第31話 疾走
屋敷の全体を震わすほどの轟音と衝撃に、アリスは動揺しながらも努めて冷静に周囲の様子を窺う。硝子が窓枠に当たってガタガタと震え、割れてしまわないかと心配になってしまうが、今はそれどころではない。
少し離れた所が発生源らしく、通路の中を衝撃と音が通り抜けて届き、アリス達はその発生源が動いている事に気が付いた。
原因は定かではないが、おそらく碌な事ではないだろうことは簡単に予想できる。
とりあえず音の発生源は一階の様なので、一旦どこかに退避するべきだと、アリスは少女と『C』に声をかけた。少女は視線を合わせて頷いたが、『C』は放心したままカーテンで覆われた『D』の遺体を見つめている。
——優先すべきは死者より生者。
予断を許さない状況下では、申し訳は無いが『D』の遺体を放置して、強引に引きずってでも『C』を安全な場所に移動させるべきだ。けれど、今それを実行すると、『C』の心に決定的な傷を負わせることになるだろうと、アリスは何となく分かった。
「——叔父様。『D』さんを、せめてどこかの部屋へ移動させてあげる事は出来ないでしょうか?」
少女も『D』をここに置いていくのは忍びない様で、顔を俯けて暗い表情をしている。
少年の言葉が正しければ、このまま放置すれば『D』はアレらの中へと取り込まれてしまう。アレらに襲われて命を失えばすぐに取り込まれるようだが、彼女の場合は犯人が人間なので猶予がある。首を落とせば、おそらくは動いて襲って来る事は無いが、それをアリスは率先してする気にはならない。
少なくとも知り合って数日とはいえ、共に行動して、顔を突き合わせて会話を交わした相手の首を切断できるほど、アリスの心臓は強くない。
何より『C』がそれを許さない気がしたし、それをすると決定的に人として大切な何かを見失ってしまう気がした。
「とりあえず近くの部屋に運びましょう。此処よりはましだと思います」
上にかけていたカーテンで『D』の体を包んで、頭と足を二人がかりで何とか持ち上げて、一番近い部屋へと運んだ。力の抜けた人間を動かすのは大変だと言うが、持ち上げて運搬するのはさらに労力がかかる。さすがに引きずっていくのは憚られたので、『C』に声をかけて足を持ってもらった。
『C』は無言だったがこくりと頷き、とりあえずは血で傷を意識しない様に足の方を持って貰った。あまり大差ないかもしれないが、顔のすぐ傍で血の匂いを嗅ぐよりは多少はマシだろうとの判断だった。
少女が先行して索敵をして、近くの施錠されていない部屋を見つけて貰って、中に何もいない事を確認してもらった。
「『C』さんはここで籠城していてください」
思考が停止状態の『C』を連れて歩くのはリスクが高いと判断して、この場に留まってもらう事にした。入り口が一つしかないので、侵入されれば袋小路になってしまうが、廊下に放置しておくよりは随分とマシな筈だ。
『C』が自棄になり、無謀な行動を起こさないかという不安もあるが、アリスは彼がそれほど弱くは無い筈だと信じてみる事にした。
流石に丸腰で放置するわけにもいかないので、通路に置いてあった消火器をすぐ傍に置いておいた。直接噴射すれば目くらましにもなるし、いざとなれば振り回して鈍器としても使える。
アリスでは消火器を持ち歩いて走り回るのは、生憎と体力的にきついので断念していた。
常に腕を動かしているので、腕力と握力だけはそれなりにあると自負しているのだが、全力疾走をする事がそうはないので、おそらくは後日筋肉痛に悩まされるだろうことは覚悟するしかない。立ちっぱなしと走る際の筋肉の使い方はまるで違うので、これからは多少は気を付ける様にしようと、アリスはぼんやりと考えながら、扉の外の気配を窺う。
未だに床や壁を伝って震度が伝わってくる。おそらくは壁などにぶつかり、もしくは何かを破壊してしまったのだろう。地響きのような音はそれが原因なのだろうが、屋敷全体を震わせるような衝撃を受けて、全体のバランスが崩れて土砂崩れを起こしたりはしないのだろうかと心配にもなる。
少年曰く、儀式が終われば全て元通りの最初の屋敷の内装になるらしい。強引に重ね合わせて同調させている旨を話していたが、耐震的な方面はどうなっているのだろうか。どちらの屋敷の方が優先されるのだろうかと、アリスは一人頭を巡らせる。
……もしくはアリス達はホテルに居て、少年は埋まった屋敷の中に居る状態なのだから、それぞれが本来いる場所への干渉力が強いのだろうか。
