第二話
日が明けて二〇二三年七月二十一日。
町の鎮守さまと慕われる神社の社務所ではちょっとした騒動があった。
祭りの開催を翌日の二十二日に控え、いよいよ倉庫の中から神事に用いる多くの祭具を運び出そうとしていた時のこと。
老人や壮年の男女がせわしなく社務所や倉庫を駆け回る。
雨がそぼ降る中、皆は濡れるのもお構いなしにあちらを覗きこちらを指差し確認しては互いに呼応している。
「仕舞ってあった花嫁衣裳の中から『アレ』が無くなってるわよ。どうなってるのかね?」
「あれは表に出しちゃならねぇって知らねぇ子供の仕業か?」
「だとしても、鍵の予備はお
もちろん社務所や倉庫、果ては拝殿の中までくまなく探したが見つからない。
間違いでもあったのかと何度数え直しても、やはり一着分足りない。
誰もが一様に首を傾げ、唖然と周囲を見回す。
なにせいくつもある桐箱の中でもひとつだけ和紙で封緘がしてあるものだから。
それが口を開けて社務所の和室にぽんと置かれていたのだから、仰天するのも当然であった。
「『アレ』が無くなるってあんまり良い気分でねぇな?」
「もうやめとこう。とにかく祭りのことだけ考えてこう」
「かと言ってほったらかしにもできねぇな。罰があたんぞ」
氏子達はせわしなく言葉を交わしながらも、神社の隅々を歩き回っていた。
そんな騒ぎは境内を一望できる拝殿の上に居る者にも容易にわかる。
「いったい『アレ』だの何だのってどういう騒ぎだろうね?」
「さぁ、何かが足りなくなったと言ってるようですけど……」
拝殿には大きな桶が二つ鎮座している。
祭りで供される濁酒、すなわちどぶろくの仕込み具合を見守っているのは町の酒造の代表と、その蔵の
今日はいよいよ
二人はその騒乱には加わらずに酒の出来だけに集中していた。
彼らの少し後方で様子を見守っていた悠亮は、昨日の終業式で級友の女子、恵を諫めた話の内容そのままの出来事が起きていることに内心、頭を抱えずにはいられなかった。
ましてや『例のアレ』が無くなったとしてはただならぬ出来事であるのは間違いないのは容易にわかる。
すぐにその状況を察知した悠亮は自身の父と蔵の杜氏に向けて言う。
「俺ちょっと社務所を見てくるから、ここ離れるよ」
「あぁ、そうしてくれ」
彼の父はごく簡単にその言葉だけ返した。
例え親子にしてもつれない物言いだが、全ては技量や経験を要す職人の世界だ。
必要な作業は適宜分担する。
それだけのことで、それは悠亮もよくわかっていた。
彼が社務所の玄関で靴を脱ぐと、すぐにその光景が目に入った。
とても見慣れた桐箱が和室の中央にある。
『あぁマジかよ。やっぱり思った通りだ……』
すぐに悠亮は周囲にせわしなく視線を配った。
同級生である恵の姿を探したが、少なくとも目の届く範囲には居ない。
ところがその中によく見知った女性の顔を発見した。
彼女の家やその近所が今年の祭りを主体的に執り行う幹事役、すなわち『お
彼の家はこの町で酒造を営む。誰に聞くともなくあちこちから町の情報は耳に入るのだが、それだけではない。探している当の本人から聞いていたというのもある。
悠亮はすぐにその女性のもとに駆け寄った。
「佐藤さんのおばさん、こんちは」
「あら悠亮くん。どうしたのかしら?」
「あの、恵さんは今日はどこに?」
「今日こそはあの子、ちゃんと塾に行くからって家を出てったわ。と言っても行ったり行かなかったりなのは悠亮くんも良く知ってるでしょ? なんだか体よくお党屋の準備を逃げられたみたいよ。ごめんね、それであの子になにかあったの?」
「いえ、居ないんなら大丈夫です。すいませんでした」
そう言うと彼はすぐに社務所の玄関に戻り、乱暴に脱ぎ捨てた靴に両足を入れた。
時計の針を少し戻した同日の佐藤家の午後。
キッチンでは一度帰宅した恵の母と祖母が夕飯の準備も早々に済ませつつ、祭りで出される料理の下ごしらえに追われていた。
そんな喧噪もどこ吹く風か、恵がのんびりと顔を出す。
「あたしこれから出るから」
せわしなく調理を続ける母はやや疲れた顔で娘を見る。
「たまには前みたいにお夕飯の準備も代わって欲しいもんだけど……塾なの?」
