コロナ禍の冬

第三話

 時を戻して、新年を迎えた直後の二〇二三年一月。

 田ノ原町の中心にある宇迦神社では氏子が集まっていた。


 前月末には新型コロナウイルス感染症を季節性インフルエンザと同等の扱いとする政府見解が発表され、本年の五月には暫定的だが日常が戻ってくる予定であった。

 これまでの三年間は規模を縮小して、感染対策を充分に講じたうえで内々で神事のみ行われていた祇園祭は、四年ぶりに神輿渡御や神楽も催されることが正式に決定した。



 それに遡ること約二週間。

 二〇二二年の歳末を迎えた佐藤家では週末と重なったクリスマスイブを祝うでもなく、冬の定番である鍋を家族で囲んでいた。それらしい雰囲気を味わうためのケーキは食後のデザートに控えている。


 多い時期には積雪が二メートルを越える田ノ原の厳冬。

 ところが今年は珍しく暖冬となったせいか未だに雪の姿もない。

 だが、やはり高地である。

 中通りや浜通りと比べて気温が低いことは変わりない。

 屋外の凍てつく冷気とは対照的に快適なエアコンと鍋の湯気に包まれたリビングの窓は既に結露しており、外の様子を見る事はできない。



 高校二年生の二学期を終えた恵は、次年度に迫る受験や進路に関して両親と相談をする機会も増えたものの、それまではのらりくらりと親からの質問をはぐらかして、自身の答えを明らかにしていなかった。

 しかし間もなくある学校での三者面談では進路を伝えておく必要がある。

 なのでせっかくの聖夜だが敢えて恵から両親に胸の内を打ち明けることにした。


「ねぇ、あたし県外の大学を受験したんだけど。できれば田ノ原を出て一人暮らしとかしてみたいんだよね」


 突然の娘からの発言に水を打ったように静まり返るリビング。鍋の中がぐらぐらと揺れ動く音と温風を吐き出すエアコンの音だけがこの場を制す。

 その静寂を破ったのはもちろん恵の母だ。


「あんた、ろくに家事もしないのに一人暮らしなんか出来る訳ないでしょう」

「おべんと作ってるから料理はできるし、それ以外の家事もこれから覚えていけばいいじゃん」

「お金のことはどうやって工面するの? アルバイトが忙しくて単位を落としたり留年していたら元も子もないわよ」

「田ノ原は学生の娯楽がないんだもん。お年玉やお小遣いだって、ちゃんと貯めてるからだいじょうぶだよ」


 ここ佐藤家は女性中心なので娘も母も負けてはいない。

 隙あらば祖母だって会話に参戦するかもしれない。

 普段は平日休みであったり、土日や昼夜を違わず出勤していて恵とすれ違いの日々を送る父も珍しくこの日は休暇だったので、一緒に鍋を囲んでいた。

 とはいえ親子仲は悪くない。

 彼は娘の発言を受けてすぐにフォローに入った。


「そうか、恵はやりたいことが見つかったのか。それは素晴らしいことだよ」

「うぅん。別にまだやりたいことがある訳じゃないんだけど」

「そうだな。まだこれからでもいい。どこか勉強したい大学の学部でも見つけたのかい?」

「単に田ノ原以外の町に住んでみたいなって思っただけ」

「なるほど。でもそれも恵にとって勉強になるんじゃないかって……」


 恵の父も妻と養母の雰囲気が悪い事にすぐに気付き、鍋をよそった椀をテーブルに置く。

 それから彼はきっちりと分けた髪を撫でながら、黒縁の眼鏡を持ち上げた。

 婿養子として佐藤家に来ても、祖父亡き今はここの家父長として娘を支持したい時の彼なりの覚悟の現れだが、戦々恐々という雰囲気は拭えない。


「僕は恵の意見を尊重してあげたいと思うよ。よそから来た僕がそうであったように、彼女にやりたいことがあるならそれを受け入れるのも田ノ原であって欲しいな」

「じゃあ恵がこの町を出て行くのも許すの?」

「僕らだって横浜からここに来たんだ。逆の選択肢がこの子にあってもいい」

「もし受験に失敗したらどうするんだい?」

「お母さん、それはまた次の話ですよ。まずは僕らが恵の決めた事を応援しましょうよ」

「まだ何も決めていないこの子の何を応援したら良いのかねぇ」


 何とも言えない重苦しい空気が流れ、せっかくの聖夜は鍋のようには煮詰まらず、佐藤家も結論を先延ばしにせざるを得ないかと思われた。


 だいたいこんな風に佐藤家は二つに意見が割れる。

 父と娘。妻と養母という具合だ。

 恵はここで父がもう一押ししてくれればと願いながら家族の顔を見る。

 ひとくち渋茶を飲んだ祖母は口中に苦み走ったかのように枯れた口元を寄せて更に皺を深くした。それもまた言い換えるなら祖母の見慣れた仕草であり、場を繕う提案でもあった。


