恋と恐怖の向こう側

@hinorisa

第1話 プロローグ

 ——恋と恐怖は似ている。

 

 ——どちらも唐突に訪れ、


 ——どちらも本人にはどうしようもなく、


 ——どちらも堕ちてしまう。


 ——それらがもたらすの快楽物質は、どうしようもなく人を狂わせる。



 塊から零れ落ちた液体が、じわりと赤い絨毯に染み込んでいく様が、硝子越しに差す月光によって浮かび上がっている。

 現実感のない光景に、その場にいた人間達は呆然と立ち尽くす事しかできない。

 確かに今いるホテルのコンセプトは「日常から離れて自分らしく過ごす」という物ではあったが、非日常すぎる出来事を、宿泊客は誰も求めていなかったのだろう。


 ——いや、内心『もしかしたら』と想像したかもしれないが、本当に起きるなんて思っていなかった筈だ。


 当たり前の日常が続く事を求めながらも、心のどこかでは非日常の刺激を求めている。それを心に思う事ぐらいは誰にだって覚えがある筈だ。

 年をとって大人になれば現実を理解して、身分相応な生活を心がけるようになる。それでも刺激を求めて、不倫やギャンブルにのめり込んで堕落する者がいると考えると、それはとても魅力的で退廃的で、それらに魅了される人間が出てくる。


 ……きっとこの場にも憑りつかれたモノがいる。


 そんな事を考える自分が一番頭がおかしいのだろうと考えながら、灰色の髪を持った男が無表情で事の成り行きを眺めている。


 他の宿泊客の一人の体が弛緩して、そのままその場に崩れ落ちたのを皮切りに、止まっていた時が動くかのように一気に騒がしくなった。


 ——悲鳴を上げる。


 ——腰を抜かして絨毯の上で藻掻く。


 ——現実を受け入れられずに卒倒する。


 ——一目散に逃げだす。


 ——助けを求めて走り出す。


 ——呆然自失で固まる。


 ——そして冷静に塊へと近づく。


 灰色の髪の男は人垣をすり抜けて先頭に躍り出ると、その塊の正体が少し前までは人間だったと事を確認し、無駄だろうと分かってはいたが念のために呼吸と脈があるか確認する。


 ……やはり亡くなっている。


 何となく分かってはいたが、それでも万が一まだ生きているのであれば、人命救助を行うのが正しい行動だろうと、灰色の髪の男は判断していた。

 誰もが頭では分かっているとはいえ、それをとっさに行える人間はそうはいない。誰だって非現実を目の前にすれば、脳の処理が追い付かずに行動不能に陥ってしまうだろう。

 この場において正しい行動をしたのは灰色の髪の男ではあったが、正しい人間の反応をしたのは他の宿泊客達の方だ。

 それが分かっていても、灰色の髪の男は他の客たちが動かない事を察して、自分が動く事にした。


「——すまないが、誰か従業員を呼んできてくれ。警察を呼ばなければ」


 彼の言葉でようやく我に返った一人が、慌てて懐から携帯端末を取り出して警察を呼ぶために百十番にかける。だがすぐに返ってきた「電波が繋がらない」というアナウンスに愕然とする。

 それを聞いたこの場に残っていた客達が、一斉に外部との連絡を取ろうとするが、ことごとく繋がらない。何度も繰り返し同じ番号にかけ、無駄だと分かると別の番号にかけ直したり、電波が通じる場所がないかと携帯端末を掲げてうろつき回る。


 機種による差異に一縷の望みをかけて、灰色の髪の男も自分の携帯端末で外部との連絡を試みてみたが、やはり機械によって合成された声が聞こえるだけだ。

 灰色の髪の男は他の宿泊客達も同様なのだと反応で察すると、周囲を見回して一番近くにあった電話機へと向かう。

 同じことを先に考えた客が壁に飛びついたので、灰色の髪の男は素直に譲り、成り行きを見守る事にした。設置されている電話機を手に従業員を呼ぼうとしていたのだが、どうも様子がおかしいと灰色の髪の男は眉を顰める。

 何度も何度も内線のボタンを押したり、受話器を戻して再び持ち上げたりを繰りかけしている様子から、何が起きているかは大体察しが付く。

 すでに従業員を呼びに行った客もいる筈だろうと、灰色の髪の男は周囲の様子をつぶさに観察する。凶器や犯人を見つける手掛かりが残っていれば御の字だが、そう上手くはいかないだろうと冷静な自分が諭してくる。

 現場保存を心がけるべきだろうが、この状況で素人判断をするのは仕方がないだろうと結論付けて、灰色の髪の男は冷静を保ったまま遺体の場所まで戻る事にした。


 事件現場に戻ってきた灰色の髪の男に、最初に警察に連絡しようとしていた客が目線で説明を求めてきたので、正直に内線電話が機能していない事を告げる。

 真っ先に現場から離れた客の誰かがスタッフの誰かしらを捕まえてくれることを祈るしかないと、灰色の髪の男は考えたが、すぐにそれを否定する。


 ……これだけの騒ぎに誰も駆けつけないのはおかしくはないか?


 騒ぎを聞きつけた宿泊客がちらほらいるのに対して、その中に制服を着たスタッフが誰も居ない。

 ドクンと強く脈打ち、灰色の髪の男は自分の呼吸と脈が速くなるのを感じながら、最悪の状況が思い浮かんで胸の奥が苦しくなる。何とかそれを押し込めて努めて冷静を保とうとする。

 こんな状況で焦った所で何も変わらないし、むしろ無駄な体力を消費しない事の方が大切だ。下手な行動で怪我でもしたら目も当てられない。

 重い足を何とか動かして、先ほどの客にスタッフを探してくる旨を伝え、誰かが来るかもしれないのでこの場に留まる事を頼む。客はちらりと廊下に転がる死体を一瞥して、すぐに視線を灰色の髪の男に戻して小さく頷く。

 その客も青白く冷や汗をかいてはいるが、他の客に比べれば比較的落ち着いていたので、この場を任せて大丈夫だろうと判断した。


 部屋に残してきた姪が心配ではあるが、自分が戻るまで決してドアを開けない様にと伝えてある。


 ……完全に信用できないのが問題ではあるが。


 見目が良く、初対面の相手には礼儀正しい。けれど割と直情的な部分もあり、一度決めたら揺るぐ事のない精神力を持ち合わせている。

 自分がこうだと決めてしまえば、目もくれずに行動してしまう節があるので、いったん部屋に戻って姪の無事を確認して、簡単に状況説明を行うべく、自分が割り当てられている客室へと足を向けた。

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