第5話 白昼夢
次の日のアリス達の朝食は食堂でのビュッフェ形式のものだった。特に焼きたてのパンに力を入れているらしく、ベーカリーコーナーから嗅いだだけで気分が上がるような香ばしい香りが漂ってくる。
クロワッサン、トースト、バケット、デニッシュ、ロールパン、日替わりのプチケーキ。
日替わりのフルーツと野菜のサラダ、コンポート、プレーンヨーグルト、コンフレーク、ドライフルーツ。
温野菜、コーンスープ、ベーコン、ウィンナー、シェフが目の前で焼いてくれる卵料理。
シンプルで肯定の少ない料理だからこそ、材料の質と作り手の料理の腕が試さる。そして、間違いなくその料理人の腕は良かった。
アリスはクロワッサンとフルーツと温野菜、コーンスープとハムとチーズが入ったオムレツを少量ずつ皿に盛っていく。あまり量が食べられないので、少しずつ種類を増やして栄養に偏らない様に心掛ける。
隣に並ぶ少女も品数が多いが、彼女の場合は全て味見してみたいという好奇心によるものだ。取った物を残すのは失礼なので、自分の胃に入る量を考えるとこうなってしまう。常々大食いの人は色々味わえて羨ましいと思っていたりするが、燃費の悪さはいただけないとも思っている。
朝食ビュッフェは七時から九時まで行われており、この時間帯であればいつ利用してもいい。食堂で食事をとりたくなければ、スタッフに連絡して部屋での食事も可能だが、洋食、和食で固定されたものが出される事になる。
折角なのだからとアリス達は七時半ごろに食堂を訪れると、数組の宿泊客が朝食をとっていた。どうやら最大三名様と書かれてはいたが、実際には一人で来ている者も多い。
確かに個人の予定ならばなんとかできるかもしれないが、家族、ましてや友人や恋人となると生活パターンも違うし、予定を合わせるのはかなり難しい。ましてや連休を全て費やすとなると、尚の事そうだろう。
アリスが自営業で営業は事務所任せであり、依頼される場合が多い。締め切り前であればいざ知らず、個人的に絵を描こうとしても何も思い浮かばず、白いキャンバスを眺めている状態ではあるのだが、指定された挿絵を描く事自体は可能なのだ。
とあるハードカバーの小説の表紙を頼まれた際には、作者と電話やメールでやり取りをしてすり合わせをして、相手の表現したい光景を書き上げる事が出来た。
完全に絵描きの感性に任せるのも悪くは無いが、本の挿絵については作者の意向をくみ取った絵を描き起こして表現する事に対して、アリスはそれなりに定評がある。
アリス自身、自分の頭の中から画像を取り出して、キャンバスに描き起こす事に苦労する事は頻繁に起こる。ならば文字で表現する事を仕事とする物書き達は、それを他人の目や感性を通す事になるのだから、納得がいかないのは仕方がない事だと思う。
けれど思う通りにいかないからと、我儘を通す訳にもいかない。一つの作品が世に出るまでに、幾つもの人の手と会社の仕事をを介しているのだ。
その点アリスは自分の中から絵を取り出すのに苦労はするのに、他人のモノを取り出すのはそう難しくはない。電話越しや画面越し対話をして、意見を交換し、何を好むのか、何を厭うのか、作品の主題、読者に伝えたいことは何か?
