第3話 ホテル

 気分転換をするために、とあるホテルのプレイオープンに参加する事にしたアリスは、予定外の事態に見舞われていた。


 ——一人で宿泊する予定が、姪が強引に付いて来てしまった。


 一応はホテル側に大丈夫かと確認した所、三名までならば十分に賄える蓄えがあるので問題はないとの事。

 確かにこういったサービス業ともなると、想定外の出来事に対応するために十分な余剰分は用意しているだろう。エコや何だで廃棄量を減らそうとするのは賛成するが、それで客へのサービスを低下させて客離れが起きれば元も子もない。


 こうしてアリス達は招待状を手に、とある地方の郊外に建てられているホテルを訪れた。現地までの移動は最寄り駅まで電車で移動し、駅の傍に停まっていたタクシーを捕まえて現地の地図片手に説明した所、割とすんなりと場所を理解してくれた。

 駅自体は少し前に改修工事をしたそうで、小さく無人駅ではあったがトイレなどはキチンと清掃されていたし、自動販売機も飲み物の他にアイスと保存のきくお菓子などが売られていた。


 ホテルの外観は推理小説などの舞台になりそうなレトロな洋風建築で、煉瓦造りの塀と鉄扉によって守られている。今は客を出向かるために鉄扉は大きく開け放たれており、訪問者を歓迎してくれている。

 森に囲まれた郊外の土地で、道中に見た大きな橋がかけられた崖が妙にアリスの印象に残っていた。崖の遥か下には勢いよく川が流れており、落下すればただでは済まないであろう事が容易に想像できた。

 町からは遠いが、アスファルトの道路が整備され、自然が豊かで景色も良く、しっかりとしたインフラ設備さえ整っていれば、心身を休めるための保養所としては良い環境だろう。

 一応は携帯端末の電波は届いており、外部との連絡自体は可能だ。けれど招待状には正式オープンされるまでは情報を伏せるように書かれていた。守って頂けない方は参加をお断りする事になると書かれていたが、客の中にマナー違反を平気で行う愚か者が居ないとも限らないので、アリスとしてはどこまで情報を伏せて置けるかは甚だ疑問ではあった。


 ホテルの入り口の扉は艶のある木枠に色ガラスがはめられ、少し濁った色の硝子のお陰で、ぎりぎり室内が見えないように工夫されている。

 アリスがしげしげと観察していると、黄色味がかった金属のノブが動きゆっくりっと扉が開かれる。

 扉の向こうには皴一つない制服を着こなしたホテルマンの男性が佇み、朗らかな笑顔で迎えてくれる。


「——いらっしゃいませ。当ホテル『ラビリンス』へようこそ」


 一瞬だけホテルマンの視線がアリスの髪へと向かったが、すぐに顔へと戻り挨拶を述べる。

 発音がしっかりとしていて聞き取りやすく、男性は綺麗な角度でお辞儀をする。しっかりとした社員教育がされているのだろうと分かるほど、ホテルマンの所作は洗練されている。彼らに迎えられるだけでも価値があると思うほどに、頭の先から指の先まで動きが綺麗で、アリスは思わず感嘆のため息を吐いてしまうほどだ。

 古風な雰囲気を保つために、建物の耐震補強や修復、火災に対する備えとして煙感知器や消火装置など、設備投資をした所以外は殆ど元の建物をそのまま流用していると説明がされる。雰囲気を保つために自動ドアなどにはせず、玄関の扉も手入れして蝶番などを交換したりしただけらしい。


「プレイオープンですので、スタッフも必要最低限の人数ではではありますが、皆優秀で気が利く者達ですので、遠慮なさらずにお使いください」


 グランドオープンの際には、さらにスタッフを雇い入れるので、もっとにぎやかになるだろうと話しながら、ホテルマンがアリスが両手に持っていたキャリーケースと姪の持っていたキャリーケースを自然な動作で受け取り、玄関ホールに入ってすぐの受付カウンターへと誘導してくれる。


 玄関ホールは三階まで吹き抜けになっており、太く長い柱が天井へと伸びている。天井にはたくさんの光源と硝子細工で構成されたシャンデリアが吊り下げられており、光を乱反射させてキラキラと輝いていた。


