第26話 責任
『L』は『G』の連れの男と共に、ひたすら廊下を走って逃げまどっていた。
このホテルの廊下が行き止まりになっている個所は少なく、基本的には部屋の中に入らない限り行き止まりにぶつかる事はない。
けれど『L』は自他ともに認める運の悪さを持ち合わせている。
例えば今の状況の様に、逃げ惑っているうちに、『L』は他の同行者『E』と『J』と逸れてしまった。
そして残った同行者の『G』の連れは、見るからに正気を失いかけているのが分かる。それ自体は無理もなく、友人二人が得体の知れない化け物に襲われて、その列に加わってしまったのを目撃したのだ。一番正気度を減らしているのは間違いなく彼だろう。
そういう『L』も平静かと言えばそうでもない。目の前の迫りくる現実についていけず、ずっと混乱し続けている。けれど本能的に恐ろしいモノからは逃げなければ、という思考だけはずっと頭の中を占めているので、混乱していても最低限の回避行動はとり続けられている。
……これでは脱出口を探すなんてとても出来ない。
明らかに生きている人間ではないソレらは一目見ただけで、背中に怖気が走り、全身が痺れるような恐怖が支配して、鳥肌と冷や汗が収まらない。極度の緊張で思考は鈍り、今なら九九を尋ねられても間違えてしまう気すらする。
そして彼らは生きている人間だ。ずっと走り続ける事は体力的にも無理だ。幸いにも相手は足が遅く、距離をとる事自体は容易だ。今の所は全速力で走って来る事はないので、その事はとても幸運だと言える。けれど、数が多く、力が強い。多少の怪我ではビクともしない。
じりじりと逃げる場所が減っていっているのが鈍い頭でも気が付いた。
息が絶え絶えで横を走る『G』の連れを放っておくことも出来ず、『L』は周囲にソレらの視線が無い瞬間を狙って、一か八かで適当な部屋へと逃げ込んだ。適当な部屋と言っても、そこは鍵が壊された『B』の部屋だ。扉自体は閉まるが、施錠が出来ない。そのおかげで鍵を持たない『L』達でも逃げ込めた訳だが、それは相手も同じだ。
自ら袋小路に逃げ込んだという自覚はあるが、身を潜めるための場所が近くでは他にはなかった。まさか廊下に座って体を休めることは出来ないし、『G』の連れの足はがくがくと震えて、よたよたとしか歩けなくなっている。
それでも見捨てて置けないのは『L』は、目の前の人間を見捨てて、それを忘れて生きていく事が出来ないと、自分の面倒な性格を分かっていた。
中途半端な善意は『L』自身を苦しめる事が殆どだが、それでもどんどんと振り積もっていく罪悪感に押しつぶされる日を待つよりは幾分かはマシだ。
……彼を見捨てないのは、別の人を見捨てた事への罪滅ぼしでしかない。
談話室は気を失ってから眠り続けている『C』が、まだいたのだ。だが先ほどまで会話していた筈の『F』と『G』の二人が、得体の知れない怪物の列に加わった様を見て、とてもじゃないが平静を保つ事が出来なかった。
唯一の入り口からどんどん入ってくる集団は、『L』の正気を削っていき、叫び出して暴れ出す一歩手前で必死に耐えていた。いっその事正気を失って狂った方が、恐怖に苦しめられずに済むのかもしれないが、自分だけではいざ知らず、他の人達まで道連れにする光景が容易に想像できて、それを何とか回避する事にだけ集中していた。
『C』の事を思い出したのは、談話室から逃げ出して二階へ上がった時だった。
すでに見知らぬ少年を囮にして逃げだした状況だというのに、さらに重く圧し掛かる事実に『L』の胸は負の感情で満たされてしまった。
周りの者達は何も言わずに、脱出口を探すための算段を始めていた。とはいっても話しているの『E』と『J』の二人だけで、『G』の連れは荒い息をついて手すりにしがみついて項垂れている。階下の玄関ホールでは、他の客達が分かれてそれぞれ別の通路へと向かうのが見えた。
とっさに『C』の事を口にしようとしたが、一瞬視線の合った『J』が目を伏せて小さく首を横に振るのを見て、『L』は出かかった言葉を飲み込む。
気が付いていても知らない振りをして、目を背ける事で脱出の事以外に意識を裂かないようにしているのだろうと『L』は何となくだが察した。
『J』とは少し言葉を交わしただけで、そもそも寡黙で平時から難しい顔をしているために話しかけ辛い雰囲気をしている。けれど『J』は冷静に物事を見ているし、いつも中立の立場から物事を見ようと心掛けていた。
少年を捕まえた時も、『E』は露骨に嫌な顔をして非難したが、『J』は子供に暴力をふるうのは良くないと淡々と注意をしていたが、捕まえた事自体は否定していなかった。
普通に話しているだけでも彼の低い声で発せられる言葉には重みがあり、発音が綺麗でとても聞き取りやすい。
そんな『J』が話題にしない方が良いと判断したのであれば、おそらくはそれが最善なのだろうと判断をして、『L』は言わないという選択をした。
こんな時でも他人の判断を仰いでしまう自分の性格が嫌になったが、それを選択した責任は自分が取らなければいけない。判断を他人に委ねるという選択をしたのは自分以外の誰でもない。それを『J』のせいにするのはお門違いだ。
小心者は小心者なりに、社会の歯車として役割を全うするという自尊心だってある。歯車である事を選んだのであれば、それを全うしなければ本当の無能になり下がる。
それだけは絶対に回避したいと、『L』は覚悟を決めた。
気休めにしかならないが、とりあえず扉にはチェーンをかけて、割れたガラス傍にあるソファーを移動させて扉の前に置いた。
割れたガラス壁には板が貼られている。得体の知れない状況から目を背けるために、手の空いていた客達で塞いだのだが、気休め程度でも穴が塞がっているというだけで精神的な負荷が随分と減る。
「……大丈夫ですか?」
ベットの傍で床にうずくまって膝を抱えている青年は、ぴくっと僅かに体を揺らしたが、無言でうつむいたままだ。すでに彼は感情を抱えきれなくなって、全て投げ出そうと周りの物全てから目を背ける事に必死で話す余裕がない。
このホテルに来る前であれば、『L』もこの状況を人伝に聞いても、とてもじゃないが信じることは出来なかっただろう。けれど自分の目と耳で見て聞いて、肌で触れて体験しているのだから、これを与太話や妄想の類だと否定することは出来ない。
自分よりも若い青年の方が、ずっと柔軟な考えが出来そうなものだろうにだと、『L』は自嘲する。
「とりあえずは少しだけ此処で休みましょう。他の皆さんが脱出方法を見つけてくれればいいですが、それはさすがに人任せにし過ぎで無責任でしょうから」
「……なかった」
ぽつりと返された声はあまりにも小さく震えていて、『L』は聞き取れずに聞き返した。
「……俺……は、来たくなかった……」
「何処に?」などと問わなくとも、流石に空気が読めないと言われる『L』でも、話の脈絡で何となく察しはついた。
「……絶対に怪しいから……タダより高い物はない、っていったけど、相手にしてもらえなくて……。いっつもそう……、あいつら、俺の意見なんて聞いてくれない」
『L』が『G』達三人を見た時、何となく『G』と子分その一とその二という感想を持ったのは、凡そ当たっていたらしい。『G』が一番強い発言権を持っており、もう一人は無条件で彼に賛成をする。その時点で多数決となり、青年の発言は意味を持たないと蔑ろにされてきたのだろう。
いつも『G』の後をついて回っていた青年は印象が薄く、殆ど人前で声を発する事は無かった。『G』が誰かと言い合っていても、後ろ手あわあわと所在なさそうに狼狽えばかりいた。
「……それでも、彼らと共に居る事を選んだのは、貴方でしょう」
『L』の言葉は青年の確信をついていたらしい。青年はがばっと勢いよく顔を上げて、『L』を睨みつけてきた。
「何も知らないくせに、勝手な事を言うな!仕方がないだろう!オレだって、痛いのも苦しいのも嫌なんだ!こうしないと、もっと痛い目を見る……」
さすがに隠れている状況は理解しているらしく、声量は押さえてあったが語気を強めに声を荒げてきた。『L』も少し驚きはしたが、彼もそれなりに社会人生活を送り、今まで散々上司に叱られてきたので、青年が凄んだ所で大した脅威は感じない。
「——ええ。わたしは何も知りません。けど、それでも『G』さん達から逃げずにつるむ事を選んだのは貴方です。色々立場や生活を守るためには我慢も必要ですが、貴方は成人した大人だ。いざとなれば一人で逃げだす事も出来た筈だ」
生きていく上で、理不尽な事や辛い目に逢う事は幾らでもあるし、逃げ出したいと思う事はあった筈だ。けれど他の人も、『L』も、それぞれ今ある物と逃げ出した先の苦労を比べて、最終的にはその場で耐える事を選んできた。
子供ではなく成人した大人なのだから、今まで積み上げてきたものを捨てて、新天地を目指すという選択肢は常にある状態なのだ。
「少なくとも、今ある物を捨てられないから、ここに居る事を選択した。何かを質に取られて脅されたわけではないのであれば、結局は自己責任でしょう。我慢は大切な事で、社会で生きていくためにはしなくてはならない事です。……けど、自分や他人を守るために、逃げる事は恥ずかしい事ではない——とわたしは個人的に思っています」
所詮は十年程度長く生きているだけの、小心者の空気の読めない、融通の利かないマニュアル人間の、しがない勤め人の言葉だ。
それを聞くも聞かないも、青年の自由であり、自己責任だ。
……おっさんになったな。
若者相手に説教をしている自分が年よりくさくて、『L』は若い頃にイラついた年上の上司にの様だと、ため息交じりに苦笑した。
それでも自分の言葉が、青年の記憶の隅にでも残り、それを別の誰かに伝える時に、今の自分と同じように年をとったなと思い出す事があれば上々だろう。
——誰かの心に響かなくとも、誰かの運命を変えられなくとも。誰かの記憶に、良い思い出の中に、僅かでも残っているのであれば、——きっと、その人の人生は良いモノだった筈だ。
きっと自分は何もなせないし、何かを変える力など無い。けれど、社会を回すための、動かし続ける歯車としての役割を全う出来れば、十分に満足できるはずだ。
……与えられた役割と全うする事が、こんなにも誇らしいと思うのは、きっと『М』さんが言葉をくれたからだろう。
『L』はアリスと話してから、不意に他人から言われた言葉を思い出す事があった。その時は注意や𠮟咤だと思い込んでいたが、今にして思えば、それらは自分の事を心配してくれたり、褒めてくれていたのだと気が付く事が出来た。
結局は他人の言う事だ。もしかしたら言葉通りの意味だったかもしれないし、もしかしたら冗談で言ったのかもしれない。もしくは信頼や行為を示すための言葉だったのかもしれない。
他人の事は分からない。自分の事ですらままならないのに、他人の思惑など分かる筈がない。空気が読めなくとも、融通が利かなくとも、自分に正直に、他者に誠実に生きていけばそれで良いのだ。
蹲っていた青年が顔を『L』の方に向けて、腕の隙間から覗く片目で睨みつけてくる。自分より体格のいい若者に睨みつけられるのは普通に怖いが、それでも逃げ出したり怯えたりするほどではないなと、『L』は静かに彼が自分の意志で再び立ち上がるのを待つ事にした。
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