第二十二話

 昨日と同様に二台の自転車で田ノ原の町を駆けて行く二人。

 悠亮は、学校のクラスメイトと違う女子を紹介して貰えることに若干の期待をしているせいか、どこかペダルを漕ぐ足取りも軽い。


「なぁ、その子はなんでいつも水無川の辺りに居るんだよ?」


 風を切る音に負けまいと、悠亮は後方を走る恵に問い掛けた。

 自転車での二台以上の並列走行は禁止。

 学校で何度も注意されている。

 なので恵も風に負けじと声を張り、前を行く悠亮に向けて叫ぶ。


「わかんない。あたしもそのあたりは全然、聞いたことない」

「田ノ原の生徒じゃないなら、あとは西若松だぞ? 学校行ってないのか?」

「それもわかんないの」


 恵から得られた情報はとにかく同い年くらい――おそらくひとつくらい年上の女子で、いつも水無川のほとりに座っているというだけであった。

 たったそれだけの内容で、果たしてそれが友達と呼べるのかは疑問だが、インターネットやSNSでも気軽に他人と繋がることが出来る時代だ。

 実際に会話もしているなら、相手も実在するのだろうと悠亮も納得する。



 御蔵入交流館を出た後は、広いバイパス道路から旧街道を通り、町の東へ。

 県道三四七号が通る橋の眼下に、水無川が広がっていた。


 少し下流には会津鉄道の橋が水無川を跨ぐ。

 橋なのに足元の川には水も流れず、肝心の列車も滅多に通らないので、退屈そうに陽を浴びて待っている。

 たまに通過する車のエンジン音が響くくらいで、後は木々のざわめきと鳥のさえずりだけ。

 もはや一級河川とは呼べない程にほぼ無音である。

 ここから少し東に走って農業道路に続く丘を登れば、恵たちの通う田ノ原高校だ。

 恵は川と県道の境で自転車を停めると、先を行く悠亮に向けてベルを鳴らした。


「こっから水無川沿いに進んでくの」



 今度は川の東側を通る、ガードレールも照明も無く細い一本道を、遡上するように走る。

 案内のため恵と先導は入れ替り、彼女の後をついてゆく悠亮。


 自転車通学の時はヘルメット着用を学校から義務づけられているが、今日は日曜。特に縛られるものもない。

 春以降マスクの着用も個人の判断に委ねられているため、恵は新鮮な空気を目一杯に吸い込んだ。


 先を進む恵の長い髪が揺れる。

 その様は扇状地を流れる河川が広がるようで、たゆたう髪の主はまさに水中を飛び回る岩魚のようだ。

 悠亮も、そんな彼女の後姿を黙って見ている。

 今は恵が先行しているので、その表情を窺うことはできないが、ペダルを漕ぐ彼女の足取りもどこか軽い。


『やっぱあいつは、好きなことやってる時の方が生き生きしてるな』


 しかし何故、彼女が突然に田ノ原の歴史や民話を調べ出したのか、疑問は残る。

 おそらく決定的な理由は、共に見た神社に封印されている白無垢だとは思うが、興味が無いのなら、恵もそこで終わるはずだ。

 事実、悠亮自身は気味が悪いからこれ以上は触れたくないのが本音。

 彼にも恵の真意は掴めずにいた。



 しばらくして周囲を見回していた恵は、後方に居る悠亮に向けて手を振ると自転車を停めた。

「この辺りで、一旦チャリを置いて歩こう」

 恵が指し示すのは、人丈よりも高く夏草が繁茂した水無川の河川敷である。


「おいおい、この草薮の中に入ってくのかよ? 目印も何にもないぞ?」

「あたしが踏みしめておいた道があるはずだから、へーき」

「そんな曖昧な目印、わかるのか?」

「だいたいあたしの勘」

「また恵の勘か。お前ホントに野生の勘で暮らしてるな」


 彼女がこれから向かおうという草薮には無造作な髪の分け目のように、多少拓けた隙間があるが、そこを人が漕いだ跡だとは悠亮には到底見えない。

 これじゃまるで猪突猛進する恵がつけた猪の獣道――とは余計な発言になるので、彼もその点は黙っていた。


「それで恵はズボンとスニーカーなのか。俺はいったん家に帰るつもりだったから、そのままサンダルで来ちゃったよ。どうすんだよ?」

「あたしの通った跡を歩けばいいでしょ」



 その時、一匹の三毛猫が向かいの畑から道路を渡りだした。

 首輪につけた鈴を鳴らしながら、涼しい顔で恵の獣道を通り、雑草の中へと消えてゆく。


「あれがその子の飼い猫だから間違いないよ」 

「ふーん。要するに猫の通り道を、恵も通ったってことか」


 草を漕ぎながら進む恵は、悠亮のために多少広めに夏草を踏みしめて歩く。

 一方、サンダル履きの悠亮は素足が夏草や小枝を捉えて肌を切らないよう、慎重に歩を進めた。



「ミャーオ」

 先程の三毛猫と思われる鳴き声がする。

 恵には主人が待っているので、早くこちらに来るように催促しているみたいに聞こえた。

 それに応えるように恵は草薮の中を進む。

 だが、急に夏草の森を漕ぎ出した恵に、悠亮は慌てて彼女の背中を追う。