「シャンデリアの下に居ると、落ちてきそうで落ち着きません」


 アリスと隣にいる姪がシャンデリアを見上げながら、そんな事をぽつりと言い放ったので、思わずアリスは苦笑してしまう。


「まあ、確かにミステリーではシャンデリアが落下する場面が多いな。けど、ああいった場合は天井を補強してあるから大丈夫だ。確かシャンデリアの重量の三倍の重さまで耐えられるようと推奨されている筈だ」


「推奨という事は必ずというわけではないのでは?」


「何かあって責任をとるのはホテル側だ。特にシャンデリアが降ってきたともなれば、確実に廃業だろう」


 そんな二人の会話を聞き流し、受付カウンターにいたフロントマンが招待状の有無を尋ねてきたので、アリスは送られてきた封筒ごと手渡した。

 フロントマンは封筒の中から招待状を取り出すと、書かれているシリアルナンバーを確認する。そのまま招待状を回収して鍵付きの引き出しへとしまい、代わりに立派な革の装丁の冊子を取り出す。

 カウンターの上で開かれた冊子は宿泊名簿で、一緒に万年筆が手渡される。アリスは書き慣れた様子で万年筆を動かして、宿泊者の名前を綴る。


「全員、私が書いても問題はないか?」


 アリスの隣で彼が万年筆を走らせるのを覗き込んでいた姪が頷く。名前を書き終えて返却された名簿をフロントマンが確認し、『М』と書かれたキーホルダーの付いた部屋の鍵が差し出された。


「当ホテルでは日常を忘れて頂くため、部屋に充てられたアルファベットでお客様方を呼ばせていただく事になっています。皆様方の名前を把握しているのはスタッフのみ。お手数ではありますが、お客様方にも協力をお願いしています」


「——つまり、此処に滞在している間は『М』と呼ばれるわけですか?」


 フロントマンは頷いて、視線をアリスの隣にいる姪へと向けられる。


「招待状に書かれた名前の方をアルフェベットで呼び、お連れの方はアルファベットとお連れの方、と呼ばせていただきます。前以って関係性を教えて頂ければ、それを呼称する事も出来ます」


 徹底して個人を特定する名前を隠し、客が望むのであれば息子や娘、奥方様や姪様な度、アルファベットと共に呼んでくれるとの事。それが無いのであればお連れの方という呼称になる。


「少々お手間ではありますが、出来るだけ力を抜いて自然体で過ごせるようにとの配慮となっております」


 確かに少しは面倒な話ではあるが、旅館などで桜の間のお客様、と呼ばれる様なものだろう。

 元より気分転換のために訪れたアリスには反論はないので、素直に了承する。

 気が付けば案内をしてくれたホテルマンとアリス達の荷物が無く、フロントマンから荷物は先に部屋に運んだ旨を告げられ、ホテルの施設内の地図が掛かれたパンフレットを渡される。


「案内板は設置されておりますが、似たような構造になっているので迷う可能性がありますので、念のためにお渡ししておきます。部屋にはフロントに直通の電話の子機が設置されておりますので、用事があればご利用ください」


 いったんフロントから離れたアリス達は、玄関ロビーに設置されているソファーに座り、渡されたパンフレットの地図を確認しながら今後の予定を話し合う。


「私達も散策がてら散歩に行くか?」


 ホテルの周りは散歩コースになっており、森林浴も楽しめるようになっている。


「私はどちらでも構いません。元より叔父様の休養のために来たのです。叔父様にお付き合いいたしますし、一人になりたいのであれば先に部屋に向かいますが」


 強引についてきたとはいえ、アリスの邪魔をしたいわけではないと伝えてくる姪の気遣いに、アリスは眉を下げて申し訳なさそうに微笑む。


「気を使わせて済まないな。もしかしたら単独行動はするかもしれないが、……それよりも、年頃の娘が一人で長時間行動するのもあまり良くないだろう」


「普通に大丈夫だと思いますが。迷子になる可能性はあるでしょうが、あまり気にしないでください。自分の事ぐらいは出来る年です。——とはいえ、叔父様は意外と方向音痴ですから、慣れるまでは一人で外出させるのは心配です」


