第6話 起動
その日はとても綺麗な満月だった。
暗い夜空にぽっかりと穴が開いたように、向こう側から煌々と、けれど優しく淡い光が降り注ぐ。
色ガラス越しに差し込む月光は僅かに色を含み、薄暗い床を照らしている事だろう。けれど、人のために作られた明かりが、それらを飲み込みかき消してしまう事を、アリスは残念に思う。
このホテルは元の屋敷にあった古い色ガラスをそのまま流用しており、濁ったが故の色ガラスの美しさがそこにある。透き通っているからといって、必ずしも美しいわけではない。時には濁りや歪みや不均等な事が独特の個性を生み、調和のとれた美しさとは違う、不安定な美しさが生まれる。
……本当に完璧に整った美しいモノが、この世界にどれほどあるのだろうか?
遥か太古から美の象徴とされてきた月ですら、本当はその表面は凹凸だらけで、自ら光を纏っているわけではない。
歪みなど無い完璧なモノはきっと美しいのだろう。けれど、歪んで足りないからこそ美しいモノも存在する。
腕が無いからこそ美しいと絶賛されたビーナスしかり、不完全故の美しさがそこにはある。
アリスは自分が人よりも歪んでおり、色々と足りない事を自覚している。幼い頃は、幼児故の無垢な可愛らしさで、第二次成長期を迎えた際は、身体が男性へと変わる直前の少年の不完全な美しさで、青年へと変わる寸前の少年の失われゆく儚さで、アリスは他人から身勝手な理由で傷つけられた。
——穢れを知らず、自分に笑いかけてくるから悪いのだ。
——誰にでも、平等に微笑みかけるから悪いのだ。
——自分には笑いかけてくれないから悪いのだ
……私に、どうしろというのだ。
幼い頃は世界が狭く、自分が皆に無条件で好かれていると思っていた。だから、話しかけられれば笑顔で挨拶をするのが当たり前で、周りの子供だってそうしていた。
少年になって学校に通う様になって、仲良くできる人間と出来ない人間がいると理解した。それでも努めて誰にでも平等に接するようにした。少しませていたし、周りから見れば、良い子であろうとするのが気に喰わなかったのかもしれないが、それでもそうあれと教師にも、道徳の授業でもそう習った。
義務教育を終えて、皆がそれなりに肉体的にも精神的にの大人になり、我を通さず妥協する事を覚えた。程よい距離で付き合えるようになり、無理やり表情を作る事を止めただけだ。
教師も人間で、気分で態度が変わるし、日によって言っている事が変わるなんてよくある事だと分かった。全員と仲良くなるのは無理だが、表面上の付き合いという物を覚えただけだ。
沢山の身勝手な欲望と、理不尽な言葉を向けられた。
何故、自分が我慢をして、相手の言い分ばかりを飲み込ま気ればならないのだ。
何故、自分ばかり、怖くて痛い思いをしなければいけないのか。
——何より、何故、思う通りにならないからと、力ずくで、暴力でアリスを支配しようとするのか?
成長して大人になれば体格も良くなり、無理やりどうこうしようとする人間はいなくなるだろうと、漠然と考えていた。
——結局は、人間が一番恐ろしい。
そんな事を延々と繰り返し考えてしまうのは、睡眠不足で思考能力が弱っている事が原因だろうかと、そう思ったところでアリスは我に返った。
昨晩とは違い、浅い眠りと悪夢を繰り返したせいで、アリスは眠る気がすっかり失せてしまった。ベットですやすやと安眠している相手を起こさぬように気を配りながら、アリスはそっとガラス壁傍のソファーに腰かけた。
硝子越しに降り注ぐ月光に顔を上げ、満月を眺めていると自分の頭がぼんやりと霞んでいくのを感じてはいたが、気が付いた時には意味もなく時間を浪費していた。
……駄目だな。眠れないにしろ、体を横にして目を瞑って、少しでも体を休めておかなければ。
そんなアリスの耳に僅かに悲鳴のような掠れた声が聞こえてきた。
言葉としては聞こえてこないが、その途切れ途切れの声には恐怖が滲んでいるのが分かる。
アリスが置時計に目をやると、そこにある置時計の針は十二の数字を少し過ぎた所。真夜中にホテルで騒ぎ立てる輩がまともな状態だとは思えないし、こういった事はホテルのスタッフが対応するのが普通だろう。
