第五話
「おーい、恵!」
静かな住宅街にジリンジリンと騒がしく鳴り響くベルの音。
列車の接近を知らせる踏切の警報器ではない。
単なるシティサイクルに付いたベルだ。
もう既に彼の声は自分の耳に届いている恵だが、敢えて無視せずにはいられない。
「おいっ! 恵ってば! 聞こえてねぇのかよ!」
振り向く間もなく彼女のすぐ後方で、手入れのされていないブレーキが金切り声をあげながら、一台の自転車が止まった。
それが何者か確認する必要もない恵に代わって莉緒が問い掛けた。
「どーしたのよ、悠亮?」
恵にとっては莉緒と同様に、この町に来て入学した小学校以来の同級生でもある。
南会津に四軒ある酒蔵のうちのひとつで、宇迦神社の祇園祭では濁酒の醸造指南をしている蔵、
そこの息子であり腐れ縁の悠亮だ。
佐藤家と権現酒造の付き合いが深いゆえに、恵はここにやってきてからもなにかと悠亮と行動を共にする羽目になったと考えているが、彼の気持ちは真逆である。
莉緒と悠亮は田ノ原の生まれで、彼らは恵がここに転入するよりも前から一緒であったが、それが一変したのは彼女の登場だ。
今だってこうして彼女のせいで要らぬ心配をさせられたと考えているのだから。
彼は日直だったはずだが、その役目を早々に終えると自転車を飛ばして先に出た恵を追ってきていたのであろう、荒く全身で息を整えていた。
真冬の凍てつく寒気を吹き飛ばすかのように白い息を吐き続ける彼はまるで白煙をあげる蒸気機関車のようである。
そんな呼吸の乱れが落ち着くのも待てずに彼は言葉を発した。
「お前さぁ、この町を出るってホントかよ?」
「そうだけど別に悠亮には関係ないことでしょ?」
「お前の親父さんには世話になったんだからさ、俺は恵のこと心配して……」
「だいじょうぶ、間に合ってます」
「そういう言い方ねぇだろ? 俺は本気で心配してやってるってのに」
「あんたの方こそ、自分の心配した方がいいんじゃない? お家の蔵を継ぐから理系の学部に行きたいっていうのに、数Bと化学の成績はあたしより悪いんだからかなりヤバいよ」
別に彼と恵は相性が悪いという訳ではない。
莉緒とは異なり相手が男子だからかも知れないが、なにより父親同士が仕事上の縁で仲が良く、家族ぐるみの付き合いがあるというのが大きい。
多少の遠慮は無用、これくらいのやり取りは日常茶飯事だ。
「俺はこれから勉強して成績を上げるからいいんだよ。もし受験するってのなら俺の通う塾の授業が結構丁寧でさ。お前もそこ行けよ。おばさんや親父さんにも紹介してやろうか?」
「そんなの自分のことくらい自分で決めるよ。間に合ってますって言ったでしょ?」
すると隣にいた莉緒が嘲笑を浮かべながら悠亮の顔を指差す。
「やーい、めぐに秒でフラれてやんの」
「はぁっ? 別にそんなんじゃねぇよ! 莉緒が勝手に言ってるだけだろ!」
どこか苦々しく照れに似た様子で彼は顔を紅潮させると、ペダルを思い切り踏み込んだ。
そのまま視界の先からあっという間に消えてゆく。
「悠亮さ、ゼッタイめぐのこと意識してるよね?」
「そう? あれで? 男子なんて女子のことみんな同じ目で見てるよ」
「周りから見てたら、めぐ達けっこう面白いよ。少なくともあたしは悪くないと思うけどね」
「あたし達の仲が?」
「うん、まぁ、めぐにその気が無いならそれでもいいと思うよ?」
なんとなしに含みを持たせた友の答えと、その笑み。
無論、莉緒が何を言わんとしているのか、そんなことは恵だって百も承知だ。
それにあまりにも近くに居過ぎて、彼を異性として見ているかと言われれば、恋愛感情に似たそれではないと思える。
これが、この町で暮らす上での他者との距離感の近さ。
それに伴うパーソナルスペースの少なさ。
なので恵も努めて『都会的』な対応を取らざるを得ない。
腹を割らず、波風も立てず、しかし上辺だけは親しく振る舞う。
他愛ない立ち話をしているうちに目の前にある本物の警報器が鳴りだした。
数少ない列車の時刻。
横浜に居た頃と比べて電車の本数の少なさには驚いたが、それは目まぐるしく個と個がすれ違っていくだけの、無関心で他人行儀な都会ならではの景色であるとも思えるし、鉄道ダイヤが少ない田ノ原では、必然的に駅の待合室や毎日同じ列車内でも皆が小さなコミュニティを作るのは、やむを得ない事なのかもしれない。
などと自覚している恵にとっては、十一年近くを過ごしたこの町が第二の故郷とも言える。
いや、まだ幼稚園生だった時に暮らしていた横浜が、果たして生まれ故郷と言えるのだろうか。
幼く自我も曖昧で、もはや記憶も薄れかけている日々だというのに。
だとすると受験を経て田ノ原を去れば、隣の友と離れ離れになる事には若干の後ろめたさもある。
でもやはり、誰もがいつも自分を見ているような、ここの感覚は居心地悪い。
自分はやっぱり田ノ原に馴染めなかった、よその子なのだろうか。
それとも田ノ原を捨てようとしている裏切り者か――。
「それじゃあたしはここで。じゃあね、めぐ」
「うん、また明日ね」
莉緒と別れた後、恵は周囲に人が居ないのを確認してからマスクを取った。
目一杯に息を吸い込むと、凛と張り詰めた冷気が口腔内から喉の奥を一気に駆け抜ける。
それだけで体温がいくらか奪われたような気すらした。
そして上空に向けて思いきり息を吐き出す。
心の中の靄も吹き飛ばすかのように肺の中の空気を出し切って。
白い吐息は瞬く間に霧散する。
程なくして雪化粧をした山裾の景色に紛れ、途端にその姿を消した。
それを掴もうとしても掴めない。
姿は見えるのに、到底掴めぬものを掴もうとしている自分を嘲笑うかのようだ。
まるで釣り人から逃げる川魚のごとく。
そんな事は充分に分かってはいるけれど、恵は空に向けて手を伸ばさずにはいられなかった。
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