 そういって立ち上がった少女はアリスの手を掴んで引っ張り、少し強引に立たせると、玄関ドアへと歩きだす。


「今日はいい天気ですし、叔父様も明るい内にホテル周りの散策をしておきましょう」


「私の心配よりもするべき事があると思うのだが……」


 癖のある髪が少女の背中で揺れるのを見ながら、アリスは過保護すぎるだろうと思わずため息を吐いた。



 短時間の探索を終えてから、アリス達は客室へと向かった。

 一階は各種施設で占められており、二階が主な客室となっており、『アルファ』と『ベータ』の二つの棟に別れている。三階は所謂スイートルームが二部屋、一部は従業員の部屋となっていて関係者以外立ち入り禁止だ。

 雰囲気を保つために、今の所は階を移動する手段が階段だけで、バリアフリーとは程遠い。様子を見てエレベーターを設置するつもりらしいが、三階までの移動を考えると、確かに客室は二階が妥当だろう。

 石工の壁と腰壁の廊下は年季が感じられる風合いをしている。床は赤いカーペットが敷かれており、正面側は廊下となっており、時折縦に長いガラス壁となっている。反対側には客室の扉が一定の間隔で並び、それぞれアルファベットのプレートがつけられていた。

 プレイオープンとはいえ、そこは大手グループ傘下のホテル。本来は一家族が止まる事を想定した部屋なので十分広い。

 入ってすぐの右側にそれぞれの風呂とトイレの扉、左側にはクローゼット。奥へ行けばライティングデスクが置かれ、その目の前には壁掛け型のテレビ。右側にはベットが三台並んでいる。

 部屋の一番奥はガラス張りの壁が広がり、周囲に広がる森林を見渡す事が出来る。遮光カーテンが付いているので、日光を浴びたくなければ閉めればいい。ガラス張りの壁の前には、ゆったりと過ごせるように強化ガラスのローテーブルと皮張りのソファーが設置されている。

 備え付けの小型の冷蔵庫にはペットボトルの水が、ポットの中にはお湯が常備されており、緑茶、紅茶のパックやインスタントコーヒーがセルフでいれる。アメニティもしっかり三人分置かれている。

 これでも足りないというのであれば、基本的にはルームサービスで注文する事になる。


 ホテルマンが前以って運んだ荷物は、入り口付近の邪魔にならない隅に置かれていた。それらをさっそく部屋の奥へと移動させると、一旦自由行動という事になり、アリスは地図を片手にホテルの建物の中を独り歩き回る事にした。

 方向音痴と言っても地図さえあれば、初めての場所でも多少手間取るがアリス一人でもどうとでもなる。幸いにもホテルの作り自体はそう難しい物でもない。

 一階は正面玄関から入って玄関ロビーとフロント。此処にはいくつかの扉と通路があり、一階にある施設に通じていて、廊下を辿れば大概はここに辿り着くようになっている。

 その左右それぞれに隣接しているのが食堂と談話室。正面階段は踊り場で左右に分かれて二階へと伸び、吹き抜けの玄関ロビーを見下ろすように、手すりの付いた廊下がぐるりと設置され客室へと通じている。

 階段横の通路はバーが併設された遊技場。ビリヤードやダーツやカード遊びが出来ると書かれている。ただ、今はスタッフの数の問題で、夕方から数時間程度の営業との事。

 読書室には小説やエッセイや詩集、古典文学や図鑑や辞書や絵本など、それなりに種類が揃っており、そことは別に本を保管しておく書庫があるので、そちらはスタッフに頼めば探して持って来てくれる。

 後はスタッフしか通れない通路に調理場やリネン室、貯蔵庫や備品庫、発電機や地下水をくみ上げるポンプ室やスタッフルーム、貴重品を預かる金庫室などがある。これらはフロントがある右斜め側にあり、談話室は正面位置口を入ってすぐの右側の通路から通じている。


 この建物は元はホテルではなく、とある華族が道楽で建てた避暑地のための物で、それなりに年季の入っているそうだ。さすがにそのままは法律的にも耐震的に不安という事で大規模な改修工事が行われたそうだ。

 レトロな雰囲気を損なわずに、綺麗にするのはなかなか骨が折れた事だろう。それなりに資本が投入されているのだから、出来るだけ早くそれらを回収したいと企業側も思っているのだろうなと、アリスは一階の施設を眺めた。




 

 

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