そう考えたアリスは座ったまま目を閉じ、部屋の外の声が完全に途絶えるのを待ったが、なかなかなくならない事に違和感を持ち、意を決して一人で外に出る事にした。
気が付けばガラスの向こうの月は完全に隠れ、深い闇の中に沈んでいる。まるで月に見放されてしまったような気がして、アリスは一抹の不安を覚えたが、その考えを振り払って立ち上がる。
「——叔父様?何か外が騒がしいようですが……」
一番入り口に近いベットで寝ていた少女が、アリスの気配と外の騒がしさで起きてしまった。
「ああ——、何やら騒がしいから、少し見てくる。様子を見たらすぐに戻って来るから、念のために施錠をして起きていてくれないか」
少女が独断先行してしまわない様にと、アリスは前以って釘をさしておく。不満はあるが年上の意見に対して、しぶしぶと言った様子で少女が頷くのを確認してから、アリスは扉を開いた。
外に出ると声はより鮮明となり、おそらくは誰か人を呼んでいる。誰かというのは明確に一人を指しているわけではなく、駆け付けてくれる人間ならば誰でもいい、という意味合いだとアリスは判断する。背後でパタンと扉が閉まる音がした。
声の方角——おそらくは『アルファ』の棟の方を向き、アリスは真っ直ぐに向かうべきだろうかと部屋の扉の前で思案していると、カチャリと隣の部屋の扉のノブが動く音がした。
そっと慎重に開かれた扉から現れた人の良さそうな男性が顔を覗かせ、アリスの存在に気が付いてビクッと体を震わせて固まる。異変を感じて部屋の外に出たら、いきなり見知らぬ人がいれば誰だって驚く。相手が初対面の灰色の髪をした男性であればなおの事。
扉にしがみつくようにして固まっている相手に、アリスは外行きの笑顔を張り付けて、努めて冷静に見えるように言葉を紡ぐ。
「——初めまして。隣の部屋の……『М』です」
アリスはホテルのルールを思い出しながら、自分が今出てきた部屋に掛かってるプレートへと視線を向ける。寝起きでまだ完全に覚醒しきっていないであろう男性は、アリスの視線の先の『М』と書かれたプレートと、自分が掴んでいる扉の外側に掛かっているプレートの事を思い出したらしく、視線をあらぬ方向へと向けて暫し逡巡した後、部屋から出てきて扉を閉めてから会釈をして挨拶を口にする。
「——これは失礼しました。えーっと……ああ、そうそう、『L』です」
何とか表情を取り繕う少し寝癖の付いた状態『L』が、廊下の先から途切れ途切れに聞こえてくる声に顔を顰めた。気が付けば声は複数人の物になり、妙に騒がしい。
いよいよの異常事態にアリスは顔を顰め、声の発生源を確認するために向かおうすると、『L』が呼び止めてきたので足を止めると、彼が部屋から出て扉を閉めて施錠してから駆け寄ってくる。
「すみません。よろしければ、俺もご一緒していいでしょうか?一人で行くのも少し不安で……」
人間は分からない事を恐れる生き物だ。故に、その何が起きたか分からぬまま、自分の部屋に戻るのは憚られたのだろう。ならばいっその事、赤の他人であっても連れがいる今の内に確認しに向かう事を選んだらしい。
アリスはどっちにしろ向かう方向を一緒だからと了承して、正面階段を挟んだ向かい側へと足を向ける。
正面玄関を挟んだ反対側には『アルファ』の棟があり、『A』から『G』までの部屋がある。一つの棟には客室が十三部屋ずつあるのだが、プレイオープンの客は十三組しかいないとの事で、向こうの『アルファ』の棟に七部屋、アリス達の方『ベータ』の棟に六部屋用意されている。
わざわざ客室同士を離すと、スタッフは移動が少し手間だが、片方側だけ使用させるよりは両方の部屋を稼働させる事で、本番に近い雰囲気を感じて欲しかったようだ。
部屋のプレートは取り外しは可能なため、グランドオープンの際は全てのアルファベットの客室を稼働させる予定らしい。
アリス達が速足で正面階段の上の廊下を通り過ぎる際に、玄関ロビーが目に入ったのだが、最低限の明かりによってギリギリ見渡せる程度ではあったが、フロントが空っぽでスタッフの姿が見当たらない。
異変に気が付いて対応に向かったのだろうかとも思ったが、それでも留守を誰にも頼まずにフロントを空にするのは宜しくない。スタッフが最低限とはいえど、夜勤の人員は確保しておくべきだろうと、アリスは『L』に聞こえない様にため息を吐く。
もしかしたら新人教育が足りていないのだろうかと考えているうちに、『アルファ』の棟に辿り着いた。
こちら側は明確に騒がしく、客室に居た大半の客が出てきている様だった。もちろん同室者が部屋に残っている人もいるだろうが、それでも向こうが静かだったせいか異様に騒がしく感じてしまう。
皆が一様に青ざめており、明らかに冷や汗をかいた青白い顔の客が、体調が悪そうに廊下の隅に座り込んでいたりもする。皆が明確な台詞は話さずに、「何故?」「何が?」「どういう事?」と声を上げて、混乱しているのが良く分かる。
おそらくは彼に問いかけても明確な答えは貰えないであろうと察して、最も騒がしい廊下の奥を目指して進む。
進むにつれて密集率が上がり、他人の恐怖による熱気が伝わってくる事が不快で、アリスは僅かに顔を顰める。
声掛けをしながら人の隙間をぬって歩き、人だかりを抜けた先でアリスが見た光景は、今までの人生の記憶の中で、はっきりと目にした事は無いものだった。
——人の形をした塊が無造作に倒れており、鉄臭いと表現される匂いが辺りに充満している。
……ああ、なるほど。客達が混乱しているのはこれのせいか。
暢気ともいえる場違いな感想を抱いてしまったのは、アリス自身も酷く動揺していたからだったのだが、周りの客と比べると随分と冷静に見える。
アリスは元より表情を浮かべていないと、近寄りがたい雰囲気だと言われた事がある。それが人付き合いをする上で良くないと分かっているので、平時は常に微笑みを浮かべて接するように努めているのだが、この時ばかりはそれが出来ずに、真顔になってしまっていた。
……とりあえずは救急車と警察……いや、まずは生存確認と、息があるのであれば止血と……。
いざ不測の事態に陥ると頭の中が真っ白になると言うが、本当にその通りになるんだなと、アリス自身は混乱しているというのに、その場を客観的に見ている自分がいる。
周りの人間達の様子を窺うが、全員が目の前の光景に動揺して混乱していて動けないでいる。
塊から零れ落ちた液体が赤い絨毯に染み込んでいくのが、硝子越しに刺す月光によって浮かび上がっている。
現実感のない光景に、その場にいた人間達は呆然と立ち尽くす事しかできない。
確かに今いるホテルのコンセプトは「日常から離れて自分らしく過ごす」という物ではあったが、非日常すぎる出来事を、宿泊客は誰も求めていなかったのだろう。
——いや、内心思っていたかもしれないが、本当に起きるなんて思っていなかった筈だ。
当たり前の日常が続く事を求めながらも、心のどこかでは非日常の刺激を求めている。それを心の思う事ぐらいは誰にだって覚えがある筈だ。
年をとって大人になれば現実を理解して、身分相応な生活を心がけるようになる。それでも刺激を求めて、不倫やギャンブルにのめり込んで堕落する者がいると考えると、それはとても魅力的で退廃的で、それらに魅了される人間が出てくる。
……きっとこの場にも憑りつかれたモノがいる。
そんな事を考える自分が一番頭がおかしいのだろうと考えながら、アリスは無表情で事の成り行きを眺めていた。
他の宿泊客の一人の体が弛緩して、そのままその場に崩れ落ちたのを皮切りに、止まっていた時が動くかのように一気に騒がしくなった。
——悲鳴を上げる。
——腰を抜かして絨毯の上で藻掻く。
——現実を受け入れられずに卒倒する。
——一目散に逃げだす。
——助けを求めて走り出す。
——呆然自失で動けない。
——冷静に塊へと近づく。
アリスは人垣をすり抜けて先頭に躍り出ると、その塊の正体が少し前までは人間だったと事を改めて確認し、無駄だろうと分かってはいたが念のために呼吸と脈があるか確認する。
何度か講習で救助訓練をした事があるが、まさか実践する事になるは思わなかったと、興味本位で参加した時の事を思い出しながら、首筋の太い血管に指を添える。
とはいえこの出血量では、傷を受けた時にショック死してる可能性が高い。赤い絨毯なので分かり辛いが、随分と湿っている。この出血量では生きていたとしても長くは持たない。町から離れたこの場所では、救急車を呼んだところで間に合わらないだろう。
