第8話 異変

 見取り図ではスイートルームとして利用される予定の部屋は二部屋あり、壁一枚を挟んで隣接している。

 従業員の寮側から伸びる廊下は、吹き抜けの玄関ホールからは見えない位置に作られており、意図的に見えない様な作りになっている。かといって完全に隠すつもりであれば、完全に隠蔽してしまえるはずなので、もしかしたら補修工事の際に何らかの理由で手を加えたのかもしれない。


 そんな事を考えながら辿り着いたのは、二階の客室よりも高価な調度品が置かれた部屋の前。

 廊下の隅には一つ足の小さな丸いテーブルが置かれ、上に空の花瓶が飾られている。二階の客室は家族が止まる可能性もあり、子供が倒すと危ないので置かない様にしているのかもしれないが、磁器製のシンプルなデザインの花瓶が、なかなかの値段がするものである事をアリスは知っていた。

 やはり富裕層向けの部屋という事なのだろうかと考えるアリスの前で、他の三人が扉に手をかける事を躊躇している。周りに合わせて遠慮をする事も、周りの反感を買わないように慎重に行動する事も日本人の美徳だとは思うが、この場においては時間がもったいない。

 アリスは他の三人から一歩前に出て、背中に感じる視線を鬱陶しく思いながらも、躊躇う事無くドアノブを掴んで動すが、すぐにその動きは止まってしまう。


「こちらは施錠されているようだ」


 こちらというのは二つある部屋の一つという意味ではなく、スタッフの部屋の事を指している。あちら側の部屋は全て開錠されており、中を確かめるのは容易だったのだが、こちらはそうはいかないようだ。

 このホテルで使用されているのは全てディンプルキーだと聞いている。

 ディンプルキーは、表面や側面に深さや大きさの異なるくぼみが付いている鍵で、配列の組み合わせは千億通り以上あり、複製が困難で防犯性が高い。

 マスターキーを作るのはかなり大変で、物件の所有者や管理会社しか合い鍵を作る事が出来ず、鍵を作ったメーカへの念書が必要となる。

 カードキーにする話もあったそうだが、ホテルの雰囲気を保つ意味もありこうなったらしいと、アリスがたまたまあったホテルマンと話した時に語っていた。

 

 ——つまりはアリス達がこの扉を開ける方法は、おそらくは数本しかないマスターキーを探し出すか、扉を破壊するしか方法が無いという事だ。


 そしてさすがに何も分からない今の状況で、破壊活動をするつもりはアリスには無い。そしてドアノブに手をかける事すら戸惑う彼らにも、今の段階ではそんな気概は無いだろう。とりあえずは目の前の部屋は諦めて、アリスは奥にあるもう一つの部屋を確かめる事にした。


「隣の部屋を確かめましょう」


 いきなり動くと驚かせてしまうだろうと、アリスは念のために声掛けをしてから隣の部屋へと向かう。躊躇う様子を見せずに、つかつかと移動するアリスに他の三人は呆気に取られている様だった。

 そんな三人を放置して、アリスはさっさとドアノブを動かしてみるが、やはりこちらも途中で止まってしまう。不意に昔読んだ小説で、扉のノブに毒針を仕込んで、回した瞬間に飛び出してくる仕掛けがあったなと、不謹慎な事を考えていた。

 追いついてきた三人だったが、僅かな望みも無くなりがっくりと項垂れる。それ構うことなくアリスは問いを投げかける。


「フロントに鍵はありましたか?」


「いや。見当たらなかった。鍵付きの棚とか引き出しとかは見てないから、もしかしたらあるかもしれない」


 どうやら三人の中では、比較的に『C』が物怖じしない性格らしい。そもそも引っ込み思案な相手はナンパをしないだろうなと、アリスは昨日の事を思い出す。


「——いったんフロントに戻って、引き出しの鍵をこじ開けるか壊して、この部屋の鍵かマスターキーを探しましょう。なければ最悪、扉を壊すという方法もあります。皆さんが救急的措置で、仕方がない行為だったと証明してくれるのであれば、私が破壊しますが?」