「おいおい、待ってくれよ恵。もうちょっと入念に均してくれよ」



 先に薮を抜けた恵に遅れること数秒。

 悠亮は歩数を少なくするために、茂みの中から大きく飛び出した。

 視界の先にはコンクリートの堰だけで、あとは大小の石がごろごろと置かれているばかりの、文字通りの水無川。

 河岸に立つ恵の隣には日傘の女性が座っている。

 三毛猫はまたひと鳴きすると、傘の影にある主人の膝の上にちょこんと座った。


「智津子ちゃん。今日はあたしのクラスメイトを連れてきたんだけど」


 悠亮は日傘の子を遠巻きに見た。

 水色の五分袖のボタンのワンピース。

 陽の下に居る恵の染料を用いた栗色の髪と比べても、彼女の長い黒髪は天然のものだと分かる程に艶やかで、その長さも腰のあたりまで届く。


 彼女は日傘の中から少しだけ顔を出した。

 端正な顔立ち、透き通るような白い肌に熟れた唇。

 悠亮も最初はあまりの美しさに息を呑んだが、若干の緊張とともに頭を掻きながら恵の後ろに控えてきた彼は、すぐにその違和感に気づいた。


 あまり歓迎されていない様子だからだ。


 日傘の子――恵の言う通り少し年上にも見えたので、日傘の女性が正しいか――に対して悠亮はどういうリアクションをとってよいか困り果てていた。

 彼女も恵と知り合いになって日が浅いというのに、いきなり男の自分が来たら敬遠されるのも当然だと思える。

 しかし単なる男嫌いとか、男が居ることに失望しているという感じではない。


 どこか憎しみや、毛嫌いに似た色を顔に湛えている。



「あのね、智津子ちゃん。これが同じ学校の……」

「えぇ。権現酒造の子ね」

「なんだ、智津子ちゃんは悠亮のこと知ってるんだ?」

「そうだとも言えるわね」

「じゃあ逆に、悠亮は智津子ちゃんのことわかる?」

「いや、幼稚園か学童クラブに居たかな……俺と同じクラスでしたっけ?」


 だが彼の発言には全く反応を示さない。

 益々居たたまれなくなった悠亮は、会話を繋ぐよう恵に目配せをする。


「悠亮はやっぱ有名人なんだね。権現酒造さんの息子なら当然か」

「そうね。そうかもしれないわね」


 悠亮が送った肝心の目配せは全く機能せず、むしろ恵の雑な会話で何とも言い難い展開に進んでしまった。

 その証拠に日傘の子は明らかに機嫌を損ねている。

 恵に向けて微笑を浮かべたかと思えば、また口を真一文字に結んで悠亮を見る。


 日傘の子の視線が居心地悪い悠亮は、頭を掻きながらも必死に過去を振り返っていた。

 幼稚園か交流館でいじめてしまった女の子は居たか。

 泣かせてしまった子はいないか。

 過去の罪を思い出しながら、ひとつまたひとつと心にチクリと痛みを伴いながら彼女の素性を探っていたが、だいたいのご近所や既知の仲間は同じ小学校、中学、高校へと進んでいった。

 ではその逆で、引越しでこの町を去っていった別れのなかに彼女が居たか――。


 堂々巡りの思考の中で悠亮も考えあぐねていたが、この所在無さを解決することを優先した彼は、早々にこの場を去ろうと決めて恵に語り掛ける。


「えっと……俺はお邪魔じゃないか? 居ない方がいいんじゃないかな?」

「いちおう気を遣ってるの? そんなことないよ。智津子ちゃんに悠亮が知ってる話を聞かせてみたら、何か答えが見つかるんじゃない?」

「そうは言ってもさぁ……」



 恵とのやり取りをしていた最中、一陣の風が水無川に沿って吹き下ろす。

 悠亮たちの髪は風に巻かれて乱れたというのに、智津子はまるで風の抵抗が無いかのように、彼女の傘も髪も一切揺れずにいる。


 すると悠亮には胸の奥底に仕舞ったはずの、恐怖の記憶が蘇った。

 陽光に晒されて輝く恵の栗色の髪とは異なり、全く染料を使用していない智津子の髪は、先程よりも薄暗く見える。

 喩えてそれは、全てを透過しない完全な黒色。

 澱んだ溜水の深淵に似ていた。


 智津子は恵の後方に居る彼を見た。

 今度は微かな笑みを浮かべて。

 しかし彼が受け入れられた笑顔ではない。

 彼女の瞳にそこはかとなく宿る怒り。

 それは悠亮だけに向けられた感情ではなく、彼の家族と蔵の看板、更には田ノ原の町そのものに向けてでもあった。


 狂気の笑顔。

 饒舌な無言と雄弁な沈黙。

 その奥深くにある怨嗟の声と怨讐の呻き。



「うひゃあぁっ!」


 突然に何かが足首を這い回った感触をおぼえ、悠亮はうわずった声を上げる。

 雑草が触れたかヤマカガシでも居たかと思ったが違った。


 長い黒髪が幾重にも巻き付いていた。

 自身を沼へと引きずり込もうと彼の脚を締め上げる。


 次の瞬間、身体が中空に放り出されたように軽くなった。

 そのまま足元に広がる無間の闇へと堕ちてゆく。

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