第56話 日常
良い天気の温暖な気候の昼下がりの午後、その男はとある屋敷を訪れた。
その屋敷は郊外に建てられており、丘を下らなければ他の民家は見当たらない。外観は洋風のレトロな雰囲気を纏ってはいるが、それは外観だけで、建物自体は何度も改修を重ねており、インフラ設備や災害への備えもしっかりとされ、現代の住宅と遜色ない快適な家屋となっている。
デメリットを上げるのであれば、食料や備品などの買い出しや、公共の施設が少し遠い事だろうか。丘を下って数百メートルほど行けば、大型スーパーやコンビニや病院などの施設があるので、多少の移動が苦にならなければ問題は無い。
実際にあの屋敷の住人は、平日には元気に自転車で学校へと通っている。行きは良いが帰りが面倒だとぼやきながらも、その生活自体に不満は無いらしい。
男が門柱に取り付けられたインターフォンを押すと、機械越しに返事が聞こえ、やがて玄関の扉が開かれる。
「いらっしゃいませ、—―先生。律儀に門の所で待たなくても良いのですが……」
腰に届くほどの長い髪を一つの三つ編みに纏めた、楚々とした可憐な少女が苦笑交じりに言いながら、屋敷の中へと招いてくれる。
口調や仕草から察するに、目の前に居るのは双子の姉の様だと、男はちらりと彼女の様子を窺うが、どうやらいたって健康そうだ。
男は自分で門扉を開いて前庭へと入り、玄関へと伸びる石畳の道を進む。
前庭には丁寧に手入れをされた芝生が広がり、花壇や家庭菜園などもあり、それらを手入れしているのこの家の住人達で、全員根が真面目なために、誰かしらが暇な時に手を入れている。
玄関の下駄箱には客用のスリッパしかなく、どうやら住人は全員在宅中なようだと、男は少女に差し出されたスリッパを礼を言って受け取る。
「アリスの様子はどうだ?外傷はせいぜい打ち身や擦り傷程度だとは聞いているが、処方されている薬は飲んでいるな?」
周囲には人気は無いが、不用意に家の外で話すような内容でもないため、リビングへと通されるまでの間に、男は念のために教え子兼雇い主兼、マネージメント相手の容態を尋ねた。
「ご心配頂いて、ありがとうございます。眠っている時に、偶にうなされてはいますが、スランプの時よりはずっと体調は良さそうです」
何やらとんでもない異常事態に巻き込まれたと聞いてはいるが、それよりもスランプの方が精神的にきついらしいアリスに、男は感心するべきか呆れるべきか、いっその事賞賛すべきなのだろうかと悩んでしまう。
先を行く少女がリビングの扉を開けて、中で休憩中だったアリスに声をかけた。
「叔父様。先生が来てくださいました」
ぐったりとソファーに身を任せていたアリスは、体を起こして姿勢を正し、それを確認してから少女は男を招き入れた。
「――こんにちは、先生。先日は大変お世話になりました」
先日――何やらどこぞのホテルのプレイオープンに参加した結果、そのホテルが土砂崩れに逢って倒壊し、招待客が死傷した事件の事だろう。
大々的にも取り上げられ、未だにニュースや新聞にも記事が取り上げられている。あとひと月は擦られ続けるのだろうと、男は他人事として捉えてはいるが、その被害者達は現在進行形で目の前にいる。
その上、事態に気が付いて真っ先に警察や救急に連絡を入れたのは彼自身であり、そのせいでここ暫くは警察の取り調べに付き合わされて、辟易している所だった。
――何せ、当事者である招待客達が、事件の前後の事をほとんど覚えていなかったために、聞き取り調査が難航している。
男は目の前で機嫌が良さそうにしているアリスを一瞥し、事件の後遺症は殆ど無い事を自分の目で確認した。
元より厄介ごとや質の悪い人間に好かれる質であるため、幼少期から散々苦労してきたためか、傷や痛みによる損傷自体は受けるが、それに対する耐性がやたら高くなってしまっている。
そのせいで、変な所で冷静で、妙な所で傷つき落ち込み、異様なほど打たれ強い。
……それが良いとは断言できないのが悩ましい。
傷つき続けたせいで、痛みに耐性が出来てしまった教え子を前にして、男はその複雑な心境を全てのみ込み、いつも通りに話しかける事にした。
「——その様子から察するに、スランプは脱する事が出来たんだな」
「……ええ。ご心配おかけしてすみませんでした」
眉尻を下げて気恥ずかしそうに笑みを浮かべるアリスに、男は「いつもの事だろう」と言って肩を竦める。
そもそも、そういった面倒ごとを嫌うのであれば、アリスとの関係をとっくに見直している。面倒ごとを含めてアリスという人間だと納得した上で、彼と付き合いを続けているのだから、この程度の面倒ごとであれば、軽い謝罪一つで許す程度には慣れている。
「……ああ、そういえば、預かっていた花瓶入りの遺骨だが、とりあえずはあの辺りで一番大きい寺に頼んで、供養して共同墓地に入れてもらった」
「それは良かったです。本来であれば故郷の家族の元へ帰してあげるのが一番なのですが、詳しい身元が分かりませんから……」
妥協案として、あの辺りで古くて歴史のある、一番檀家が多い寺に、それなりの金額をお布施して供養してもらう事になった。
「——まあ、宗派の違いぐらいは勘弁願うしかないな」
とりあえずは知人の古い蔵を整理してきたら、不審な花瓶が見つかり、調べてみた所、それが人の遺骨らしいと分かったので、とりあえず供養して埋葬して欲しいとの旨を寺に伝えた。
もちろん口止め料も含んでそれなりにお布施をしているので、その辺りは大人の都合という奴だろう。
キッチンで来客のお茶請けを用意していた少女が、ティーセットとクッキーが盛りつけられたトレーを持って戻ってきた。
「お茶をお持ちしました」
綺麗な所作でローテーブルの上に配膳する少女に、アリスは朗らかな笑顔を向けて、先ほど男から聞いた内容を伝えると、少女はふわりと嬉しそうに微笑みを浮かべる。
「凄く、安心しました。ずっとそれが気がかりだったみたいなので、彼もきっと喜びます。この後に部屋に差し入れを持っていくので、その時にでも伝えますね」
「——ああ、頼むよ。お茶をありがとう。マシロ」
不意に目の前の少女の名前を呼びたくなり、アリスは日頃の感謝を込めて言葉を贈ると、姉――マシロはアリスの感情の機微を感じ取り、花が咲くような綺麗な笑顔を浮かべた。
「——ああ、何やら話し声が聞こえると思ったら、先生が来ていたのですか」
アリス達が談笑していると、二階から一階、そしてリビングへと足音が近づいてくる。そしてノックも無しに扉が開かれ、ひょっこりと妹が姿を現した。
「来客の方が居ると分かっているのであれば、ノックをして入ってこないと失礼です」
妹の無作法を見咎めるマシロを「はいはい。次からは気を付けます」といなし、妹は空いていたアリスの隣へと座る。
姉妹に挟まれて座る形になったアリスは、ちらりと二階に視線をやってから、妹に作業の進捗状況を尋ねた。
「その様子であれば、もう少しという所か?」
「ええ。まあ、昼前から三人がかりで作業していたんです。後は細かい所の加工程度です」
「——すまないな。本当は私も、もう少し手伝うべきなんだが……」
「叔父様は、出来る範囲でして下されば、それで充分です」
「マシロとシンクは、本当にこういった事が得意で素直に尊敬する」
唐突なアリスからの誉め言葉に、妹――シンクは少し驚ききつつも嬉しそうに、誇らしげに胸を張る。
アリスから受ける言葉には妙に子供っぽい仕草を見せる妹を、姉は微笑ましそうに眺めている。
「何か作っているのか?」
彼らの話の内容から、何かを姉妹たちが制作している事は察しがついたが、彼女らが総出で当たるような大掛かりな物が思い当たらず、男は首を傾げた。
「ああ――、社を――祠を作っているんです」
アリスの言葉に、男は怪訝な表情を浮かべたか、すぐにその理由に思い至って納得した。
「本当はもっと立派な物を業者にでも頼もうかとも思ったのですが、彼が自室に置けるようなこじんまりとした物が良いというので。完成品を購入しようとしたところ、マシロがせっかくならば手作りしようと言い出しまして」
男の視線が自然とマシロの方へと向かい、満面の笑みでにこにこと笑っている姉と、それを面倒くさそうに横目で見ている妹が対照的だ。面倒くさがりながらも、それに付き合う妹も根がお人好しだなと、男は苦笑する。
「まあ、本人もやる気を出したので、彼の部屋で製作する事になりました」
「……確かに、それは随分と大掛かりな大作だな」
男は言葉に困って、とりあえずは彼女らの労をねぎらう事にした。
「中にご神体を収めるのが通常なのですが、とりあえず彼の脇差を収めておく事にしました」
「……思ったよりでかいな。おそらく、大脇差だったとおもうが……」
脇差は一般的には一尺以上二尺未満、約三十センチから約六十センチまでの長さの刀の事を指す。大脇差とは約五十四・五センチから約六十・六センチぐらいまでの事を言う。
「さすがに横に置くには大きすぎるので、斜めに立てかける事にしました」
「……どうでもいいが、タイミングを見計らって、許可の申請は出せ。人目に触れると厄介だからな」