アレらは本来は埋まっている屋敷に存在しているというのであれば、この衝撃の正体がアレらだとすれば少々拙い事になると、アリスは口を引き結ぶ。
徐々に近づいてくる振動と音に、アリスと少女に緊張が走る。
慌ただしい足音——おそらくは二人分が扉の前の通路を通り過ぎてから数秒後に、先ほどとは比べ物にならないほどの質量が扉の向こう側を通り過ぎていく。床を踏みしめる音は重く、それが複数人分。さらには通過した際の風圧や存在感で、相手が人よりも遥かに大きい体躯という事が察せられる。
——おそらくは状況的に誰かが追われている。
ソレらが十分に離れた事を確認してから、アリスと少女は部屋を出ようとノブを掴んだが、そのままドアノブが取れてしまう。そしてゆっくりと扉が独りでに開いていく。
音をたてて開いた扉の前の廊下は見るも無残な状態で、アリス達は混乱して一瞬思考が停止してしまった。
窓ガラスは割れ、床は歪んで敷かれていた絨毯はぐちゃぐちゃにされ、壁には何かが擦れた真新しい痕跡が残っている。その際に扉のノブを破壊していったために、扉は部屋として区切られた場所の入り口という役目を放棄してしまっている。
このままでは扉が役に立たないので、アリスは『C』に自分達が部屋を出たら何かつっかえ棒かバリケードを置くようにと伝えると、『C』は無言で頷いた。
『C』の視線は『D』の遺体がくるまれた布にずっと向けられているが、返事を返すだけの思考能力は残っているようだ。
後は彼の精神力の強さと時間の経過に頼るほかない。
放心状態の『C』を置いていく事に後ろ髪を引かれるが、アリスには優先すべきことが他にある。
廊下に出た来たアリスは、何かが通過していった先を見る。隣に並んだ少女はアリスの意図を察して、二人は破壊されて歪んだ廊下を進み始めた。
「——ふぁー―――」
叫びたいのを我慢して、けれど恐怖からくる感情のはけ口を求めて妥協した結果、意味不明の鳴き声を囁くような声量であげるところに落ち着いた。
『L』の隣を走る青年は、その意味不明の鳴き声に気を止める余裕など無いので、誰もそれを指摘してくれない事に、一抹の寂しさを覚えながらも、無心に動かし続ける足と声を止める事が出来ない。
背後から追いかけてくるのは今までの相手と違い、それなりの速度を保って走って追いかけてくる。もはや行き先を慎重に選ぶ暇もなく、とりあえずは行き止まりにならない事だけを考えながら、似たような場所をぐるぐると回って逃げ続けている。
出先で緩慢な動きのソレらに出くわしはしたが、構う余裕など微塵も無いので掴まれないようにだけ気を付けて、伸ばされた腕を何とかかいくぐるのを繰り返している。
だが、心なしか——いや、確実に二階の客室周辺にソレらが集まってきている。騒動を聞きつけて集まり、傍を通り過ぎた『L』達を追いかけようとして、動きが遅いのでおいていかれ、そしてまたすぐに『L』達の姿を見つけて再び追跡を開始するのを繰り返した結果だった。
幾ら動きが遅くとも、数で行く手を塞がれればどうしようもない。強硬手段に打って出ても、数の暴力に勝てる自信など『L』達小心者には微塵も無い。
「あっちに行けよ……」
喉の奥から絞り出した、青年の蚊が鳴くような威嚇は弱々しく掠れていて、後ろから追ってくる相手に届いたとは到底思えない。そもそも届いたとしても、相手がこちらを恐怖して逃げたりする事はないので、無駄な抵抗という物だ。
「……オレらに何の恨みがあるんだよー……。あんたを刺したのは俺じゃない筈だろう―……」
恐怖で目に涙をため、泣き叫ぶ寸前の青年が、後ろから微笑みを浮かべて追ってくる『F』だったモノに泣き言を吐く。
少年が指摘した通り、殺されて間もない個体は我が残っていて、人間らしい動きをして、贄達に忍び寄り、時にはかく乱をする。
先ほどから『L』達を追ってくる『F』は見た事のある微笑みを浮かべ、血を滴らせて床を汚しながら、手に己を殺した凶器を携えて、それなりの速さで走っている。
全速力で走る程ではないにしろ、距離を詰められないようにすると常に一定の速度を保たねばならず、二人の息は絶え絶えだ。
凶器を持った相手に追われて逃げ出さずにいられたら、小心者の自覚などしないと、『L』は声にならない言葉を心の中で叫ぶ。
行く手に待ち受けていたソレを避けて、肩で突き飛ばし、角を曲がった所で急に横から手が伸びてきて、『L』と青年は羽交い絞めにされて部屋の中へと引きずり込まれた。
