第四話

 そんな佐藤家での一悶着を経て、時は二〇二三年を迎えた新年のある日。


「あー佐藤、ちょっといいか?」


 始業式のホームルームを終え、生徒達が一斉に立ち上がった。

 部活動を行う者は部室へ、掃除当番はそのまま教室内の清掃のために残る。

 恵も帰宅してさっそく受験勉強をしようかと思っていたところに担当教員が寄って来た。


「進路調査のことなんだがね。暮れの三者面談で親御さんともお話はできたが、肝心のその進路に関してなんだ。このあと少し時間はあるかい? 教員室にちょっと来れないかな?」

「……わかりました」


 そのやり取りに掃除当番の生徒は何人か耳をそばだてる。

 手は止めず黙々と掃除をしているようで、その実は彼女と担任の会話が気になって仕方がないという具合だ。

 偶然に日直として黒板を拭きながら居合わせていた悠亮も、教員と恵のやり取りを傍目に見ながら、作業に没頭している振りをする。




 ガラガラと横に滑るドアをやや乱暴に動かしつつ、恵はおざなりに会釈をする。

「失礼しましたぁ」

 教員室を出ると廊下を歩きながら投げやりにマスクを外してブレザーのポケットに仕舞う。それから通用口で上履きを革靴に履き替え、自転車置き場に向かって歩いていた。


 なにせ冬は雪が多い田ノ原の町、自転車通学はせいぜい春から秋まで。

 それ以降は危険なので電車かバスでの通学なのだが、今年はまだ積雪が無いので大半の生徒はこれまでと同様に自転車で通学することを許可されていた。


 とはいえ山間部なので、気圧や気温の変化によってはすぐに降雪になる可能性もある。

 今まで雪が無かったのに、一昼夜で突然に積雪が数十センチなんてことも日常だ。



 恵は自転車の鍵を開錠してヘルメットを着用すると、確かめるようにサドルに座り先程までの悶々とした気持ちをペダルにぶつけながら乱暴に漕ぎ進めてゆく。


 小高い丘にある高校を出て、水無川に向かって農業道路の下り坂を一気に駆け降りると、肌を切るかのような冷気が顔を撫でる。

 旧国道から、閑散とした町には似つかわしくない大きなバイパス沿いを走り続け、目印となる神社の鳥居の前の交差点に着いたら警察署の角を左折する。

 若干の登り坂となっている参道も、学校までの道のりと比べたら緩やかなものだ。


 電動自転車ですいすいと走っていると、後方からベルを鳴らしながら駆け寄ってくる同級生に声を掛けられる。

「おーい、めぐっ!」


 それは女子同士でも特に近しい仲にある莉緒だ。

「ねぇねぇ、めぐ。受験して県外に出るってホントなの?」


 つい今しがた教員室の中で行われた生徒と担任の会話だというのに、いったい、いつどこで話を聞かれたのであろうか、焦った様子の相手よりも大きく目を丸めたのは恵の方だ。

 常に監視されているかのような閉塞的な地方社会には驚きばかりである。

 しかし相手も気心知れた親友ならば、敢えて波風を立てる必要もない。

 ほんの一瞬だけ考え込んだ恵だが、すぐに普段と同じように振る舞った。

 それから慌ててポケットに入れていたマスクを着けると、普段と変わらぬ鼻から上だけの笑顔を作る。


「もう知ってるの? うん、そうだよ。受験は外の大学にしようかなって」

「やっぱホントなんだ。学年のみんなもビックリしてるよ!」


 これまでの卒業生の先輩の中には当然、地元で就職したり県外の大学に通った者もいる。

 自分もその中のひとりという感覚なのに、ここまで意外な事実と受け取られる方が恵も意外というものだ。


「そんで先生となんて話をしてたの?」

「別に大した話じゃなくて、希望の学校や学部を決めろって。理系か文系を選ぶのかも含めて」

「めぐは何かやりたい事とか行きたい学部とかあるんじゃないの? そのための面談じゃなかったの?」

「受験は外の大学にしたいけど、こういう方向に行きたいなっていうのは無くて、まだ全然モヤっとしてるよ」


 互いにサドルに跨ったまま立ち話となっていたが、そこで二人は自転車を下りるとゆっくりと押しながら歩き始めた。

 今度は恵が親友に訊き返す。

「ところで莉緒はどうするの?」



 二人は恵が田ノ原に引越して小学校に転入した時からの友でもある。

 最初の頃こそ、恵も『サトちゃん』『めぐみん』等あだ名が統一されていない時期もあったが、下の名前で気さくに呼び合う彼女らに準じて女子同士は次第に『めぐ』で落ち着いていった。