そうやってアリスは相手の中にある映像を形作り、絵として書き起こしていく。
元々は今と同じようにスランプだった際に、絵本の挿絵を描いた事が切欠で、こういったイラストレーターの仕事も手掛けるようになった。
……絵が好きで、絵を描く事しかできない。だからどんな絵でもいいから書き続けていたい。
本当にただそれだけの事だと、他人に伝えた所で理解してくれない。
理解できないし納得できない相手の気持ちも頭では分かる。何か一つに集中することなく、絵を描く事であれば手あたり次第に手を出して、他の人間の生業に中途半端ずけずけと入り込んでいくのだ
それらを仕事としている人々の殆どは、誇りを持って携わっているのだから。
自らの領域に侵入されて、それを守ろとしている彼らの方こそ正しいのだろうとは思う。
けれどアリスとて、絵を描く事を好いているし、大切に思っている。
……ただ価値観にずれがあるだけの話だ。
アリスとて社会人の一人として、うわべを取り繕うぐらいはできる。人よりもストレスがかかるだけの話で、それはアリスが人付き合いを不得手としているためであって、相手が悪いわけではない。
朝食は他の客とは軽い挨拶を交わすだけだった。ゆったりとした朝の時間を邪魔されたくないのはお互い様なのだろう。
そもそもこのホテルのコンセプトが非日常を味わう事にある。ならば日常生活では必要な人付き合いをおろそかにしても問題ない筈だ。こんな日くらい惰眠をむさぼる事も許していいだろう。
朝食の後、少女は周囲の散策に出るというので、アリスは玄関ホールで別れた。彼女の方が、このホテルの環境を楽しんでいるのかもしれない。
不意にアリスの目にホール内に設置されている甲冑の置物が目に留まり、それに近づいて観察してみる。
強化ガラスに入れられた西洋甲冑は全て金属で作られたもので、板金鎧と呼ばれるもので見るからに重そうだ。ちょっとやそっとでは割れそうにない強化ガラスのケースの周りには、ポールと紐で近づかないようにされている。
板金鎧、プレートアーマーと呼ばれるものは改良が進み、軽量化されても十キロ程度はあったそうで、中に鎖帷子を装備すると三十キロ以上にもなるらしい。体を鍛えていた当時の騎士達は問題なく運用できたそうだが、現代人からしてみれば、これを着て走り回って鉄の塊の剣を振り回すなど狂気の沙汰だ。
その西洋甲冑の手には二メートルほどの大きな戦斧が持たされているのは、このホテルのスタッフの趣味なのだろうかとアリスは首を傾げる。
所謂ハルバート、槍斧だ。槍と斧と剣を一つにまとめたような形状をしており、斬る、突く、鉤爪で引っかける、鉤爪で叩くなど。馬上から敵を引きづり落としたり、足を払ったりしたらしいと聞いている。
もちろん倒れたりしないように鎧の足は器具で床に、胴体部分とハルバートは鎖とワイヤーで壁に打ち付けられた楔へと伸び、しっかりと固定されている。その上から強化ガラスのケースをかぶせてあるのは防犯のためもあるだろうが、何かの拍子に甲冑が倒れて客に怪我をさせないためでもある。
こんなに間近でハルバートを見たのは初めてで、アリスはしげしげと観察する事にした。元より美術館や博物館には良く足を運ぶのだが、やはりそれなりに距離がある。折角の機会なのでつぶさに観察する事にした。
ハルバートについている鉤爪の形が複雑で、洗練された形状はなかなかに美しい。実際に美術品としての価値も高く、今でも北欧一部の国では儀礼用に用いられている。
このホテルには骨董品や美術品が所々に展示されている。この建物の所有者の華族の持ち物だったそうで、丸ごと買い取りそのまま飾っているそうだ。
玄関ホールには西洋甲冑と槍斧以外にも、西洋絵画が数点、今も現役の振り子式の柱時計が飾られている。絵に関しては数世紀ほど前の品で、一般人は耳にした事が無いような絵描きの作品だ。
仕事柄目にする機会も多かったが、子供の頃に両親が目を養うためにと気を回しておかげもあり、美術館の展示品から個人所有の物まで、古今東西の絵画を子供の頃から知っているので、その画風に見覚えがあった。
この画家は神話や民話を好んで題材にしていた筈だ。
題材はおそらくは『ミノタウロス』だろう。
ミノス王が王位争いの際に、海の神であるポセイドンに祈り、自分を支持している証として白い牡牛を送るように求めた。ポセイドンはこれに応えて、美しい白い牡牛を送り、事が済んだ後には生贄に捧げると約束を交わした。
だが、ミノス王は美しい白い牡牛に夢中になり、約束をたがえて違う牡牛を生贄に捧げた。もちろんポセイドンは怒り、ミノス王の后に呪いをかけ、結果として后はその美しい白い牡牛と交わり、牛の頭をした子供ミノタウロスを生む。
成長するにつれてミノタウロスは乱暴になり、手が負えなくなったミノス王は名工ダイダロスに命じて迷宮を作り、そこにミノタウロスを閉じ込めた。そしてミノタウロスの食料として、九年ごとに七人の少年と七人の少女の生贄を送る事にした。
アテナイの少年テセウスが、三年度目の生贄に自ら志願をして迷宮の中へと入り、ミノタウロスを退治したという。
脱出不可能だと言われていた迷宮だったが、ミノス王の娘アリアドネが糸玉をテセウス渡し、それを入り口から伸ばし続け、帰りはそれを辿る事で無事に迷宮から脱出する事が出来た。