 優雅な佇まいで、いかにも紳士然としたアリスからの思いがけない提案に、三人は虚を突かれて同時に彼を見る。

 珍しい灰色の髪と涼しげな目元が印象的で、顔の造形はバランスが良く整っている。所作の一つ一つが洗練されているのが素人目にも分かり、育ちの良さが伺える。真面目そうで、どこか人を寄せ付けない雰囲気とは似つかわしくない、柔らかな微笑み。

 初対面の人間は、大概がアリスの雰囲気に気おされて態度を改めるし、実際には教師や聖職者だと勘違いされた事もある。

 けれどそれは幼い頃からの学びの賜物で、 同年代からは大人びて見られる事もしばしばあった。


「……意外と大胆な事言いますね。何と言うか……さっきから自信ありげですけど、何か確信があっての行動?」


 『C』が妙に楽しそうに話しかけてきたが、アリスは首を横に振る。


「いえ。この真夜中に町まで徒歩移動するのも危ないでしょう。今できる行動は限られています。なら出来る事をしようかと。それに富裕層相手の部屋であれば、二階の客室よりも設備が良いかもしれない」


 何か外に連絡が取れる様なものがないかという、可能性は低いが一応は試してみる事にしただけの事。

 三人の話から、一階の電話も外には通じる事が無いと聞いていたので、残りの見ていない部屋に多少期待するぐらい許されるだろうと、アリスは考えていた。


「……まあ、そうかも。うん。わたしは賛成」


 『D』が手を挙げて賛成を示すと、残りの二人も頷いて同意を示した。


「俺もやる。あんただけに押し付けるのもな」


 『C』は髪をかき上げながら、意味もなく周囲に視線をやる。最後まで考えていた『I』が口を開こうとした瞬間、部屋の中で何かがぶつかる音がした。ビクッとこの場にいる全員が硬直して押し黙ると、再び部屋の中で何かがぶつかる音と、微かに呻き声の様なものが聞こえてきた。


「……誰かいるのか?」


 真っ先に我に返ったアリスが声をかけると、扉の向こう側で何かと床が擦れるような音がして、再び何かがぶつかる音がする。

 というよりはアリス達の話し声を聞いて、中にいる何者かが故意に音立てて自身の存在を知らせているのだろう。自分で扉を開けないという事は、それが出来ない状況という事だ。おそらくは縛られるなどして行動不能に陥っているのだろう。


「——くそっ!この扉ビクともしない!」


 『C』がドアノブを掴んでガチャガチャと激しく動かし、扉を蹴飛ばしてみるがびくともしない。さすがはスイートルームの扉は見た目よりも丈夫らしい。


「——確か、フロントの周りを見た時に、緊急用の消火用斧があったはずです」


 わたわたとしていた『I』が唐突に閃いて、先ほど来た道をかけ去っていく。

 先ほどまで扉を壊す話をしていたせいで、『I』の考えがそちらに寄ってしまっていたらしく、真っ先に物騒な方を選択してしまった事に、アリスは申し訳なくなってしまう。


「二人はここにいて。俺がフロントに行くから」


 すぐさま『C』が走り出し、『I』の背を追って走り去ってしまった。その場にとりの事された二人は顔を身わせて、とりあえず彼らが戻って来るのを待つ事にした。


「少し待っていてくれ」


 とりあえず扉の向こうの誰か呼び掛けて、無駄に暴れないように伝えておくことを忘れない。

 数分後には、騒ぎを聞きつけてきた他の宿泊客達を引き連れた二人が戻ってきた。その先頭を走る『C』は申し訳なさそうに目尻を下げ、『I』はその手に消火用斧が鈍く灯りを反射している。

