」


 教壇に戻った担任が生徒に向けて注意喚起する。

 その言葉を聞きながら恵は悠亮の姿が消えた廊下を見た。


『あいつ最近どうしちゃったんだろ? ホントにノイローゼになったのかな?』

 右手をうなじに添えながら頭を捻る恵。

 その首元には何も無い。

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