「親の罪の報いを子に向けるのは、実に効果的ではあろうが、神はえげつない事をする」
アリスは目を細めて、冷めた目線で絵画を見つめながら、抑揚のない声でそう呟く。
これはアリスがこの話を知った時に抱いた感想のまま、大人になった今でも変わらない。罪を犯したのであれば、その報いを受けるべきは本人だ。その親族や友人に向かうのはお門違いだと思っている。
——自業自得。
——因果応報。
世の中そう上手くはいかない事は重々承知をしているが、そうでなくてはあまりにも理不尽で、被害者が報われない。
ミノス王が約束を違えたせいで、ミノタウロス——アステリオスは怪物として生まれてしまった。
……というよりは、ミノス王が罪を起こさなければ、産まれる事すら叶わなかったのか。
生贄にされた少年少女達は、島に住んでいるだけで生贄に選ばれてしまった。
そもそも迷宮に閉じ込められる怪物に育つまでに、一体何を食べていたのだろうと疑問に思う。まさか幼い頃から人間を食料にしていたわけでもないだろうに、今までと同じ食料を与え続ければよかったはずだ。
そもそも手におえないのであれば、親の責任としてどうにかすればよかったというのに、情か後ろめたさか後悔かは分からないが、彼を生かすためにわざわざ迷宮を作って閉じ込めた。そして食料を与え続けて活かし続けた。
——正しくは雄牛と后の子供で、王の子供ではなくとも。
王の罪の罰として怪物は生まれ、そのせいで何の罪もない子供が犠牲になった。
結局の所、ミノス王は何をするにも中途半端で、自分の罪に向き合う事をせずに、解決を先延ばしにし続けた。
「結局の所、ミノス王が全ての元凶で、その周りにいた人間が割を食っただけの話だな」
領民達はそれを納得して受け入れていたのだろうかと、アリスは疑問に思っている。確かに時代からして王が絶対で、逆らうという言葉すら浮かばなかったのかもしれない。それでも、良く分からない理由で子供を失おう事に、親は怒りを覚えなかったのだろうか。
もし、自分のせいで、関係のない人間が沢山犠牲になるとしたら、アリスはその重責に耐える自信が無い。早かれ遅かれ罪悪感に潰されてしまうのだから、結果は変わらないのであれば、犠牲は少ない方が良い。
「……私は……何のために……」
ずきずきと頭の奥が痛みだし、そこでアリスは我に返って後ろを振り返った。
玄関ホールは静まり返り、宿泊客はおろか先ほどまでフロントに居た筈のスタッフもいない。生き物が動き気配もなく、耳が痛くなるほどに静まり返っている。
——何より、外が暗い。
正面玄関から横にある窓の外が異様に暗い。まるで窓ガラスを絵具で塗りつぶしたように真っ黒で、真っ黒すぎて距離感すらつかめないほど。
瞬く間に訪れた異変に、アリスの鼓動が早くなり、冷や汗が噴き出して、体温が一気に下がっていく。理解を拒絶するほど、アリスの傍に得体の知れない何かが広がっている。
不意にアリスは自分のすぐ隣で僅かに空気が動いたのを肌で感じ、そろそろと視線をそちらへと向ける。
——白い髪の少年が佇んでいる。
誰かが歩いてきた足音も気配も無かった。気配を殺した所で、生きているのだから呼吸も体温もどうする事も出来ない。生物が居れば、生き物としての本能がそれを感じ取る。
筈だというのに、そんな予兆は一切なく、唐突に目の前に現れた。風景画に他所から持ってきた絵を無理やり張り付けたような違和感。
不意に少年がアリスの方に顔を向け、その血のように赤い瞳を大き見開く。まるで相手も今しがたアリスの存在に気が付いたと言わんばかりの反応に、アリスは困惑するしかない。
一度も日光に当たった事が無いと思うほどに異様に白い肌と髪。驚きによって見開かれた血のように赤い瞳には、同じような表情をしたアリスが映っている。
我に返ったのはほぼ同時で、口を開いたのもほぼ同時だったが、声が出たのはアリスだけで、少年の口からは途切れ途切れの息遣いしか聞こえてこない。
「……君は——」
耳鳴りがしたかと思えば、気が付けばアリスは先ほどまでいた、朝食終わりの玄関ロビーに立っていた。
丁度食事を終えた宿泊客が数名、食堂から会話しながら出てきたところだった。数人のスタッフが仕事をする手を止めて、客に礼儀正しい挨拶をするのが見える。
いきなり溢れてきた気配と音に戸惑いながらも、アリスは努めて冷静であろうとする。変に思われたくはないし、ノイローゼだと思われるのは面倒だからだ。
アリスは足早に、けれど変に思われない程度の速さで自室へと戻る。ノックをしたが中から返事がないので、手早く開錠して部屋の中へと入り、再び施錠をする。
鍵が掛かった事を確認した後、扉に背を預けながら深呼吸をして早く打つ脈を整える。少しすると冷や汗も引いて、感じていた寒気も無くなったので、大きく息を吐いてから部屋の奥へと向かう。
見ると一番手前のベットで、少女がすやすやと穏やかな顔をして寝息を立てている。
何事も無かったような当たり前の光景に、アリスは安堵して口元に微笑みを浮かべた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます