第4話 客

 アリスがホテルの施設を見回っている間、他の客とすれ違う事が無かった。連休とはいっても、職種ごとに連休初日に若干のずれがあるためだろう。宿泊期間はそれを踏まえて余裕を持たせてあり、前以って何時から宿泊するのかホテル側に連絡を入れる事になっている。

 アリスは自営業の様なものなので、かなり融通が利く代わりに、スランプなどに陥るなどの仕事の量や出来に波が大きい。


 時折ホテルスタッフに挨拶をされて案内を申し出られたが、生憎とアリスは人付き合いが苦手だ。それなりに付き合いが長くなれば肩の力を抜いて、多少は素の自分を見せる事が出来るのだが、初対面の人間にはそうもいかない。

 常に微笑みを絶やさず、常の背を伸ばし、礼儀正しく、お互いの距離を一定に保つ。常識ある大人であれば、他人行儀に接してくる相手に無理矢理距離を詰めようとは思わない。


 ……一番厄介なのは、相手の心情を慮らない自分勝手な人間。


「——ルール違反です」


 鈴を転がすようなその声をアリスが聞き間違える事はない。相手を咎める意思が声に滲んでおり、いつもよりも語気が強い。


「——そんなこと言わないで。折角のバカンスでしょう?君みたいに可愛らしい子がいるなんて運がいいなー」


 はきはきとした少女の物言いと違い、相手はどこか間延びしていて声に覇気がない。

 アリスが失礼にならない程度の速度で声の発生源へと向かうと、廊下の隅で姪が青年に絡まれていた。


「私は初対面に人間に強引に迫る方と、交友を深めようとは思いません」


 少女の正論に青年はすぐに身を引く。いつもと違う環境で距離感を誤ってしまった事に気が付き、バツがあるそうに頭を掻く。


「あー、……なんか、ごめん。ちょっとテンションがバグってた」


 青年の背中越しに見えた少女の顔がアリスの方を向き、ほっとしたのか口元に微笑みが浮かぶ。


「叔父様——」


 少女の声で青年が振り向き、ようやくアリスの存在に気が付いたのか、かなり分かりやすく驚いた表情をしている。青年本人には悪気はなく、素直な性格のため顔に出てしまったようで、すぐに表情を取り繕った。

 初対面の人間は大概がアリスの灰色の髪に注目するので、それ自体はすでに慣れてはいる。けれど何度経験しても、不躾にじろじろ見られる事はやはり不快だ。

 だがアリスは良い大人で、少女の保護者だ。彼の評価はそのまま少女へと直結するため、出来る限りは大人の対応を見せなくてはいけない。


「——失礼。うちの姪に何かご用ですか?」


 ホテルのルール上、名前を伏せるように言われてはいるが、関係性を踏まえた呼び名は禁止されてはいない。

 アリスは父親というには若すぎるし、恋人というには年上すぎる。ならば誤魔化す事をせずに正直に言う方が手っ取り早く、詮索される事も少なくなる。何より少女の保護者が誰であるかを明確にした方が良い。

 青年もそれを察したのだろう。居心地悪そうに視線を逸らして、少女からさらに距離をとった。それを見逃さずに、少女はアリスへと近づき隣へと並ぶ。


「ホテルを探検していたら声を掛けられました」


 その清楚で可憐な見た目に似合わず、少女は割と活動的だ。こういった場所では率先して動き、時にはこちらを振り回す。


「——失礼ですが、プレイオープンの招待客でしょうか?」


 対人用の仮面を被ったアリスが、優雅な微笑みを浮かべる。日常生活に相手は駄目な部分が目立つが、人間関係で荒波に揉まれる所か沈没しかけた事すらあるために、アリスの対人スキル自体はそれなりに高い。

 失礼ならないような言葉遣いで、相手の距離感を作って、それとなく近づいてこないように牽制する。

 けんか腰になったり、暴言を吐いて露骨に敵対するのは下策。いざという時の事を考えれば、わざわざ敵を作る意味がない。元より連休中の短い付き合いなのだから、穏便に事を収めた方が無難で、お互いに気分良く過ごせるという物だ。


「挨拶が遅れてしまい申し訳ありません。初めまして。私は『М』の部屋に宿泊している者です」


「……『C』の部屋に泊まっています」


 笑顔で押し切ってくる相手は苦手らしい青年は、軽く頭を下げる素振りをしてそそくさとその場から立ち去って行った。


「ありがとうございます。一人で探索したいと言っているのに、しつこくて困っていたんです。確かに旅先で旅人や現地の人と交流するのも旅の醍醐味ではありますが、いきなりあっちから迫られるのは困ります」


 基本的には人見知りをしない少女ではあるのだが、それはあくまで礼節を持って接してくる相手に対しての話だ。おそらくは先ほどの青年も、旅先特有の妙なテンションになっているのだろうが、初対面であれでは、同じような性格の人間以外は拒否されてしかるべきだ。

 今回の事は彼の糧となるだろうなと、年よりくさい事を考えてしまうアリスの脳裏に、今までの面倒な相手が立て続けに浮かぶ。鬱陶しいそれを振り払って目の前の少女に微笑みかける。


「人気のない所は避けつつ、探検はほどほどにしなさい。私はいったん部屋に戻る」


 「はい」と小気味のいい返事をした少女は頭を下げると、ワンピースの裾を翻しながら踵を返して歩く始める。遠ざかる背中を見えなくなるまで、アリスは見守っていた。



 部屋に戻ろうとアリスが玄関ロビーにあるラウンジを通り過ぎた際に、宿泊客がフロントで手続きをしているのを見かけた。どうやらアリス達が最初に訪れた招待客の様で、それで他の宿泊客を見かけなかったのかと独り納得する。

 正面階段を上り、二階から吹き抜けになっている下を一瞥すると、ホテルマンが玄関の扉を開いて客を向かい入れるのを眺め、そのまま自室へ戻って『М』の扉をノックして、返事が聞こえてから鍵を開けて中へと入る。複数人で泊まる際は、この辺りは気を付けなければいけない。


 ……親類とはいえ、年頃の少女と同室というのは、外から見た場合どう見えるのだろうか?


 最初はそれを理由に同行を断ろうとしたのだが、「同室は嫌なのか」と尋ねられたので、「一つ屋根の下で暮らしているので、そんな事はない」と返した。

 けれど道義的に、親類とはいえ年頃の異性と同室というのは色々と障りがあると訴えたのだが、「どうしても嫌だというのであれば諦める」と言われてしまうと、アリスはどうしても弱くなってしまう。

 最終的にはアリスがおれて、お互いに同室への忌避感は無いとのことで、話し合って意見をすり合わせた。

 異性間で問題になるのは着替えや風呂など、肌の露出に関する事が大きい。なので部屋に入る際は必ずノックをして、問題が無い事を確かめてから入室する事にした。


「試験運用ですから仕方がない事とはいえ、鍵が一つしかないのはなかなかに不便ですね。まあ、何本もある方が防犯的には良くないでしょうが」


「まあ、出かける側が鍵を持っていくしかないだろうな。残った方は相手が戻って来るまで出かけられないが、そこはスタッフに連絡してどうにかするしかない」


 部屋にアリスが戻ってきたのを確認すると、少女はベットに座って読んでいた文庫本を閉じてベットボードの上に置いて立ち上がる。テーブルの上に用意されているポットからお湯を注ぎ、紅茶のパックが入ったカップの上に傍にあった受け皿を乗せて蓋の代わりにする。そのまま数分蒸らしてからパックを取り除いてから、それをアリスの元へと運んだ。

 アリスはソファーに座って、ぼーっと外の景色を眺めていたが、目の前のローテーブルにカップが置かれた音で気が付いて視線をそちらに向ける。目の前に置かれた紅茶に気が付いた時には、少女は元いた位置に戻って本を開いた所だった。


「……ありがとう」


「どういたしまして。夕飯まで時間はありますし、少し仮眠をとった方が良いと思います。私はこのまま起きているつもりですから、時が来たら起こしますから」


 アリスはどちらかと言えば紅茶が好きではあるが、少女が紅茶を選択したのはカフェインが少ない飲み物という事もあったらしい。

 彼女の心遣いに感謝してから、アリスは紅茶に口を付ける。柔らかい口当たりと華のある香りが口の中に広がり、じんわりと体が温かくなっていくのを感じる。

 元々アリスは平時の基礎体温が低い。そのせいで寒さにはめっぽう弱い。それを知っているからこそ、彼女からの寝る前に体を温めて少しでも入眠しやすいようにとの気遣いはありがたい。

 たまにその気の強さ故に嫌厭される事もあるが、少女の真っ直ぐの性根はアリスには心地よいものだ。


 正直に向けられる好意をどう感じるかは、相手との関係性だとアリスは思っている。好感が持ている相手から向けられるのであれば、それは嬉しいものになるのだろうが、よく知らない相手から向けれても困惑するだけだろうし、苦手な相手であればそれは嫌悪に変わる。

 万人を愛せるほどアリスは聖人君子ではない。自分の絵を好いてくれるのであれば形も色も無い好意を与える事が出来るが、アリス個人に好意を向けるのであれば、そこには明確な形が作れてしまう。


 ——人間関係は難しい。


 こちらと同じ大きさの気持ちを返してくれるとは限らないし、こちらも同じものを返せるとは限らないからだ。

 少なくともアリスは少女に『親愛』という形を向けている。

 かつて彼らが向けてくれたものを、その娘に与える事が出来ているのだろうかと、何処にもいない相手に問いかけながら、アリスの意識は暗闇へと沈んでいった。


 アリスが目を覚ますと外は真っ暗で、部屋の明かりが灯されていた。部屋の置時計を確認すると八時を回った所だ。

 しかもいつの間にか、三つ並んだ真ん中のベットの上で熟睡をしており、アリスの記憶ではソファーで寝落ちをしたはずだ。どうしてベットに移動しているんだろうと首を傾げながら上半身を起こすと、彼が目を覚ました事に気が付いた少女がソファーから立ち上がる。


「目が覚めましたか?夕飯に行く際に起こそうかとも思ったのですが、熟睡されていらしたので、勝手な判断でそのままにさせていただきました」


 同じ屋敷に住んでいるために、アリスがスランプで最近寝不足気味だったのは彼女にも知られている。環境が変わった事と、久しぶりの遠出で心身ともに疲れ切っていたのだろう。そのおかげで夢を見る暇もなく眠る事が出来た。


「そろそろ起きるだろうと思って、ルームサービスで叔父様の分を注文しておきました。軽食ですが、無理に量を詰めるのは内臓に負担でしょうから、このぐらいにしておきましょう」


 スランプと寝不足がたたって食色不信になってしまい、食事量が減っている事をアリス自身も危惧してした。出来るだけ少量を回数を増やして摂取して補っていたので、彼女の気遣いはありがたい。


 ローテーブルの上にはフードカバーが被せられたトレイが置かれていて、ベットから立ち上がったアリスが近づくと、少女が徐に立ち上がってフードカバーを外してくれる。


「座っていて下さい。飲み物は何が良いですか?」


「コーヒーで頼む。少し頭をはっきりとさせたい」


 「はい」と言いながら、少女はスティックタイプのインスタントコーヒーをカップに入れて、ポットの熱湯を注いでしっかりとスプーンでかき混ぜて溶かす。


「さすがにおかゆは病人食過ぎると思いまして、審議の結果でサンドイッチとフルーツとなりました。スープは温かい方が良いでしょうから、冷めても大丈夫な物にさせて頂きました」