 その様子でマスターキーが見つからなかったという事が一目で分かる。アリスはそれを察して、人命救助いう名目で扉を破壊して中に入る事が出来るなと思いつつ、「不幸中の幸いというのだろうか、いや、少し違うか」とあらぬ方向へと考えが向かってしまったが、とりあえずは部屋の前から退いて、彼らに場所を譲った。

 一気に人口密度が上がり、体温でその場の気温が上昇するのを感じながら、アリスは成り行きを見守る事にした。


 とりあえずは消化用斧を持ってきた『I』が、そのまま扉に向かって斧を振り下ろす。起こると分かっていたとしても、斧が厚い木の扉を叩き切る聞き慣れない音に、アリスの体が僅かに震える。傍に居た『D』も顔を顰めて、さらに一歩後ろへと下がる。

 振り上げられた消化斧に当たらない様に周りは距離をとり、消化斧が何度も振り下ろされる度に破壊音が響き、木片が飛び散る。

 ホテルでは当たり前になったオートロックにより、扉を閉めると自動的に施錠されるのはここも同じだ。開錠には鍵が必要だが、施錠するには鍵は必要ない。内側からはドアノブを回せば勝手に開く。なので直接鍵を壊す事が出来なくとも、近くに穴をあけてドアノブを回せば開錠できる。

 金属がないであろうドアノブの上の辺りに穴をあけると、比較的に手の細い女性が穴に手を突っ込んで何とか鍵を外した。


 鍵を開閉した女性がそのままドアノブを動かして扉を開くと、中の呻き声が激しくなり、必死にもがく音が聞こえてくる。先頭にいた女性が部屋に入ると、それに続いえて数人の客が中へと入って行く。

 ぱちんと音がして誰かが灯りのスイッチを入れると、暗い部屋が照らし出される。

 スイートルームは空間が広く、入って左手に浴室とトイレ、向かい側にクローゼット。少し奥に個室の寝室。さらに奥に進むと、ベットが二台、冷蔵庫とソファーとローテーブルとテレビ置かれたリビングルームある。カーテンが閉められているがガラス張りの扉があり、テラスに出る事も出来る。

 どうやら音の発生源は個室の寝室の方で、がんがんと壁を蹴り飛ばす音がする。さらに進もうとする女性は別の男性に止められて、代わりにその男性が寝室へと入って行き、数人がそれに続く。


 アリスはその様子を部屋の外で見守っていた。誰も動かないからアリスが率先して動いただけで、本来は目立つような行動は慎むように気を付けている。誰か代わりにしてくれるのであれば、喜んで譲る。

 これだけ人数が居て、やるべき行動の指針がたっているのであれば、アリスがこれ以上口を出す必要性はない。ただ淡々と事成り行きを見守るだけだ。

 やがて音が止み、代わりに「大丈夫か?」「他のスタッフは何処にいる?」「なにがあった?」「誰がこんなことを?」などと口々に尋ねる声がしてきた。


 ……ああ、見つかったのはホテルのスタッフなのか。


 アリスは耳をそばだて、聞こえてくる情報を捉える事に集中する。部屋に入らなかった周りの客達も、ホテルのスタッフが見つかった事に僅かに安堵している様だ。


 ……この状況下で見つかるのは、運が良いのか、悪いのか。


 客側からすれば、少しでも事情を知っていそうな相手がいた事は喜ばしい事だろう。だが、その相手が何者かの手により閉じ込められていたのであれば、加害者が居るという事だ。

 従業員からすれば、拘束されて閉じ込められていたのを助け出されてたのは、間違いなく良い事だ。けれど、多数の客の中に、従業員が一人という状況下では、従業員の立場が良くはない。

 アリス自身その客の立場で、色々と尋ねたい事はあるのだが、いきなり問い詰めたとしてもまともな答えが返ってくるとは思えない。


 部屋の入り口に出来た人だかりを一瞥した後、そこまで考えてからアリスはそっとその場から立ち去る事にした。

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