第2話 招待

 きっかけは、唐突に送られてきた一枚の郵便物だった。


 とある大手企業の社名が書かれた、丈夫な紙に密封された状態は決して中を部外者に知られてなるものか、という意思をそこはかとなく感じる封筒。門柱に設置された郵便受けの中から、それを取り出して目にした少女は首を傾げた。

 何度も目にした事のある企業ロゴではあるが、少女や周りの人間が直接的に関わる機会は少ないように思う。

 こんな風に、やけに立派な封筒が名指しで送られてくることはそうは無い筈だ。

 他の郵便物と共にそれを回収した少女は、その手紙を目にした瞬間から感じる妙な予感に、整った顔立ちをわずかに顰めた。


「——嫌な予感がする」


 こういった時の少女の予感は大体当たる。そしてその予感がする時は、決まって彼女が敬愛する叔父様に何か起こる。

 少女からすれば、出来るだけ叔父には平穏無事で過ごして欲しいのだが、当人は気が付かぬうちに、厄介ごとに嬉々として突っ込んでいく。

 大変に困った癖のある叔父ではあるが、少女にとっては大切な親代わりの人間だ。


「どっちにしろ、今はスランプだし……」


 特にスランプ中の彼は特に厄介だ。少しでも現状を脱したいと多少の怪しさ程度であれば関わろうとしてしまう。まだ知らぬ手紙の中の要件に関わろうとするだろうと予想し、少女は前以って心構えをして、不測の事態にも対応できるようにしようと心に決める。


「叔父様は、一人にするとすぐに変な所に行っちゃうから」


 困ったものだと言いながらも、少女は嬉しそうに小さくため息を吐く。

 少女達が住む屋敷の周りには他に民家はなく、丘の上から街を一望できる位置に建てられている。

 洋風建築の二階建て屋敷は、観光地にあっても違和感がないほどに強い存在感を纏い、さながら華やかながらも貞淑なドレスを纏った貴婦人の様。強靭な鉄柵の塀が外部からの侵入を防ぎ、生け垣が外部からの視線を遮ぎり、中の様子を窺い知ることは出来ない。

 庭は細かく手入れがされ、深緑の芝生が広がり、四季にあった花が色どりを添えてくれる。少女が子供の頃は格好の遊び場でよく走り回ったものだが、今は気分転換に散歩したり、軽い運動をする程度。

 流石に高校生ともなれば、むやみに走り回ったり、無駄に騒ぎ立てて周囲に迷惑をかけないように心掛けるようになった。


 ——淑女たるもの、優雅であらなければ。


 少し古めかしい言い方だと友人に言われた事はあるが、少女としては幼き日から目標であるため、 それが揺らぐ事など無い。


 少女は制服のスカートの裾を翻し、踵を返して朝食の準備を手伝いに向かう。彼女は門外の向こう側に広がる凡庸で平穏な日常に背を向けて、軽い足取りで歩きだした。



 伏木アリスは頭を悩ませていた。


 アリスは絵を描く事を生業としている。本格的な油絵から、水彩画、日本画、絵本や小説の挿絵など——とにかく絵に関する事柄全てに才能が割り振られていると言っても過言ではないと、彼の事を知る友人知人は口をそろえる。

 彼の事を良く思わない人間は節操がない、他の画家を馬鹿にしているのかと散々非難され、面倒になった彼はそれぞれに別のペンネームを付けて活動をするようになった。


 すらっと伸びたバランスの良い体躯に、絶妙なバランスで整えられた端正な顔立ち。どことなく教師の様な雰囲気を纏い、今は真っ白なシャツに紺色のベスト、皴一つないスラックスを着ており、シンプルながらとても洗練されている。

 アリス自身、それなりに自分の容姿が整っている事は理解している。——正しくは、否応なしに理解させられたというのが正しい。

 アリスの容姿は確かに優れているが、決して絶世の美男子というわけでもない。単純な見た目だけならば、それこそ天使の様なという呼称がふさわしい子供が同じ保育所に居た。


 ——だというのに、幼き頃にやたら滅多ら変質者に狙われ、幼児愛好家に目を付けられ、挙句の果てには思いつめた狂人に命を奪われそうになった。


 この頃になると、アリスはすっかり対人恐怖症になってしまい、家の中へと引きこもるようになった。それを憂いた両親は、責めての慰めになればとアリスの好きなモノを十分に与えてくれた。アリスが好んでいた絵を描き始めると、望むままにさせてくれた。

 画材はもちろんの事、優秀な絵の先生、落ち着いて絵に打ち込む事の出来る環境、絵の題材になりそうな場所へ連れ出してくれたりもした。

 幸いにもアリスには絵を描く才能が有り、意欲もあったためにその才能はどんどん伸びていった。自分でも手応えを覚え、両親も教師もお世辞だとしても上手だと褒めてくれる。おかげで自分に対して自信が付き、自分が悪いわけではなく、そういう人間が世の中には大勢いるのだと納得する事が出来た。