「どうしてもと言うなら、まずはしっかりとテストの結果を得ること、それと来年の祇園祭を手伝って欲しいね。うちの地区はお当番だからせめて恵が手を貸してくれたら助かる。それに花嫁行列に参加した立派な恵の姿を見れたら、ばあちゃんは何も言う事ないよ」

「え~! あたしが七行器ななほかいに出るの?」

「当り前だよ。うちで未婚って言えば恵の他に誰がいるんだい?」


 この田ノ原で催される夏の例大祭、すなわち祇園祭。

『お党屋』制度とは町内を九つの地域に区分けし、各年持ち回りで祭りの一切を取り仕切るものだ。

 まずは祭りの中心となるのが『当番』、そして前年に当番を担当した『渡し』、さらに翌年に当番を担う『請取り』。

 この三つのお党屋組がメインとなり、祭りを支える。


 恵の家はまさに当番にあたる、お党屋であった。


 祖母と母は、神事のあとに供される食事会、すなわち直会なおらいの下準備や調理の担当に当たる。この祭りを支えるのはむしろ女性達の働きだとも言われる程、お党屋組で裏方に徹する女性の仕事は多い。

 しかし恵の父は土日祝日や昼夜も関係ない仕事に従事しているので、その辺りは融通を利かせて免除されていた。

 お党屋は無理を強いず、来る者は拒まず。

 望めば田ノ原在住ではない他県の者でも参加できる自由さもある。


 一方、恵ら高校三年生には来年の祇園祭で『日本一の花嫁行列』と謳われる七行器行列に参加するよう依頼があった。

 人口減が続く田ノ原に於いて、しかも未婚の男女と限定されている花嫁行列に参加できる者は限られている。それは当然、恵ら学生にも白羽の矢が立つ事となる。

 神前に供えられる供物や器を運ぶために男衆はかみしもを着け、女性は盛装し、町を練り歩くのだ。


 前年の暮れには成年年齢が十八歳に引き下げられると政府広報からの発表があったばかり。

 成人式などの記念行事は今後も同様に「はたちの集い」として満年齢二十歳の若者たちを対象に催される見通しだが、ここ祇園祭の花嫁行列に文字通り華を添えるという意味から高校生、特に三年生は振るって参加するように各お党屋組へ通知が行われた。


「あたし面倒くさいよ。どうせ田ノ原を出るなら、お祭りやお党屋に深く関わらない方がいいんじゃないかな?」

「あんたが最初で最後だというなら、せめてばあちゃんやお母さんの手伝いくらいはして欲しいもんだね」

「夕飯の準備をすればいいんでしょ? それは今まで交代でやってきたじゃない」

「それだけじゃないさ。直会がある時は下ごしらえだって大変なんだよ?」

「下準備ね。じゃあそれだけだね? もう何も無いよね?」


 うやむやにされてきた話もご破算にして、これにて双方妥結と願う恵だったが、祖母はそんな孫娘の気持ちを見透かしたのか足元を見るように付け加える。


「さっき言った通り、せめてもの思い出に恵が花嫁行列に参加した姿を是非とも見たいねぇ。次のお党屋は九年後だし、ばあちゃんもそれまで生きて居られるかわからないよ」


 如何にもな祖母の訴えに恵もやたらに否定したり、おいそれと無下な言葉を吐けずにいた。


 まだまだ元気だと思っていた祖父は病気だとわかると、程なくして亡くなった。

 人生なにが起こるかわからないから、それもまた人生。

 きっと祖母なら九年後の当番もしっかりとこなすような気もするが、しかし九年後の祖母の年齢を考えた時に『もしかしたら』は有り得る。そんな日々を積み重ね、八十を越えた今も矍鑠かくしゃくとしている祖母。やはり田ノ原の女性は強い。


「七行器の? うぅ~……そしたら受験してもいい?」

「そうだねぇ。話はそれからだね」


 娘を想い精一杯の主張をしていた父も顛末を見守るために分を弁えて黙っていたが、表情を明るくして場を取り繕う。


「よかったじゃないか、恵。あとはお前が頑張って自分自身で結果を手繰り寄せるんだ。まだ共通テストまで一年以上あるからだいじょうぶだよ」


 父に言われずとも受験は自身との闘いであり、結果が全てだというのは恵も理解している。

 これで大学入学共通テストに失敗したとあれば結局は田ノ原の家から予備校通いの浪人だ。

 そうなればまた外の視線を集めるので、目も当てられない。


「全然よくないよ。あたしお祭りなんて全然出たくないのに」


 またしても娘の一言で凍り付く食卓。

 会話は一向に煮詰まらないのに、鍋だけは煮えていく。

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