第二十三話

「うひゃあぁっ!」

「……どうしたのよ、悠亮?」

「へぇっ?」


 恵の声で我に返った悠亮が、改めて自分の足元を見ると、いつの間にか三毛猫が彼の両脚に胴体をこすりつけながらゴロゴロと喉を鳴らしていた。


「猫ちゃんにそんなにビビってカッコ悪い」

 智津子も恵と会話をした際と変わらぬ穏やかな表情で、自身の愛猫と悠亮を交互に見ていた。

 しかし当の悠亮はそんな余裕も無い。

 両の手で交互に自分の足首を撫でながら、徐々に後方へと下がってゆく。

「めっ恵! おっ、俺さぁ、も、もう塾に行くから。お友達には悪りぃけど」

「えっ、ちょっと悠亮ってば!」


 彼は軽く頭を下げると、草薮をぴょんぴょんと飛び跳ねながら築堤沿いに停めた自転車へと猛スピードで向かっていった。



「あの悠亮は少し変わった子だって知ってたけど女の子も猫も得意じゃないみたい。せっかく智津子ちゃんとお友達になれるかと思ったのにゴメンね」

「いいのよ。気にしないで」

「でも権現酒造さんちの子だってのは智津子ちゃんも知ってるんだね」

「この町では有名な蔵よ。もちろんそれだけではなくて、いろいろとね」

「やっぱそうなんだ。いいよね、おうちが商売してるボンボンは気楽だから」


 しかし智津子は恵の言葉に視線を落とした。

「わたしのうちも商売してるから」

「ホント? ごめん、そういう意味じゃないからね。あいつのこと言ったの」

 今のは短慮な発言であったと、恵はすぐに智津子に向けて謝罪する。

 そんな自分を許してくれたのか、相手は日傘の下で笑みを浮かべたので安心した。

「でもわたしもこっちに来た者として、恵の気持ちはわかるわ」

「そうなんだ。智津子ちゃんもよその子なの?」


 恵の問いに、彼女はほんのわずかな間をおいてから語りだした。

「えぇ、『東京府』から」

「とうきょうふ? 京都府じゃなくて?」

南葛飾みなみかつしか亀戸かめいど町」

「うーん……詳しくは分からないけど、そこは遠いんだ?」

「あら。横浜から来た恵の方がよっぽど遠いわ」


 とぼけた恵の態度にくすくすと笑う智津子であったが、恵は自分の発言の可笑しさや相手の笑いの意味がいまいちわからず、ただ笑みを返すばかりであった。


「父が和菓子屋を営んでいて、その繋がりでこちらに来たけど……後悔しかないわ」

「そうなんだ。田ノ原には馴染めない?」

「じゃあ恵は馴染んだの?」

「うーん、そう言われると……」



 改めて尋ねられた恵は自分の気持ちを整理した。

 相手が同じ異郷の者であるとわかれば、田ノ原に対して多少は失礼な物言いも許されるかも、という感覚もあった。


「あたしが幼稚園に通ってた頃に震災があったでしょ? 小学一年から田ノ原に引越したんだけど、大変だったよねって言うのも憚られる空気でさ。まだオトナはみんなピリピリしてたし、だからあたしも誰に何も言えなくて我慢してたっていう記憶しかないの」

「そう、恵は震災から疎開してきたのね、気の毒だわ。わたしの実家の和菓子屋もだいじょうぶかしら?」

「こっちに居た智津子ちゃんこそ相当揺れたんじゃない? あ、わかった一人暮らしなんだ。ぜんぜん『とうきょうふ』のおうちには帰れてないの?」

「一人暮らしじゃないけど、帰るにも帰れないわ。やむなくここに居るだけ」

「そうなんだ、智津子ちゃんも大変……」


 そこまで言いかけた恵は咄嗟に自分の口元を押さえた。

「……ってこういうの迂闊に言いにくくてさ。そしたら今度は『がんばろう東北』とか日本中から言われてさ。あたしみんなが必死になってたの見てたよ。田ノ原を元気な町にしようってみんなもう頑張ってるのに、よその人が何年も『がんばろう東北』ってずっと言ってるから、あたし達はいつまで頑張ってないといけないの? これでもまだ頑張りが足りないように見えるの? ってすごい疑問だった」


 黙って話を聞いていた智津子だったが、ほんの一瞬だけ眉を寄せた。


「それで次はコロナでしょ? 学校の皆には会えなくて、修学旅行も文化祭もぜんぶ無くなったの。マスク無しじゃ町なんか歩けなかったじゃん」

虎狼痢ころりね。確かに流行ったけど、もうずいぶん昔のようだわ」

「そうそう。ずいぶん昔みたいな感じするけど、観光客だって居なくなるし、お祭りも中止になったじゃない? だからなんでこんな目に遭うのかなって、ずっと考えていて……」