 それを察した両親は、再びアリスを小学校へと通わせる事にした。人間不信になったとはいえ、そのまま放置するのも良くないと、本人のためにならないと考えていた。両親は甘やかすことなく学校へと通わす一方で、人付き合いに関しては無理に友人を作らなくていいと言ってくれたおかげで、随分と息を吸う事が楽になった。

 こうしてアリスは苦難に会いながらもすくすくと成長し、結果として高校生になる頃には画家としての活動を開始する事になった。

 大衆が望む絵も、審査員が求める絵も、何となくだが分かるようになった。自分の思う絵を描きながらも、世間に受けるような絵も描く事で、自分の才能と名前を世に知らしめていった。

 もちろん一番は両親に褒めてもらう事で、次は親戚の家族に褒めてもらう事。そうして顔を見た事も無い第三による評価という順番ではあったが、それでも評価されて、それで食べていけるようになった事は、とても嬉しかった。


 だが、そんな最愛の両親はもういない。

 それでもアリスにとって絵を描く事は、自分の人生のその物であり、両親との絆そのもの。

 他者に対し得て常に取り繕う自分が、唯一素直に向き合える行為。


 ——だが、今現在、アリスは絶賛スランプに悩んでいた。


 気分転換に何か他の事をしようかと考えてみても、何か具体的に事が浮かぶどころか、描けない事への苛立ちや焦燥感と相まって、鬱屈とした日々を過ごしていた。


 悩むばかりでは思考が堂々巡りを繰り返すだけだと分かっているので、何とか気分転換になりそうなことを無理にでもしなければと、余計に自分を追い詰めていた。

 そんな時に、不意に居間に置かれているローテーブルの上に置かれている郵便物へと目が向いた。今朝の郵便物はアリスの代わり回収したと、背中越しに声を掛けられた事が思い出される。


 アリスは基本的には広く浅い人間関係で、仕事の繋がりがほとんど。この歳になっても浮いた話が無いので、心配した知人がお節介を焼いて見合い話を持ち込んでくることに辟易していた。 

 その気遣う心そのものは嬉しいのだが、自分の望みが他人と同じだとは限らないという事を念頭に置いて欲しい物だと、アリスはため息を吐く。

 最近はスランプよるストレスが原因で、夜に熟睡する事が出来ずに、目の下にうっすらと隈が出来てしまっている。そろそろ睡眠薬に頼らなければいけないなと、鈍い頭で考えながら、郵便物を一つ一つ確認していく。

 どうやらほとんどがダイレクトメールで、何枚かは外国に住んでいる知人からの絵葉書で、送り主たちが健やかに現地での生活を送っている事を嬉しく思い、アリスの口角が自然と上がる。改めて返事を書かなければと考えながら、絵葉書を間違って捨ててしまわない様にテーブルの隅へと移動させる。残っていた数枚の郵便物の中に、一枚だけ見知らぬ相手からの封筒があった。

 真っ白な封筒にとある大企業の社名とロゴマーク。

 社名のアピールが露骨すぎるなとは思ったが、その大企業の関連会社という事は、一種の保証の様なものだと割り切り、アリスは傍にあったペーパーナイフで封を切る。そのペーパーナイフは真鍮製のアンティークで、姪が誕生日にプレゼントしてくれたものだ。柄の部分には細工が施されており、刀身をしまう革製の鞘がついており、その古風な雰囲気が気に入っている。


「本当は銀製の物を買いたかったんですけど……予算的にオーバーなので断念しました」


 残念そうに視線を逸らす姪を微笑ましく思い、とても気に入った旨を伝えると、とたんに姪は得意げにどや顔をしていた。

 お互い度が過ぎる贈り物は気を使うので、基本的にはおおよその予算を決めておき、その中から自分で考えて買う事にしている。そうでなくても、彼女は少々おてんばな所があり、自分が決めた事には一直線で進むところがある。

 けれど根は優しく素直で、家事が苦手なアリスを気遣ってくれる。定期的に家政婦に来てもらっているが、労働時間外の細々とした事をしてくれているので、大変に助かっている。


 ……過保護が過ぎる時があるのが、玉に瑕だ。


 そんな事を考えながら封筒の中身を取り出して開くと、それは一枚の招待状だった。


『この度、以前より計画しておりました当グループ傘下のホテルのプレイオープンを行うにあたり、ぜひ参加をしていただきたく思います。つきましては招待状一枚につき、三名様まで無料でご招待いたします』


 こういったプレイオープンは、集客のために人脈の広かったり、世間への影響力があったり、地元の有力者を招待する事が多い。その施設の良い口コミを広げてもらい、集客を狙う。