 改めて莉緒は恵の質問に答える。

「あたしも就職や公務員試験とかは考えてなかったし、若松の大学に行くのだってバスと電車で二時間くらいかかるじゃん。でもひとり暮らししながらバイトするよりは実家の方がお金の面でラクかなって思って妥協したよ」


 若松とはすなわち会津若松市。

 ここからは直線距離で北におよそ三十キロ程だが、移動は決して容易ではない。

 なにせ列車の本数が限られている。

 彼女達が暮らす田ノ原町は浜通りや中通りほどの経済基盤がある訳でもなく、会津地方の主な産業は観光だ。

 ところがここ田ノ原は宿場町として拓けてはいるものの、それは昔の話であって、なんとなく恵には全体的に退屈に感じてしまう。

 牧歌的なのは良いが、それは言い換えれば地方特有の閉ざされたコミュニティに置かれていると常日頃から感じるからかもしれない。


「それにしても外の大学に行きたいって、やっぱめぐは元々は横浜から引越してきたから、この町のことまだ気にしてる?」


 莉緒は心配そうに恵の表情を窺う。

 ここで生まれ育った莉緒は生粋の田ノ原の人間だ。

 言葉を変えると彼女の視線は田ノ原の視線でもある。

 彼女の質問に周囲の疑問が集約されているのも事実。

 だが相手も同じ高校生。

 なにせ苦楽を共にした旧知の友でもあるため、それ程の打算的な行動は無かろうとの願いは恵にもあった。


「それじゃあ莉緒の進路は、もう決まってるの?」

「あたしは経済学部って決めてるよ。海外旅行に行きたいから、将来はファイナンシャルプランナーか税理士、三十歳過ぎくらいに独立したらフリーランスでユルく働きながら組織に縛られないスケジュールで世界中を旅したいんだよね」


 思いがけず親友の人生設計を聞く事になり驚きを隠せない恵。

 自分が先延ばしにする予定であった将来を既に決めて、それに向けて進む姿は自分が後ろ向きではないかと叱責されているようでもある。


「じゃあ莉緒もどっか県外の大学に行くつもりなんだ?」

「さっき言ったじゃん。実家に暮らしながら若松市内の大学に行くに決まってるよ。開業資金も貯めなきゃいけないし、やることはいっぱいだよ」

「凄いね、そこまで決めてるの。ホントにエラいよ、莉緒は」

「めぐだって、よその他県の大学に行こうって思ったんでしょ? それだってエラいことだと思うよ」


 果たして、今の友の発言を受けて自分が偉いだなんて到底思えるだろうか。

 内心苦々しいものが胸の内を走る恵は、自身を蔑みながら笑った。


 歩きながら喋っていた二人はやがて、鳥居から旧街道に繋がる踏切の前で歩くのをやめた。

 警笛が鳴っているとか列車が迫っているという事でも無い。

 かと言ってきちんと一時停止して安全を確認している訳でもない。

 なんとなく無意識に立ち止まった踏切の前でそのまま立ち話に興じているだけだ。


「あたしは莉緒みたいに進路をそこまで決めてないもん。成功するか失敗するかも含めてまだまだこれからだって考えちゃってるから、どっか現実感無いんだよね」

「それでも、うっすらと目指してる方向くらいあるんじゃないの?」

「そう言われても何も決めていないんだけどさ」


 祖父が亡くなって単身暮らす祖母を慮り、同居をすることを決めたのは恵が幼稚園を卒園した二〇十二年の春。

 前年には東日本大震災が発生し、幼い恵を連れて福島へ向かうのは時期尚早ではないか、果たして福島は安全なのか、との意見もあった。対する祖母は田ノ原に友人や隣近所の付き合いがあるため、この地を離れるという選択肢は彼女に無かった。


 一方、親の都合で急に横浜から福島の山地に引越してきて、戸惑いを隠せなかった恵を受け入れてくれたのが莉緒だ。

 以来、恵は彼女の存在を介して子供達のコミュニティに馴染んでいった。

 だがそれは『よその子』の自分に注がれる大人の好奇の視線から守ってくれたからとも言える。


 それに欠かせないのがもう一人。

 例の運悪く気の毒な少年、悠亮だ。

 進路に関して言えば当然ながら、彼も既に将来を決めている。


 果たしてあの面倒くさいあいつがこの場に居たら、どのような言葉を自分に投げてくるのか――。

 などと考えていた矢先。


「おーい、恵!」

 まさにその当事者が現れたようであった。

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