町の記憶

第三十一話

「……っていう事が学校であってさ。悠亮はあたしより理系の成績悪いってちょっと煽り過ぎたかな、アハハ」



 帰宅した恵は冷蔵庫に入れた麦茶をグラスに注ぐと、一口飲んでから話を切り出した。

 そんな娘の発言に母も祖母も呆れながら湯呑を傾ける。


「アハハじゃないわよ、恵。悠亮くんに悪いでしょ。そういうあんたこそ返ってきたテストの結果は散々だったでしょ。それに莉緒ちゃんからもお誘いがあったのに、ここんとこは、また塾にも行ってないみたいじゃないの」

「図書館でちゃんと自習してるってば」

「まぁ確かに悠亮くんも一緒に居たみたいだけどね、それなら塾の自習室を借りればいいのに、そんなに塾に行きたくないの?」


 相変わらずの衆人環視。

 田ノ原で目立つことはできないし、目立たぬように生きることもできない。

 しかしここ最近は自ら話題を振りまいていると自覚していない恵は、天を仰ぎながらごくりと残りの麦茶を飲んだ。



「ところで秦野はだののおじいちゃんから、お茶や小麦粉や夏野菜が今年もたくさん届いたのよ」


 そう言う母と祖母の足元には大きな段ボールが二つ、口を開いていた。

 すなわち彼女達がおやつに合わせて飲んでいたのはさっそく届けられた新茶だ。


「へぇ、秦野のおじいちゃんから」


 恵の母である佐藤の家ではなく、婿養子に入った父の元の実家は、神奈川県でも西部、丹沢の麓にある。

 両親は横浜で出会い結婚し、そこで恵を授かった訳だが、こちらに来るまでは彼女も何度か遊びに行った記憶がある。


 恵は神奈川の祖父母の記憶を辿ると、あちらにも水無川がある事を思い出した。

 しかし同じ名の田ノ原のそれとは異なり、向こうはいつ見に行ってもしっかり川が姿を現しているので、しばらくは『水有川』と呼んでいたものだ。


「せっかくだし、悠亮くんのお見舞いついでに何かお裾分けするから、届けてちょうだい」

「え~? だってあいつどうせ寝込んでるよ?」

「いったい誰のせいでそうなったと思ってるのよ。お母様にお渡しなさい。そのあとちゃんと塾にも行くのよ」

「わかってるってば」


 名産品である落花生を用いた銘菓のピーナッツ煎餅と、うどんを持たされた恵は、帰宅した際の制服のまま渋々外出の準備をする。




 上町地区にある権現酒造の店先では、恵と悠亮の母が会話をしていた。


「まぁ恵ちゃん。わざわざありがとうね。ホントあの子ったら仕方ないんだから」

「いえ、あたしがもう少し早く気づいてあげてれば」

 無論それは単に悠亮の異変だけではない。

 彼がノイローゼになるくらい理系の成績に悩んでいたことに気付かず、無神経に煽っていた事実を、だが。


「それで悠亮くんは?」

「部屋で大人しくさせてるわ。もしかしたらまたコロナかもしれないし、恵ちゃんにうつしても悪いから、また今度お礼をさせて貰うわ」

「はい、すいませんでした。お大事にって伝えてください」


 そう言って恵はぺこりと頭を下げると店を出た。

 彼女が自転車に乗ってまたどこかへ向かうのを見届けた悠亮の母は、今は物置として使っている小さな蔵に入る。


「恵ちゃん帰ったわよ。あんたせっかくお見舞いに来てくれたのに会わなくていいの? だいいち学校を早退したと思ったら急に蔵の中でいったいどうしたのよ?」

「いいんだよ、今は調べもの」

「ホントのコロナだったらどうするのよ」


 それでも彼は一心不乱に古い茶箱を開けて、中を覗いてはまた新しい箱を探す。

 そんな息子の姿に呆れながらも母は彼を残して蔵を出て行った。



『なんだってんだよ、例の茶箱が全然みつからねぇ。会津日刊のあれはどこにやったんだ』


 倉庫の中では茶箱の蓋の内側に据えられたトタンの、べこんばこんという乾いた音だけが鳴り続ける。


 似たような茶箱は幾つもある。

 だからすぐに発見できるであろうと思っていた悠亮だったが、どれも似たり寄ったりで、どの茶箱を開けてどの茶箱を確認したかが、次第に分からなくなっていた。

 次こそはと意気込んで蓋を開けてみたものの、それらしい物ではない。

 頭上高く上げた蓋をゆっくり下ろすと深い溜息をついた。


 先週末に蔵を整理した際に見た、例の新聞記事にあった白無垢の写真と、恵が調べてきた古い記事が繋がるような気がしてならない。

 何よりそれを見てから、自分が壊れてしまったのかという程に出会う幻覚。

 そこに恵が語った、田ノ原のものとは全く違う『岩魚の怪』の別の話。


 いっそのこと白無垢の存在について蔵の誰かに聞こうかと思ったが、父も杜氏も商談で外出していた。


「ダメだ、みつからねぇや。それよりも片づけとかないと親父に怒られる」

 やむなくここは一時中断と悠亮は茶箱の蓋を閉めようとした際に、いま開けたばかりの茶箱の中にある古めかしい帳簿が目に入った。


「……御芳名ごほうめい帳?」


 持つだけで自重で破れてしまうのではないかというくらいに傷んで茶褐色になった和紙の束をそっと取り出すと、軍手の滑り止めを利用して慎重に紙をめくる。


「支え、倉、家……支店の蔵でもあったのか? 御婚礼……あっ支倉はせくら家、御婚礼か」


 漢字ばかりの帳簿を読み返しながら、悠亮は既視感のある文字に首を捻る。


「あれ? 支倉さんってどっかで見たような気がするな。えっと祝、儀、御返礼……要するに支倉さんとこの結婚祝いで受けた注文の帳簿か」


 それは祝儀用の酒樽を納品したと思われる当時の顧客リストであった。

 墨汁の筆書きであったが、丁寧に書かれていたため悠亮にも難なく読解できた。

 現に今も、権現酒造と取引のあるとおぼしき見慣れた顧客は数多くある。

 だからその中で支倉という苗字を見たかもしれないが、そうではないような感覚もあった。



 改めて悠亮は帳簿を見る。

「うん? これって確か恵の言ってたやつ?」


 記載のあったその顧客のひとつは非常に見覚えのあるものであった。

 厳密に言えば文字としてではないが、読んだ瞬間に音を聞いたばかりであるのは、すぐにわかった。


「祝樽……一二個、二十五円。御返送先、和菓子舗『越路』令夫人御実家。東京府南葛飾郡亀戸町大字おおあざ二丁目……なんか恵が急に東京府や亀戸がどうとかって言ってたよな?」


 メモを取るために悠亮はポケットに入れていたスマートフォンで画像を何枚か撮影しておいた。

 それから再び軍手をはめると慎重に紙を送る。


「いったい何をやってるんだ、悠亮」

 父が帰宅した物音にも気づかずに居た悠亮は、背後から虚を突かれて全身を震わせた。


「なんだ、親父。帰ってきてたのか」

「なんだじゃないだろう。母さんから聞いたぞ。お前こそ学校をサボって帰ってきたと思ったら、倉庫をひっくり返して何事だ」

「そう。何事なんだよ。親父さ、こないだ見た茶箱の会津日刊の記事。七行器行列の写真の中にひとりだけ本物の白無垢の人が居たじゃん。他の花嫁衣裳はみんなカラフルなのにメインで白無垢を着た人はどういう扱いなの? 前に婚活の場だったって言ってたけど、あれは祭りじゃなくて実際の結婚行列だったんじゃないの?」


 悠亮の父は息子の問いに、わずかに表情を硬くして唇を締まらせた。


「そうだ。未婚女性が行列への参加条件だが、ただ唯一の例外は、婚礼を控えた女性が白無垢に大番傘で行列の中心を歩いたと聞いている」

「それ今の祭りには無いじゃん。いつやめちゃったの?」

「さてなぁ、俺もお前のじいさんやひいじいさんから聞いただけだから……」

「祭りって大正時代に一度中止になってるでしょ? 関東大震災が影響してるとか? 日本じゅうが自粛ムードだったわけ?」

「我々はその時代生まれじゃないからなぁ、俺も詳しくは知らんよ」



 悠亮には肉親であるからこそ、その反応が良く分かる。

 この話題をこれ以上は避けるべきであると、父の雰囲気が伝えている。

 それを察した悠亮はそこで会話を一旦終わらせることにした。


「……そっか、わかった」

 彼は茶箱を元あったように積み上げて倉庫を出た。



 息子が居なくなったところで改めて父は倉庫の中を見回す。

 すると一部始終を見ていた杜氏が入って来た。


「坊っちゃん、例の茶箱の新聞に興味を示していたようで、処分しておいて良かったですね」

「いやぁ井上さん、あれは俺も迂闊でしたよ。なにやら佐藤さんとこの恵ちゃんといい悠亮といい、例の事を調べているようで、なにせ今の時代はインターネットがあるからね。到底隠し通せるとは思えないですが……」


 二人が蔵の外を見やると次第に薄暗くなっていた。

 太陽の光が陰りを見せ、灰色の空が田ノ原の町を覆い尽くす。

 ようやく梅雨らしい光景になり、これで多少のお湿りもあれば暑さもひと心地、という風情ではない。


 得も言われぬ重苦しさが立ち込め、町は色を失っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る