第7話 探索
アリスは一度自室へと戻り、大人しく部屋で待機していた姪に事の成り行きを説明する。
少女は驚いた様子ではあったが取り乱すことなく、数秒間目を見開いたぐらいだった。元より肝が据わっているので彼女らしい反応と言えばそうだ。
ただ、日常会話の一端で、近くで事件があった——ぐらいの反応されるのはアリスとしては微妙だ。少女の情緒面での成長を心配してしまう。
だが、今は説教も人生相談も優先すべきことではない。それに可能性は少ないが、もしかしたら実は顔に出ないだけで、内心は恐怖しているという可能性も無くはない。
「すまないが私は従業員を探してくるから、しっかり施錠をして大人しくしていてくれ」
充電していた自分の携帯端末を確認している少女にそう声をかけて部屋を出ようとすると、少女がアリスに携帯端末を貸して欲しいと告げる。
どれも繋がらないのは分かっているというのに、どうするつもりなのかと尋ねると、少女は至極冷静に答える。
「私の携帯端末を代わりに貸しますので、それを持って行ってください。なにが起きるか分からない状態ですので、念のために全ての端末を充電しておきたいと思いまして。どうやらすべての端末が通信不能のようですが、何かの拍子に外部と連絡が付く可能性もあります」
少女はすでに私服に着替えており、シャワーも済ませた様だった。軽く汗を流す程度の時間だったとはいえ、アリスは思ったよりも時間の進みが早い事に驚いてしまう。
少女の言い分はもっともなもので、アリスはそれに従い自分と少女の携帯端末を交換してから再び部屋を後にした。
アリスはとりあえずはフロントの方を回ろうかと考えたが、先ほど部屋に戻る時に玄関ホール前を通った際に、他の宿泊客が呼びかけながら一階の施設を捜索しているのを見かけている。
そちらは他の宿泊客に任せて、自分は別の場所を探す事にして、玄関ホールではなく、『ベータ』の棟の二階客室の並ぶ廊下にある階段へと足を向ける。
二階は客室と使用されていない空室が数部屋あるのだが、その廊下の端に三階に上がるための階段がある。階段の下は納戸になっている様だが、こちらは施錠されている様だった。
三階へと通じる階段の前には、禁止エリアが分かりやすいように紐で繋がれたポールが置かれている。関係者以外立ち入り禁止と書かれたプレートが吊るされて念押しがされており、従業員が通るためにポール自体は簡単に動かせる。
緊急事態なら咎められる事も無いだろうと、アリスはポールの位置をずらして三階へと通じる階段に足をかけた。
関係者以外立ち入り禁止という文字を見たせいか、後ろめたさを覚えたアリスは足音をたてないようにしながら階段を上る。階段は壁に沿うように作られており、小さな踊り場で直角に曲がり、さらに上と伸びている。
階段は木製で手すりは光沢があり、きちんと手入れはされている様だが、時折足を乗せると踏板がきしんで床鳴りがする。それが異様に耳障りで、嫌な想像を掻き立ててきた。
階段を上ってすぐに前と右手に伸びる廊下があり、正面の廊下の外に面した側はテラスになっていて外へ出られる。いくつも並んでいる扉はスタッフの部屋で、客室を一回り小さくしたような作りで、景色に配慮する必要が無いので内側に作られていて窓がない。右手には浴室やトイレや食堂など、スタッフが使用する施設になっているらしい。
らしいというのは、階段横に設置されていた屋敷の見取り図の上での話だ。実際にアリスが目にしたわけではないし、流石に許可も無く私室を覗くような真似もしない。
玄関ホールを挟んで棟が左右に別れており、『ベータ』の棟、つまりはアリス達の部屋がある個所の上階は従業員の寮として使われ、『アルファ』側は上客用のスイートルームが二部屋。後は二階の客には見えない様に区切られた個所に、スイートルームへの渡り廊下と一階までの階段がある様だった。
三階の従業員の生活区画は、元の屋敷の名残が他の箇所よりも残っている。廊下の天井に着けられた電灯のカバーはステンドグラスと金属細工で作られており、木の板の床に模様を浮かび上がらせている。見た目は良いが少し薄暗いために、客が使うスペースの明かりとしては避けたのだろう。
従業員の部屋の扉には、顔の高さに色ガラスの窓がはめられていて、色ガラスの濁りのお陰で像がぼやけているので見られても気にならないし、多少は防音性が下がる点を覗けば見目はこちらの方が良い。
こんな時だというのに、自然と視線が色ガラスに向かうのは職業病だろうかと、アリスは暢気な事を考えながら、扉についているノッカーで扉を叩く。
コンコンと木を叩く音が長い廊下に木霊する。扉の向こうから反応はなく、人が動く気配も無い。
空き部屋という可能性も考えて、隣の部屋をノックするが反応はない。嫌な予感が嫌な予想へと変わり始める。心臓の鼓動が強く打つのを感じながらも、アリスはさらに隣の部屋をノックするが、やはり反応がない。
嫌な確信へと変わったアリスは次の部屋はノックをせずに、ノブに手をかけてそっと回すと、抵抗なくぐるりと回りきる。手前に引くと何の抵抗もなく、キィーと音をたてて開き、暗い部屋の中へと光が差し込み、アリスの影が先に入室を果たした。
アリスは「失礼します」と申し訳程度に挨拶を口にして、無人の部屋へと足を踏み入れた。
扉は勝手に閉まらないように近くにあったドアストッパーで固定し、入り口付近にあるスイッチを押して部屋の明かりを灯す。
壁と一体化したクローゼット、シンプルな作りの机と椅子、棚、そしてベット。掃除は行き届いていて埃は見当たらない。必要最低限の家具が置かれていて、椅子やベットの布団の僅かなずれが、少し前まで使用者が居た事を告げている。
だが、私物らしきものは何もない。アリスの第一印象は素泊まりのビジネスホテル。自分の私物の入ったカバン片手に数日宿泊、というイメージを抱く。
アリスは急ぎ足で退出し、灯りを消しながらドアストッパーを足で蹴って外す。少し行儀は悪いだろうが、今は緊急事態という事で容赦願いたい。
手近な部屋を調べてみたが皆同じような状況で、おそらくはまだ調べ切れていない他の部屋も同様だろう。手間がかかるだけで時間の無駄だろうと判断して、アリスは他の部屋の探索は中止する事にした。
忽然と姿を消した従業員達——、というよりは最初から従業員達はこの部屋に長期滞在をする予定が無かったのだろうと、アリスは考えを巡らせる。
一応スイートルームの方も捜索するべきだろうかと、向こうの棟へと渡るための廊下の方を見た所で、下の方が騒がしくなり、荒々しい足音が階段を駆け上がってきた。
最初に顔を覗かせたのは、昨日の昼に姪をナンパしていた『C』の部屋の青年。顔の造形は良いのだが、纏う服と雰囲気が彼の印象を軽くしている。アリスの姿を捉えると、大げさなほどビクッと体を震わせた。けれど足を止める事なく駆け寄ってくるあたりは肝が据わっている。
その後ろからは食餌の席で見かけた事のある宿泊客達が二人が続く。
「ああ——、あんた確か、姪っ子と泊まりに来てるって……」
アリスは珍しい髪色をしているせいで、他者よりも印象に残りやすい。今は予想外の事態で愛想笑いをする気が起きないので、失礼にならない程度に軽く頭を下げて挨拶をした。
「——その節はどうも。それと……従業員は誰も居ないようです」
アリスの言葉に全員が苦々しい表情を浮かべて、自分の目で確かめるために各々近くの部屋を確かめ始めた。
アリスが先ほど確かめた部屋を『C』が扉を開いて中を覗き込むと、すぐに諦めて扉を閉める。
「……一階の方も誰も居ない。多分十時過ぎぐらいには、まだちらほら見かけたんだ」
その時間までバーで酒を飲んでいたと語る『C』に、アリスは同意する。
「ええ、私はその少し前に読書室の方で見かけました」
寝付けそうにないと思ったアリスは、暇つぶしの手段として読書室を訪れて本を数冊借りた。もちろんその際にはフロントにその旨を伝えて、借りた本のタイトルを記入した。
「……という事は……死体が発見されたのが十二時の少し前だったから、その間に従業員が全員いなくなった?」
『C』は頭を乱暴に搔きながら、意味もなく辺りをきょろきょろと見まわす。少し落ち着きが無いのは仕方がないだろうと、アリスは彼と共に他の客が戻って来るのを静かに待った。
浴室やトイレを確認してきたらしい客達が戻ってきた。皆表情は険しく、手掛かりは何も掴めなかったのがすぐに分かる。
「今からスイートルームがある方の棟を調べに行こうかと思っていたのですが、皆さんはどうしますか?」
周りの人間が混乱すればするほど、アリスは自分が冷静になっていくのを感じた。自分よりも慌てている人を見ると逆に冷静になるというのは本当だと、アリスは内心苦笑をしていたが、顔にはおくびにも出さない。
アリスの言葉に他の客が顔を見合わせて、他に探す場所も無いので同行を申しでた。
アリスが「従業員を探す」のではなく、「調べに行く」と言った事を指摘するほど余裕がある物はこの場にはいない。
全員が薄々考えてはいる事ではあったが、誰もそれを口にする事はない。口から出してしまえばそれが本当の事だと認めなければいけない。その恐怖と正面から向き合うだけの勇気が、今の彼らには無かった。
アリスは認める勇気というよりは、既に諦観している状態にあった。幼い頃から度々修羅場を経験してきたせいで、人よりも物事の事実を受け入れるのが早くなってしまった。
だが、その事を知らない他人からすれば、落ち着いたその姿は頼りがいがある様に見えるらしい。実際には、アリスも人並みには動揺も混乱も恐怖も感じる。ただ人よりも聡るのが早いだけの話だ。
——世の中には、理解できないし、理解したくない考えで行動する人間が、まともなふりをして生活を営んでいる。
ただそれが、表面に現れる切欠に出会ってしまった。何かの弾みで自分の抱える歪みに気が付いてしまった。もしくは自分がおかしいと気が付いていないだけだったりと、どうなるかは千差万別だろう。
——気が付かない事は、時として身を守る事につながる。
そしてアリスはそれを気付かせてしまう切欠になってしまう。
アリス自身がそうなるように意識したわけでも、誘導したわけでもなく、ただ唐突に彼らは秘めていた欲望を露わにして、それをアリスへと向けてくる。
——アリスの心など無視をして、自分の望みを押し付けてくる。
……何と、おぞましい光景か。
だからこそアリスは冷静に物事を俯瞰して見る様にしている。今、隣にいる人間が些細な事を切欠にして、唐突に頭がおかしいとしか思えない行動を平然と向けてくる。
今、アリスの隣にいる客達も、切羽詰まった状況下で保身のために普段しないような行動を起こす可能性もある。
何かあってもすぐに行動できるようにと、アリスは自分自身に言い聞かせながら、スートルームの方へと通じる廊下へと向かった。
アリスと共に行動しているのは『C』と、二十代半ばぐらいの女性『D』、三十代前半の男性『I』。三人ともこのホテルが初対面で、先ほどの事件現場を見て外部と連絡が取れず、こういった場合に真っ先に駆け付けるべきスタッフ達の姿がなく、『C』が三階の一部がスタッフの寮代わりになっている事を思い出したので、単独行動は危ないからと三人で駆け付けたそうだ。
「人が使った形跡はありましたが、荷物が一つも無かった。このホテルの準備や客をもてなすためには、それなりに人数が必要なはず。町から通うにしても遠すぎるし、——そもそも客を残して、スタッフが全員が帰宅するなんておかしい」
冷静なアリスの意見に、苛立ちを隠す余裕も無いのか『I』が悪態をつく。三階が静かすぎるせいで彼の声が良く響く。アリスは声を下げるように注意すべきかとも思ったが口を噤む。この状況ではそれぐらいしかできる事が無いのだろうし、それをこちらに向けられても困る。
「『I』さんは落ち着こう。騒いでも良い事ないし、仮にスタッフがいたとしても声を聞きつけて逃げちゃうかもしれない」
すぐ傍で人の悪意ある言葉を聞きたくなかったのか、『D』が『I』を必死に宥めすかすと少し冷静さを取り戻したらしく、バツが悪そうに頭を下げる。
何が起きているか分からない上に、スタッフが居ない状況下に混乱してしまい、不安に駆られた『I』は悪態をつく事でそれを誤魔化そうとしていた。けれど他人から注意されて、それが他人を不快にさせる行為だと気が付き、申し訳なさと恥ずかしさで押し黙ってしまう。
元より即席の寄せ集めの状態では、共通の話題など事件の事とホテルの事ぐらいしかない上に、今の状況でそれを話すほどの余裕は誰にも無い。
アリスとしては単独行動が危ないのは確かだし、手が多いに越した事はない。
……敵が客の中に居ないのであれば、の話だろうが。
傍を歩く『C』『D』『I』の三人をちらりと見る。全員表情が悪く顔色が悪かったり、汗を搔いていたりする以外はまともに見える。
少なくとも単独行動を早々に始めたアリスよりは、随分とまともな行動という得る。
推理小説などの定番でいえば、単独行動をしたり、疑心暗鬼になってそれを露骨に態度に見せて部屋に引きこもったり、カップルでイチャイチャしていると被害者になりやすい——という話を姪とした事を思い出しながら、アリスは二人目の被害者にならなくて良かったと自分に皮肉を向ける。
露骨ではないにしろ、そもそも人付き合いが苦手で早々に単独行動をしていた事を考えると、アリスはねらい目ではあったのだろう。
……個人的な恨みによる犯行?
スタッフが突如としてい無くなるというホラー的な展開で失念していたが、殺人事件とスタッフの失踪が必ずしも関係してるという証拠は今の所ない。立て続けに起こった出来事だったので、素直に関連性があると思ってしまっていたが、そうとは限らないと今更ながらにアリスは気が付く。
……立て続けに事件が起きるのであれば、無差別殺人である可能性が高くなるだろうか?
アリス自身、縁起でもない事を考えている自覚はあるが、この状況下では仕方がないだろうと言い訳をしながらも、先ほど見たスタッフの部屋の状況からして、何らかの関連性を疑わなければいけない。
アリスは丁度通り過ぎた窓の外を、ちらりと流し目で確認する。
全ての景色が深い闇に沈み、外の様子を窺い知ることは出来ない。死体を見つけた直後までは月の光が差し込んでいた事を思い出しながら、得体の知れない恐怖が迫って来る事を実感し、アリスの中で不安が広がっていくのを感じていた。
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