驚きのあまり声も上げられず、恐怖と激しい運動の影響で心臓が激しく打つのを聞きながら、『L』がとっさに見上げて腕の持ち主を見る。
「……静かに」
小さな呟きとほぼ同時に部屋の前を『F』が走り抜けていくが、足音は少し離れた所で止まった。追いかけていた筈の獲物が突然いなくなり、周囲を見渡して探している。
それが扉越しでも分かり、『L』は『H』の連れの青年の言葉に大人しく従う。『L』達を部屋に引きずり込んだ後、『H』が素早くかつ静かに扉を閉めて、『L』達が声を上げないように口を塞いできた。
暫く気配は部屋の傍にあり、傍にある客室のノブをガチャガチャと動かして、開錠していないかどうかを確かめ始めた。時折「何処ですか?」と声を掛けながら、扉をノックしたりしていたが、その音は少しずつ遠ざかっていった。
足音が聞こえなくなっても、『L』達は暫くの間息を潜めていたが、やがて『H』が大きな息を吐いたのを皮切りに、『H』の連れの青年が腕を外して『L』達を解放してくれた。
ずっと走り続けていた『L』の足はがくがくと震えて、もはや自重すら支えるのが困難で、腕という支えを失って崩れ落ち、その場に座り込んだ。
「……こいつ気絶している」
ぼそっと零れた連れの青年の呟きに、『L』と『H』の視線が『G』の連れの青年の方へと向けられる。彼は白目をむいて、『H』の連れの青年にもたれ掛かる様にして気を失っている。
立てて続けに起きた事態に耐えられず、ついには恐怖で失神してしまったらしい。けれど、『L』はとしては追いかけられている最中に意識を手ばさなかっただけ上等だと、『G』の連れの青年を誉めてやりたい気分だった。
とりあえず気を失ってぐったりいている青年を、『H』の連れの青年が引きずって移動させて、一番近いベットの上に無造作に転がす。とりあえずは呼吸がしやすいようにと仰向けにさせてやる辺りに、彼の人の良さが伺える。
一方『L』の方は『H』に支えて貰って、がくがくと震える足を叱咤しながら、何とか扉から離れて、真ん中のベットに座る事が出来た。
ようやく一息付けた事に『L』は心の底から安堵して、大きく息をついた。マットレスの弾力性が疲れた足腰を優しく受け止めてくれるのを感じながら、『L』はきっと数日後には筋肉痛に襲われるのだろうなと、現実逃避をしてしまう。
「あんたら、もう少し静かに逃げられなかったのか?いや、まあ、位置が分かり易くて助かったけど」
『H』の同行者に呆れて指摘されてしまい、『L』は申し訳なくなって俯いてしまう。悲鳴を上げるのを堪えはしたが、お世辞にも静かだったとは思っていない。それでも悲鳴を上げれば、それを聞いて『G』の連れの青年がぎりぎり保っていた均衡を崩してしまわない様に、彼なりに必死に声を押し殺していた。
「まあまあ。とりあえずは無事だったんだから」
『H』が連れの青年を宥めると、連れの青年も大人しく引き下がった。元より呆れているだけで、責める気持ちは持っていない。この状況下では仕方がない事だと理解していた。
「後で『E』さんと『J』さんにも感謝を伝えてください。追ってきていた『F』さん以外の奴らを、此処から引き離してくれていたんですから」
アレらは動きが緩慢で反応も鈍いが、目の間で起きた事はちゃんと認識して追いかけてくる。『L』達を部屋に引きずり込んでも、『F』以外のアレらに目撃されてしまえば意味がない。
『L』達の逃走劇に気が付いた『H』達と『E』と『J』達が出くわし、相談をして、『E』と『J』が通常のあれらを引き付けて『アルファ』の棟へと誘導をして、『H』達が角を曲がってすぐの自室へと引きずり込んだという事らしい。
さすがに全てのアレら引き付けるのは無理なので、それとなくわざと音をたてて気を引く程度にしておき、『E』の部屋は『アルファ』の棟にあるので、そこに隠れる手はずになっていた。
彼らが二階の部屋で出入りできるのは、鍵を持っているそれぞれの自室と、扉を破壊してこじ開けた『B』の部屋だけだ。
鍵のかかった部屋の中に居るという事が、こんなにも安心できるのかと、『L』は心の底から安堵しつつも、この部屋には隠し通路などないだろうかと、一抹の不安を覚えてしまった。
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