「そんな感じ」
「はっきりしないわねぇ、そんなこと言ってまた塾をサボるんじゃないでしょうね。受験勉強もあるだろうけど、うちのご近所が今年のお祭りのお党本だし、おばあちゃんもあたしもこれから大変だから家事を少しは手伝ってちょうだいね」
「……別に」
「それは『構わない』って意味? それともやっぱり嫌なの?」
「だから別にって言ったじゃない」
「回りくどい子ね、ほんと」
恵は母の言葉や祖母の心配には全く興味なさそうに淡々と言葉を続けた。
特段、腹を立てている様子でもなく、かと言って無関心を装う振りもしない。
なんとも味気無い娘の返答に母もそれ以上の話をやめた。
そんな空気もお構いなしに、恵はコップに牛乳を入れて、冷蔵庫にしまっておいた切り分けの残りのバームクーヘンを食べる。
飲み終えた自分のコップをシンクに置いた恵は、また静かに階段を昇ると自室へと向かった。
そして閉めた扉に背中を預けると、大きく息を吐く。
口元には微かな笑みが浮かんでいる。
彼女の机のそばには、塾に行くにしてはとても大きなキャリーバッグが置かれていた。
それから着替えの入ったクローゼットの引き出しを開ける。
彼女の衣類の一番上には純白の着物が置かれてあった。
降り続く雨と厚い雲が太陽を遮断して、室内は昼間だというのにずいぶんと薄暗く、浮かび上がる白色は彼女の瞳に反射してその輝きを重ねてゆく。
そしてまた笑みをこぼす。
一方、キッチンに残った母は会話を続けていた。
「あの子やっぱりこんな町に来たのが嫌だったのかしら? 県外に出たいから受験をするって言ってた割に塾を休みがちになったりテストで成績を落としたり、やる気があるんだか無いんだか……もしかして受験も諦めたのかな?」
恵の祖母は里芋の皮を剥く包丁を止めると、小さく首を横に振った。
彼女の隣に居るのは嫁ではない。
祖母の実の娘であり、女性ばかり実に親子三世代が一緒に暮らす。
「それを言ったら自分の旦那が婿としてわざわざ佐藤の家に入ってくれたのに、あんたが貶めてどうするのさ。『こんな町』に来てもらったんだよ?」
「じゃあ母さんは、あたしが子育てを間違えたっていう訳?」
「もう高校生なら分別があってもいい頃だよ。後はあの子がどういう道を選択したかの時に親が守ってやるのも子育てだよ」
なんとなしに自分だけが咎められているような気になり、恵の母は露骨に腐った顔をつくる。
血は争えないもので、彼女の仕草は孫娘のそれとよく似ていた。
「それこそあの子は高校生なんだから、子育てって歳じゃないでしょう。それにあの子がどうなるかずっと見てきたのはあたし達じゃないのよ。田ノ原の皆でもあるじゃない」
「滅多なこと言うもんじゃないよ。まるであんたが恵みたいじゃないのさ」
「なにそれ? 母さんはあたしが恵みたいに聞き分けがないって言いたいの?」
「それじゃないよ。『例の着物』のことだってあるだろうに。悠亮くんと恵、ずいぶんとそれについて調べて回ってるみたいだよ。もしあの子がそれを知ってこの町を出たいと言い出したのなら、なんて言うつもりなの?」
それを言われた途端、彼女は顔を強張らせた。
田ノ原では語ることも禁忌であると噂される出来事。
「ねぇ、母さん。それってホントにあったことなの?」
「さあね、昔の話だからどこまで本当かわからないよ。ただ
「宮司さんが言ってた、『誰かがアレを見たかもしれない』って、まさか恵のことなのかしら?」
「どうだろうね。それも昔の話だから、それが関係するかどうかもわからないよ」
祖母はシンクに視線を落とすと、また黙々と里芋の皮剥きを続けた。
この町の業。
それに気付かぬ振りをして目を背けてきたのも、自分達の業。
気付かれぬように監視してしまうのもまた、ここの業。
澄みきった一切の汚れの無い水道水も、いつしか芋のデンプンや皮に付いた泥で濁ってゆく。
それは大雨のあとに濁流と化す
そこに一匹の憐れな
まるで息の詰まるような周囲を取り巻くせわしない急流の中で、ただ助けを求めるかのように。
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