「恵は田ノ原が好きなのね?」


 自身の発言を遮り覆い被せるように智津子が問い返すので、恵もすぐには返答できずにいた。

 これだけ長々と語っておいて、好きも嫌いも態度を明らかにしないのは不自然とも言えるが、やはり自分は受験をして県外の大学に通うために、田ノ原を出て行こうと考えている、よその子。

 そこに至った経緯を振り返りながら腕組みをして、うーんと唸っていた。


「そうだね、なんかヘンだよね……ってあれ?」

 気づけば智津子の姿は無かった。

 当然、彼女の飼い猫も周囲には居ない。


「ねぇ、智津子ちゃんってば! おーい!」

 恵は背伸びをしながら周囲を覆う夏草の森を見回す。

 辺りに向けて呼び掛けるも反応は無い。

「あたしなんか嫌われること言っちゃったかな?」




 明けた月曜の学校。

 いつものように莉緒や他の女子と会話をしている恵だったが、相槌にもわずかな間が空くし、言葉少なでなんとなく心ここにあらず、という雰囲気を醸していた。

 男女の機微の差があるとは言えど、その変化は付き合いの長い悠亮にも手に取るようにわかる。

 目元に浅黒いクマを作り、やや疲れた表情の彼は、先に教室で期末テストの予習を行っていたが、それでも恵の違和感にすぐに気づいた。


『相変わらずお天気なやつだな、恵は。女心ってよくわかんねぇ』

 恵のことを気には掛けるも、敢えて女子の中に入ってまで声を掛けるのもお節介だと思うので、悠亮もそれ以上は彼女に意識を向ける事なく、机で教科書を眺めた。

 しかしどうにも眠気には勝てない。

 風邪ではないのに頭の中だけが高熱を保っており、教科書の文字がぼやけると時折、頬杖から崩れ落ちそうになっていた。




「小テストの結果は残念だったけど気にしない方がいいよ。しょうがないよ、悠亮だもん」

「誰のせいだと思ってるんだ。俺をヘンなことにばかり巻き込みやがって。そういう恵だってしっかりと成績落としてただろ。フラフラして勉強しないからだよ。このままだとマジで大学入試はヤバいかもな」

「だいたいさ、期末テストの直前に小テストするなんて先生も意地悪だよね。生徒のテンションが下がって内申に影響出たら学校の評判も落ちるのに」



 普段の昼休みは仲良しの女子と輪になって弁当をつつく恵だが、今日は悠亮の前の席を借りて、椅子を返すと彼と向き合うように昼食を摂っている。


 新型コロナウイルス感染拡大に伴う数年間、感染予防の目的で昼休みは黙食と指導されていた。

 弁当や給食を食べ終えるまでとにかく私語は禁止。

 迂闊にもお喋りをしよう者がいたら、教員に即座に注意される。

 食後にようやくマスクをつけて雑談ができるという具合で、昼休みにこんな気軽に喋れるのも中学二年生の冬以来だ。

 加えて換気のために教室の窓やドアも常に開放されており、本来は死角が多くて人気の高い窓際や廊下側の席も、真冬の田ノ原高校での席替えでは一転して『ハズレ』席と評された。


 なのでこの数年間の反動か、昼休みには盛んに会話が行われている。

 当然ながら周囲も見慣れた幼馴染同士である恵らも、そうなのかと思いきや――。



「んで、俺の席までわざわざ来たってことは恵は何か言いたい事があるんだろ? 小テストよりもずっと前の、今日の朝っぱらからテンション下げてたんだからな」

「さすが悠亮。あたしのことよくわかってるね」


 恵の小さな弁当箱はケチャップ味のチキンライスが半分の面積を占める。おかずは玉子焼きにミートボール、ポテトサラダとプチトマト。

 これが彼女の手作りであることを悠亮は知っていた。


 今年の祇園祭のお党屋当番である佐藤家の女性は多忙を極め、家事分担で恵が料理をしているというだけではない。

 彼女いわく『自分の好きなおかずだけ入ったおべんとが良い』らしく、母の作った弁当は好きではない食材が入っているから、自分で用意しているとのこと。

 それは受験を控えた高校三年生になっても変わらぬ恵の日常である。


 その行為には悠亮も素直に感心するとは言え、相変わらずこれっぽっちの食事量で夕食まで稼働できるなんて、女子はどういう生き物なのかと驚くばかりだ。

 対する彼は男子らしく白米に揚げ物や肉類が中心の食事。

 それでも足りずに持参した菓子パンを食後のデザートに用意していたほどだ。



 恵はフォークに刺さったミートボールを、まるで質問者が向けるマイクのように、悠亮の方へと差し出す。

「ねぇ、あたしってなんで田ノ原を出ようと思ったんだろ?」


 想像以上の角度からの質問に、悠亮も箸でつまんだ白米をぽろりと落とした。

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