 トレイの上には各種サンドイッチとフルーツの盛り合わせが乗せられた皿。その隣に少女がコーヒーをそっと並べる。


「足りなければもう少し注文しましょうか?」


「いや。これぐらいが丁度いい。ありがとう。」


 朝食の様なメニューだが、サンドイッチで炭水化物と肉と野菜と卵、そして果物を取れるのだから、十分だと言える。あまり量を食べると気分が悪くなってしまう。

 手を合わせて「いただきます」と口にしてから、アリスは少女に見られながら遅い夕食を始める。


「……そういえば、招待客は殆どチェックインしたみたいです。残り数組は明日の朝に到着予定の様で、明日から本格的に始まるみたいですね」


 食事の邪魔にならない程度に少女が話しかけてくるので、遅い夕飯に寂しさなど微塵も無い。


「今の所、宿泊客の中では一番年下の様です。身なりからして富裕層というよりは中流家庭の一般的な方々を招いたようです。……私はってきり富裕層をターゲットにしていると思っていました」


 確かに建物の規模と部屋数からして、宿泊できる人数は限られている。稼ぎ度外視の慈善事業というわけでもない。だというのにプレイオープンで招き入れたのは一般的な家庭の人間ばかりの様だ。宣伝を兼ねているのであれば、狙っている層の人間を招待するべきだろう。


「そういえば三階にはスイートルームがあるそうですね。VIPらしき方は見かけませんでしたし、明日いらっしゃるのでしょうか?三階まで上がるのは少々大変な気がしますが……」


 健脚な少女は、昼間の内に一通り散策し終えたと笑顔で語る。


「ああ——でも、ホテル周りの森林は空気が美味しくて、散歩コースにはもってこいでしたね。野苺もありましたよ。ああいうものは、こう——ロマンみたいなものがありますね」


 少女は幼い頃はあちらこちら走り回り、つくしやヨモギやフキノトウを持って帰ってきたりして、母親に調理してもらっていた事を思い出し、穏やかな遠き日を思い出す。

 少女は図鑑で見た物を実際に探しに行くのが好きだった。


「小さな小川や池もありました。さすがに端のかかった崖の下へはいけませんでしたが」


 望めば釣り具も貸し出してくれるとパンフレットに書いてあったことを思い出しながら、アリスはサンドイッチを食べ終えて、デザートの果物を咀嚼し始める。


「……ただ……何と言うか……、誰かに見られている気がしてならないんです。昼間に客に絡まれたせいで、少し過敏になっているのかもしれませんが……」


 聞き捨てならない言葉に、アリスはくし切りの林檎が刺さったフォークを皿に戻し、目の前にいる少女を改めて見る。

 彼女は年の割に度胸が据わっているし、少々人の善意を信じるきらいはあるが、基本的には俯瞰から物事を見て中立的な意見を口にする。

 少々ナンパされた程度で自意識過剰になるような性格はしていないと、付き合いの長いアリスはそれが分かっている。故に、一概にそれらを気のせいだと断ずる事が出来ない。


「……人の目が少ないのも確かだし、町までそれなりの距離がある。気をつけるにこした事は無いと思う。どこかに行くときは、私に声を掛けなさい。」


「ありがとうございます。心遣いは嬉しいのですが、叔父様は私の事よりもご自身の事を気にかけて下さい。少しマシにはなりましたが、やはり少し疲れが見えます」


 元より線が細く不健康そうに見られがちなアリスだが、絵を描き始めて以来の長期的なスランプのせいで、否応なしにストレスにさらされている。食欲不振もそれが原因で、周りに心配をかけている事がを申し訳なく思っている。


「叔父様は、もう少し図太くなって良いと思います。少なくとも私は叔父様に多少の迷惑をかけられても、笑顔で許す自信がありますよ?」


 にっこりと笑顔を浮かべる少女に、アリスは「そうか」という短い相槌し返す事が出来なかった。

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恋と恐怖の向こう側 @hinorisa

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