「……度々ご迷惑をおかけして、恐縮なのですが――」
現在進行形で普通に銃刀法違反なのだが、折を見て届け出を出すつもりではいる。けれど、まずは刀を鑑定してもらい、美術的な価値がある事を認めて貰わなければならない。
「——分かった。知り合いに居るから、頼んでおく。刀を手に入れた理由も、適当に捏造するか」
楽しそうに嬉々として話す少女を見ながら、男は酷く現実的な意見を述べる事しかできないのだが、アリスとしては男の伝手を頼って鑑定士を紹介してもらえるとの事で、とりあえずは胸を撫で下ろした。
彼の紹介であれば、多少の矛盾は見逃してくれし、そう詳しい事まで調べられる事はないだろう。
「ありがとうございます」
マシロが自分の事のように喜んで、彼に伝えてくると言い残して席を立った。
「本当に、感謝しています。美術品とはいえ、私では畑違いすぎて、知り合いの鑑定士に相談しようか迷っていた所です」
アリスの職業柄、私生活以外の知人は得に関する仕事関連しかおらず、鑑定士という枠組みを頼るしかないかと頭を悩ませていた所だった。
こういう時に、届け出を出さずに隠蔽するという行為を避けるあたりが、アリスが法や道徳を重んじている事の表れなのだろうと、男は個人的には考えている。
……重んじている、というよりは、縋ってるともいえるが。
アリスからすれば、彼の中の常識や良心といったモノの基準になる。立法の下で生きていれば、それは当たり前の事ではあるのだが、アリスはそれとは別に、彼の弱く脆い所を支えて安定させる事に一役買ってくれている。
人間は酷く脆い生き物だ。精神的にも肉体的にも。特にアリスは精神面で不安定な部分が他者よりも多い。それを踏み外す事をアリス自身が恐れているからこそ、今の絶妙なバランスを保ち続けられている。
そして、それをアリスが望むからこそ、シンクはそのバランスを維持し続けている。
依存していると言っても過言ではないのだろうが、それを本人が自覚した上で、それを望んでいるために他人が口を挟む事ではないと、男は考えている。
少なくとも妹の方はアリスが今のままであれば、人間社会で生きていく上で大切な事は守り続けてくれる。
—―むしろ、男が危うんでいるのは姉の方だ。
彼女は常識も良識も持ち合わせ、他人を尊重しつつも、自身の事を大切にする。されて嫌な事はしないように心掛けるし、ある程度の必要悪を許容する柔軟さを持ち合わせている。
……人間として出来過ぎている。
大人でもそう上手く振舞えないというのに、彼女はそれを器用にこなし、出来る限り敵を作らない様に振舞える。
その一方で敵対者には容赦しないが、心の底から反省するのであれば、よほどの大罪人でない限りは許容し、一般人と同じように付き合う事が出来る。
だというのに周りから浮かない程度に周囲に合わせ、日常生活に紛れている。
男からすれば、日常に紛れて、普通の様に生活している異常者ほど恐ろしいものは無いと考えている。
アリスを子供の頃から知っているならばなおの事。
アリスは自分のせいで、加害者たちは狂ってしまったのだと悩んでいる節があるが、男からすれば、それはその人間が元々抱えていた闇に過ぎず、アリスという存在によってソレが浮かび上がってきたにすぎない。
酒を飲んで、他人に迷惑をかける人間と大差ない。
自身の許容量も分からず無防備に酒を飲み、一度失敗しているにも関わらず、同じ間違いを何度も繰り返す相手を擁護など出来ない。
一度目の過ちが許してもらえる程度であったのならば、今後はそれを教訓として、自らの欲を抑制していくべきだ。
その場の雰囲気や、周りの人間に勧められるままに踏み外すのであれば、別の理由で同じように過ちを犯した可能性が高い。
物事の道理を知らない子供ならともかく、いい年をした大人がそういった過ちを犯し、制裁を受けたとしても自業自得としかいえない。
けれど、おそらくは姉は酒を飲んで酔っ払ったとしても、間違いなど犯さずに平然と日常生活を送る。
彼女からすれば、抑制されたものなど大した事など無いと、外に出したい欲望など、日常生活を送るうえでの物と変わらないと笑うのだろう。
彼女は、異常事態に陥ろうとも、平然と日常生活を送る事が出来る人間であり、それが何よりも異常なのだと、本人が自覚していいない。
—―けれど、おそらくは男の心配など、杞憂に終わるのだろうという事が分かっていた。
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