……やはり亡くなっている。
何となく分かってはいたが、それでも万が一まだ生きているのであれば、人命救助を行うのが正しい行動だろうと、アリスは判断していた。
頭の中でぐるぐると、かつて講習で習った知識が浮かんでは消えていく。
誰もが頭では分かっているとはいえ、それをとっさに行える人間はそうはいない。誰だって非現実を目の前にすれば、脳の処理が追い付かずに行動不能に陥ってしまうだろう。
この場において正しい行動をしたのはアリスではあったが、正しい人間の反応をしたのは他の宿泊客達の方だ。
それが分かっていても、アリスは残っている他の客達が動かない事を察して、自分が動く事にしただけだ。
「——すまないが、誰かスタッフを呼んできてくれ。警察を呼ばなければ」
彼の言葉でようやく我に返った一人である『L』が、慌てて懐から携帯端末を取り出して警察を呼ぶために百十番にかける。だがすぐに返ってきた電波が繋がらないというアナウンスに愕然とする。
それを聞いたこの場に残っていた客達が、一斉に外部との連絡を取ろうとするが、ことごとく繋がらない。何度も繰り返し同じ番号にかけて無駄だと分かると、別の番号にかけ直したり、電波が通じる場所がないかと携帯端末を掲げてうろつき回る。
アリスも自分の携帯端末で外部との連絡を試みてみたが、やはり機械によって合成された声が聞こえるだけだ。
アリスは他の宿泊客達も同様なのだと反応で察すると、周囲を見回して一番近くにあった電話の子機へと向かう。
同じことを先に考えた客が先に壁に設置されている受話器を手にして、フロントにかけようとしていたのだが、どうも様子がおかしい。何度も何度も内線のボタンを押したり、受話器を戻して再び持ち上げたりを繰りかけしている様子から、何が起きているかは大体察しが付く。
おそらくはすでに人を呼びに行った客もいる筈だろうと、アリスは遺体のある場所に戻る事にした。凶器や犯人を見つける手掛かりが残っていれば御の字だが、そう上手くはいかないだろうと冷静な自分が諭してくる。
現場保存を心がけるべきだろうが、この状況で素人判断をして多少失敗しても仕方がないだろうと、アリスは結論付けた。
事件現場まで戻ってきたアリスに、最初に警察に連絡しようとしていた『N』が目線で説明を求めてきたので、正直に内線電話が機能していない事を告げる。
真っ先に現場から離れた客の誰かが、スタッフの誰かしらを捕まえてくれることを祈るしかないとアリスは考えて、すぐにそれを否定する。
……これだけの騒ぎに誰も駆けつけないのはおかしくはないか?
騒ぎを聞きつけた宿泊客がちらほらいるのに対して、その中に制服を着たスタッフが誰も居ない。
ドクンと強く脈打ち、アリスは自分の呼吸と脈が速くなるのを感じながら、最悪の状況が思い浮かんで胸の奥が苦しくなる。何とかそれを押し込めて努めて冷静を保とうとする。
こんな状況で焦った所で何も変わらないし、むしろ無駄な体力を消費しない事の方が大切だ。下手な行動で怪我でもしたら目も当てられない。
「私はスタッフを探してきます。誰かが戻って来るかもしれないので、人が来たら分かる位置で、遺体を見張って貰ってもいいですか?」
重い足を何とか動かして、『L』にスタッフを探してくる旨を伝え、見張りとしてこの場に留まる事を頼む。『L』ちらりと廊下に転がる死体を一瞥して、すぐに視線に戻して小さく頷く。青白く冷や汗をかいてはいるが、他の客に比べれば比較的落ち着いていたので、この場を任せて大丈夫だろうと判断した。
部屋に残してきた姪が心配ではあるが、自分が戻るまで決してドアを開けない様にと伝えてある。
……完全に信用できないのが問題ではあるが。
見目が良く、初対面の相手には礼儀正しい。けれど割と直情的な部分もあり、一度決めたら揺るぐ事のない精神力を持ち合わせている。
自分がこうだと決めてしまえば、目もくれずに行動してしまう節があるので、いったん部屋に戻って姪の無事を確認して、簡単に状況説明を行うべく、自分が割り当てられている客室へと足を向けた。
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