 さらに言えば、こういった招待状はもっと早い段階で送る筈だ。指定された日まで半月も無い。これでは人によっては予定の立てようがなく、なんだか急かされているような気すらしてくる。正直な所、失礼ではないかと感じてしまう。


「——それに、私を招待する意味が分からない」


 確かにアリスはそれなりに有名な画家だが、人付き合いが苦手であるために、そういった事柄は不向きだ。そもそも最近は顔出しは殆どしておらず、関係者しか彼の素性を知らない筈だ。

 もちろん若い頃に本名で活動していたので、それはそのまま利用して、富裕層や著名人やホテルなどの施設などから依頼されて絵を描いたりもしている。

 けれど、このグループで直接依頼を受けた事はない。間接的にアリスの絵画がそこに飾られている可能性はあるが、浅い付き合いの客に住所を教えない事にしているし、仕事上の付き合いのためにわざわざ事務所を作り、そういった事柄を全て任せている。そのため、アリスの仕事上の郵便物は、全て事務所に届くようにしてある。


 ……だというのに、私に届いた?


 これは画家のアリスにではなく、一般人としてのアリスに届いたという事になる。プレイオープンで関連会社の名簿から無作為に選定して、一般人の意見を聞くためものという可能性もある。招待状一枚につき三名様というのは、核家族を想定してのことだろうかと、あれこれ考えてしまうのは仕方がない事だろう。

 実際にこのグループ傘下のホテルには何度か宿泊した事があるし、身元を証明するために免許書を提示し、連絡先と住所を記入した事もある。


 ……いい気分転換になるかもしれない。


 色々思考を巡らしてみたが、アリスは急に真剣に悩む事が馬鹿らしくなって中断してしまう。手に持っていた招待状をテーブルの上に置き、ソファーの背もたれに体を預けて、意味もなくぼんやりと天井を見つめる。

 知らず知らずのうちに焦燥感に駆られて、余裕がなくなっていたのだなと冷静に自己分析をしてみると、アリスはだんだん頭に掛かっていた靄が晴れていく気がしてきた。

 何となくそれが良い兆候の様な気がして、『鉄は熱いうちに打て』という諺が浮かび上がり、勢いのまま連休の予定を決めてしまう事にした。

 自分の性格上、一度悩みだすとなかなか正常な状態に戻ってこれなくなる。ならば、勢いのまま決めてしまった方が良い気がするので、アリスはさっそく事務所に連絡を入れて、気分転換に連休中は家を空ける事にする。

 アリスのスランプは事務所の方にも知らせてあるし、「無理をして駄作を生み出すよりも、十全に実力を発揮して良作を生み出してもらいたい」とあちら側からも言われている。


 ……人に恵まれているな。


 かつてアリスを対人恐怖症へと追い込んだのは人間だが、それを克服する手助けをして、傍で支えてくれたのも人間だ。

 いまだに人付き合いは苦手なままではあるが、それでも上っ面を取り繕うだけの精神力と経験は得ている。

 方向性さえ決まってしまえば、後はそれに向かって準備を整えるだけだ。

 ここ最近ではおそらくもっとも気分が良く、自然とアリスの頭も軽くなる。目の下の隈は健在ではあるが、少なくとも今夜はゆっくりと寝られそうだと考えていると、思考力が鈍り、意識がぼんやりとしてくる。

 心地よい睡魔がアリスを襲い、体の先から力が抜けていく。弛緩して動かない体が崩れ落ち、ゆっくりとソファーの程よい弾力が体を受け止めてくれる。抵抗するだけ無駄だなと考えてすぐに、アリスの意識が闇へと沈んだ。


「ただいまー」


 玄関を開けてすぐに声を掛けはしたが、返事はそれほど期待はしていないため、少女はローファーを脱いで下駄箱にしまい、彼女専用のスリッパへと履き替える。家族用の下駄箱にはスリッパは一つしか残っておらず、男性用の革靴が置かれている。

 アリスの在宅を確認して、少女は早歩きでフローリングの上を進み、リビングへと向かうと、予想通りにアリスの姿があった。

 正しく表現すると、アリスの頭頂部がソファーの背もたれの端から覗いているので、少女は歩く速度を下げて、足音をたてないようにそっと近づく。

 そっと背凭れ越しに覗き込むと、肘掛けを枕にしたアリスが規則正しい寝息を立てている。最近はスランプが原因の寝不足で、ずっと目の下に隈が出来ている状態が続いていたため、アリスの穏やかな寝顔に少女はほっと胸を撫で下ろした。


「おやすみなさい。良い夢を——」

 

 少女は祈るように呟き、そっと顔を近づけて少し乱れている灰色の髪に口づけを落とした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る