第52話 温情
壁に張り付くようにして、文字通りの崖っぷち状態で進む『J』は、足元に広がる光景を見て、まるで地獄の窯の蓋が開いた様だと、一週回って冷静にそんな感想を抱いていた。
『J』すぐ後ろを進む青年二人も、おそらくは彼と同じような感想を抱いているだろうと考えながら、ちらりと様子を観察してみる。
『H』の友人の青年は背中を壁に預け、硬い表情だが足元に広がる光景を見つめて「グロい」などと感想を漏らす余裕がある。
一方で『G』の連れの青年は壁に張り付くようにして、一歩進むた度にびくびくと体を震わせ、血の気が引いた青白い顔で、恐怖で唇をわなわなと震わせている。足元を確認するために、目を閉じる事が出来ないため、否応なしに眼下の光景が目に入ってくる。彼は恐怖によるアドレナリン分泌で、一時的な高揚状態になっているお陰で気を失う事を待逃れていた。
かつては荘厳ながらも華美過ぎない、気品のある内装だった玄関ホールは、度重なる破壊行為で見るも無残な姿をさらしている。
ホテル側と地下に埋まった屋敷の内装が、点滅するように交互に見えたり、ぼんやりとした虚像が重なった光景が、招待客達の脳を混乱させる。
少年曰く、招待客達はホテル側の干渉が強いので、よほど運が悪いか何かに引き込まれたりしない限りは、建物の状態異常の影響は殆ど無いが、それでもアレらも外から来たモノ達なので、取り込まれてもある程度はホテル側への影響は残っている。
分かりやすく言えば、アレらに襲われて取り込まれれば、その一部として引きずり込まれる、という事らしい。
地下にある屋敷が下、地上にあるホテルが上に重なっている状態で、故に見えている景色はホテルの物。壊された備品もまた、上のホテルの物。
建物その物の構造を同じにする事で、同一視する事で空間を重ねている。だから、儀式が終われば、上から重なっていたホテルが無くなれば、地下の屋敷の最初の状態に戻り、儀式内での建物の破損は反映されない。
だが、少年もまた、地下の屋敷に居る存在であり、彼が身に着けた状態で儀式が終了すれば、それは地下の屋敷の物とみなされる。これは少年が、ホテルの物を取り込んだとみなされているから。
ホテルにあった物が完全に地下の屋敷の物になるのは、儀式が終了した時点であり、それまでは少年が手にしたモノは二つの屋敷にまたがって、同時に存在している事になる。
故に、少年がホテル側の物で建物を攻撃した場合、どちらにもダメージが入る。
今回に限っては、姉が持ち込んだ手製の爆弾による衝撃が、同時に二つの建物に入った。
同じダメージが入ったとしても、建物自体の耐久力は違ってくる。特に、ホテルに改装するに当たり、律儀にも建築法に定められた耐震強度などを守っている。
大正に作られた建物と、数十年差で建築されて、後に改装工事を受けた建物とでは、その爆発によるダメージの影響力に差が出てしまう。
結果的に、壊れた屋敷と、無事な屋敷が重なり合い、さながらプロジェクションマッピングの様に、映像を投影しているかのような光景となった。
招待客達が壊れた部分に触れたとしても、おそらくはすり抜けて落ちるという事にはならないとの事だが、そんな危ない賭けにのりたい者はこの場には居ない。
足元に広がるのは、血と肉と骨で構成された得体の知れないモノ。それが玄関ホールを満たし、徐々に上を目指して、這うようにしてゆっくりと移動している。
濁っているのにうっすらと透けた体躯のせいで、生々しい体の部位を確認でき、そのおぞましい姿を堂々と晒している。
のたうつ表面と中でゆらゆらと揺れて、かき回される部品達。
――その中の眼球が一斉に彼らを見た。
「——っ!」
青年の視力は良く、動体視力にも優れている。それでも俯瞰して見れば細かい部分まで把握するのは難しい。
だというのに、確かに青年はソレらの中にある、百人近い死者の眼球が、全てこちらに向けられるのを肌で感じ取った。
その瞬間に青年の背中に怖気が走り、全身が寒さによって震え、鳥肌が立ち、冷や汗が一気に噴き出す。
それでも歩みを止めないのは、ひとえに青年の強靭な胆力故。
『J』は青年ほどの身体能力を持っているわけではない、それでも長年培ってきた感が激しく警鐘を鳴らし、向けられた視線を感じ取る。
敵意でも、殺意でもなく、ただ、無遠慮に向けられた無感情な視線。
彼の脳裏には、この屋敷の中で見てきた死者達の、生気のない澄んだガラス玉の様な目が浮かび、それが全てこちらを向いている様を想像してしまう。
むしろ今までそれに感謝してきていた自身の想像力を、この時ほど恨んだことは無かった。
後ろの二人は大丈夫だろうかと、『J』が視線を向けると、偶然青年の視線が合い、お互い引きつった笑いを口元に浮かべている。
『G』の連れの方は、相変わらずアドレナリンのお陰でそう言った恐怖が麻痺しているらしく、ひたすら前に進む事だけに集中していて、視線には全く気が付ていないが、この時ばかりはそれが幸運ではあった。
少なくともそれに気が付てしまえば、彼は間違いなく卒倒してしまう。
目に映った贄を取り込むために、ソレらはさらに勢いを増す。全体的に広がっていたソレの体躯が、徐々に贄達が居る通路側へと集まっていき、嵩を増していく。
先頭の『J』が通路を渡り切り、後続の無事を確認するために振り返り、その光景を目撃してしまう。
崩れた通路の床に、ソレの先端が到達して這い上がってくる。青年もそれに気が付き、舌打ちをしてから、すぐ後ろに居る『G』の連れの腕を掴んで、全速力で走る。
点滅するように崩れた床の光景に恐怖しながらも、青年は足元を見るのを止めて、顔をあげて真っすぐに通路の終わりを見て走る。
腕を引かれた『G』の連れは、意味のない鳴き声を上げながらも、必死に足を動かして転ぶ事なく、なんとか彼に付いて走る。
壁を這うようにして恐る恐る進んだ時間よりも、はるかに早く通路を渡り切った。
渡り切った事にほっとして安堵するのと同時に、青年の目に映ったのは『J』の血の気の引いた顔。反射的に振り返った先には、通路を満たす塊。それが勢い良く、こちら目掛けて伸びてくる。
青年の反応につられ、『G』の連れが後ろを振り返ってしまい、その光景を視界に収めた瞬間、彼の意識が暗闇へと落ちていった。
「——おい!こらっ!」
青年が叫びながら、ぐったりと床に倒れた『G』の連れの腕を引っ張り、咄嗟に『J』が駆け寄って、彼のもう片方の腕を掴んで走り出す。
気を失った人間の体は重いが、男二人ならばなんとか走れる。もちろん引きづられる側の安全など、考慮する余裕などない。
「うわっ――!」
奥のスイートルームから、騒ぎを聞きつけて飛び出して来た『C』が、目の前に広がる光景に声を上げる。そして咄嗟に手に持っていた消火器を構えて、『J』達の背後に迫る塊に向けて放った。
勢いよく発射された白い消化液を喰らい、塊は怯み、動きが止まる。
すぐ横で放たれた消火器の飛沫が掛かるのを感じながらも、『J』と青年は強引に『G』の連れを引き摺って進み、手前のスートルームの扉を乱暴に叩いた。
「やべぇ――。あー……、この前、一緒に見た映画は――」
青年はこの部屋を出る前に、本人確認として当人達しか知らない事を合図にするという話を思い出し、この前の休日に『H』と見た映画のタイトルを叫んだ。
ちなみにそれは今年に流行ったアニメ映画で、評判が良いのを聞いて足を運んだ。確かに出来は良く、ホラーとアクションと適度なスプラッターな流血、そしてシナリオとキャラの背景が良かった。
青年が叫んだ瞬間に目の前の扉が開き、血相を変えた『H』が姿があった。友人のただならぬ声に危機を察知して、合言葉を聞いてすぐさま行動に移した。
青年、気絶した『G』の連れ、『J』、そして空になった消火器を塊に投げつけてきた『C』が、部屋の中へと走り込んできた。
「やばい!アレが森の主の中身的な奴が登ってきた――!」
彼らの無事な帰還に、部屋の中に居た招待客が胸を撫で下ろす暇もなく、青年から放たれた訴えに緊張が走る。
次の瞬間には、勢いよく扉が外から叩かれる音と、部屋を揺らすほどの衝撃が襲う。
「この部屋と外は遮断されていて、気配が分かり辛い」
スタッフの部屋に居た時もそうだが、スイートルームはやはり何かしらの特別な方法で保護されているらしく、生き物も紛い物の気配も感じられない。声や音で主張して、やっと何かが居る事に気が付ける程度な上に、扉は人間の手による破壊は受け入れるというのに、あの巨体の衝突を喰らっても、そう簡単には破壊されない頑丈さがある。
「——確認はしていないが、行こう!」
アリスが叫んで促すと、姉が少年の手を掴んで躊躇う事無く隠し通路へと入る。おそらくは少年が脱出の鍵なのは間違いないので、姉の判断に感心しつつ、アリスもそれに続く。
こうなっては順番など構う余裕などなく、近くに居る者から中へと入っていく。少なくとも、他者を押し退けるような真似をする者はこの場には居ない。
金属の床と壁に囲まれた隠し通路は、圧迫感が強く、息苦しく感じる。
地下の座敷牢の中へ逆戻りしたのでないかと、少年は錯覚してしまう。薄暗く寒い空気を思い出して、思わず足を止めそうになるが、先を行く姉がそれに気が付き、後ろを振り向いて大丈夫だと微笑みかけて、繋いでいた手をしっかりと握りしめる。
暖かい人の手を引かれた少年は、自分が一人ではない事を思い出した。不安に駆られて後続の招待客達に視線を向け、全員が通路の中に居る事を確認できると、寒さが和らぐのを感じて、視線を前へと向ける。
天井、壁、床は金属製だというのに、階段は石材で作られている。
アリスは手に持った携帯端末の明かりで、手がふさがっている姉の前を照らすように掲げ、何か見落としは無いか慎重に確認しながら、けれど着実に前へと足を動かす。
後ろでも数人がアリスと同じように携帯端末で光源を確保し、背後から響いてくる衝突音に体を震わせながら進んでいる。
ただ、気を失ってしまった『G』の連れを起こすのは諦めて、手の空いている『L』が背負って運ぶことになった。階段で気を失われて、後続を巻き込んで転げ落ちてしまっては目も当てられない。
それでも大人の男を背負うのはなかなかに重労働で、時折よろける『L』の背中を『H』が支え、少しで早く安全に進めるように心掛ける。
壁が迫ってくるような不安に押しつぶされそうになりながらも、すぐ傍に居る誰かの吐息や気配が、自分が一人ではなく仲間が居るのだと勇気づけてくれる。
ちなみに先頭は姉だが、最後尾は妹が務めている。本当はアリスのすぐ後ろが良かったのだが、念のために武器は手放したくないし、愛着がわいてきたハルバートが長物で、角度を工夫すれば何とか隠し通路は通れるのだが、流石に邪魔なので最後尾になる事を選んだ。
おそらくは数分にも満たないほどの時間だった筈なのだが、それが何十倍にも膨れ上がり、体感時間は果てしないものに感じられたが、その時もすぐに終わりを告げる。
アリスの明かりが照らし出したのは見覚えのある扉。正しく言えば、ホテル内で使われている扉と同種の物。
姉は特殊警棒を脇に挟んで、空いた利き腕でドアノブを回す。しかしすぐに動きが止まり、彼女をちらりとアリスの方に視線を向ける。アリスはそれで扉が施錠されているのだと気が付き、一旦懐に閉まっていたマスターキーを取り出して姉へと差し出す。
頭上で鍵を手渡すアリスの手と、それを受け取る姉の手を少年は見上げ、そして彼女と繋いだままの手を見る。
柔らかく、温かく、――華奢で、けれど力強い、優しい綺麗な手。
少年はその感触を確かめて、目の前にある光景が幻ではない事を確認する。
一人の少女の手によって、音をたてて扉が開錠され、ゆっくりと扉が開かれる。
開いた扉の隙間から差し込む光がゆっくりと伸び、少年の足元から徐々に広がっていく。
静かに開いた扉は、当たり前のようにそこにあり、いつもの様に誰かが通るのを待っている。
人の気配がなく、進行方向に差し迫った危険が無い事を確認した少女は、少年の手を引いて、怯えることなく扉の外へと足を踏み出し、それに少年も続く。
扉の向こうにあるのは、たった数日で見慣れてしまったホテルの光景。しかし見覚えのない部屋の光景に、本当に地下の屋敷から脱出できたのかと不安にさせる。
――窓の外から、日光が降り注いでいる。
衝撃の余波で割れた硝子窓から、新緑の香りを纏った風が吹き込み、少年の肌を優しく撫でて通り過ぎていく。
地下には無い太陽がもたらす光が、冷え切った少年の体を包み込み、ゆっくりと温めてくれた。
今度は少年が少女の手を引いて、廊下の割れた窓の傍へと誘い、割れたガラス越しに澄んだ青空を見上げる。割れた個所から差し込む陽光も、ガラスを通して届く光も、酷く美しく、残酷なほどに優しく温かい。
……ああ、――自分は、やはり、寂しかったのか。
座敷牢に一人でいた時に感じていた寒さも、地下の屋敷を一人で当てもなく徘徊していた時の虚しさも、今は遠い所にある。
いつもと変わらず、当たり前のように差し込む光と、手を通して感じられる命が、少年が此処に居る事を肯定している様に感じられた。
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