第53話 信仰

 暗く重い金属に囲まれた隠し通路を抜け、石造りの階段を上り切った先にある扉から降り注ぐ光が、そこを通る者達を照らし出し祝福する。

 たった数日、陽の光を浴びる事が出来なかっただけだというのに、その陽光はそれこそ天からの福音にすら思えるほどに眩く温かい。


 その眩しさに目を細めながらも、アリスは開かれた扉を潜り、地上へと帰還を果たし、他の招待客達もそれに続く。

 周囲の内装からホテルの中なのは分かるが、かなり狭く全員が部屋に入るとぎりぎり接触しない程度の広さで、少なくともアリスは足を踏み入れた事はない。


 唯一ある窓から注ぐ光を全身に浴びながら、目を輝かせて熱心に外の景色を眺めている少年は、一体どれほどの長い時の中を薄暗い土の下で過ごしたのか。

 当たり前にある物が、どれほど尊く大切なものなのかをアリスに思い出させてくれた。


「……多分ですが、食堂近くの空き部屋の中だと思います」


 最後に通路から出てきた妹は、窓の外の景色を確かめて、頭の中の地図と記憶とを照らし合わせながら、アリスに報告をしてくれる。

 いまいち方向感覚に自信のないアリスは彼女に礼を伝え、この部屋の出入り口らしき扉へと向かった。


「……この扉、外側からしか鍵が掛からない様になっている」


「——唯一の窓にも格子が嵌められているし、なんか嫌な雰囲気の部屋だな」


 通路から出て早々に扉へと足を向けた『H』と友人の青年は、扉が外側に付いている事から――何か物をしまうか、閉じ込めるための部屋という予想が浮かび、ちらりと無邪気な少年の華奢で小さな背中へと向ける。

 険しい表情の青年の肩を『H』は軽く叩いて宥め、歩み寄ってくるアリスと妹へと視線を向けた。


「やはり鍵が掛かっているのですか?」


「はい――、まあ、扉の材質的に、破壊する事自体は可能です」


「とりあえずマスタキーで――」


 アリスが扉の鍵穴にマスターキーを試そうとするが、突然襲ってきた激しい揺れで仕損じてしまう。

 全員がとっさに近くにある壁に摑まったり、しゃがんで何とかやり過ごす中、目を見開いた少年が少女と繋いでいた手を放し、打って変わって険しい表情で、先ほど出てきたばかりの隠し通路の扉の中を覗き込んだ。


「……アレが上がって来る」


 その一言だけで、何が起こっているのか、その場に居る全員が把握してしまう。アリスは再びマスターキーを鍵穴に入れようとするが、弱いゆれが続いたせいで手間取ってしまった。

 何とか扉を開錠して、急いで扉を開いて通路へと出ると、そこは妹の言う通り食堂近くの空き部屋の様だった。


 続けて妹が廊下に出てきて、再びハルバートを構えてアリスを追い越して先行する。他の招待客と姉と少年も廊下に出て、とりあえずは玄関ホールへと向かう。

 先ほどまでは避けていた玄関ホールだが、重なりが解かれていればいない筈。例え繋がりが残っていても、既に紛い物は離れて追跡のためにスイートルームへと向かっていたので、おそらくは今は留守にしている筈だ。


「……儀式は終了していない。楔が緩んで重なりは解けたが、まだ、あの隠し通路の扉の絵を楔として繋がっている」


 アリス達は隠し通路を出た後、部屋の安全を確認してから扉に向かうか、その場に座り込んでしまったりと、開いた扉を確認する余裕がなかったが、その扉もまた絵画を埋め込んだ扉であった。

 少年は持ち前の感覚で気が付いていたらしく、隠し通路を確認した序でに確かめたと言う。


「どういう絵だったか分かるか――?」


「中年の男性……足元に血だまりがあって、そこに鋸と白い羽みたいなものが沈んでいた」


「……ああ――それは名工『ダイダロス』。『ミノタウロス』をと閉じ込める迷宮を作り、『アリアドネ』の頼みで迷宮の脱出方法を教えた」


 脱出口の先の扉が絵画という可能性に気が付かなかったアリスは、地下の屋敷から出られた事に安心して油断してしまった自分を叱咤する。

 内側からは普通の扉に見えたし、スイートルームの扉のように機械仕掛けの仰々しい扉のイメージが強く、ホテルと屋敷を繋ぐ扉であるという事を失念していた。


「何故、鋸と羽が血だまりに浮かんでいるんだ?」


 アリスの傍に居た少年が切羽詰まった状況下で、そんな事を尋ねてきた。危機的状態かで、少年は純粋な疑問を質問してしまうあたり、やはり少々感性がずれている。


「『ダイダロス』はかつて、鋸を発明した人間に嫉妬して殺めて追放されている。『アリアドネ』に迷宮の脱出方法を教えた事を『ミノス王』に責められて監禁され、脱出の際に鳥の羽を蜜蝋で固めて脱出した。その際に息子の『イカロス』も居たんだが、彼は自由自在に空を飛べる事に過信して、太陽に近づきすぎて太陽神の怒りを買い、熱で蝋が解けて落下して亡くなってしまった」


 人間の科学技術を批判する神話とされ、人間の傲慢さが破滅へと導くという戒めの意味もある。

 しかし、今の状況からすれば皮肉以外の何物でもない。


「……この儀式の術式を組んだ人間は、何と言うか……えらく皮肉屋だったのだな」


 神に近づきすぎて罰を受けた物語を題材にした絵画を、少年が閉じ込められている屋敷と通じた隠し扉にわざわざ使うあたりが、酷く冗談がきいている。


 少年が呆れが含まれた声で感心をしているうちに、玄関ホールへと辿り着いた。

 玄関ホールの備品の数々は無残に破壊されているが、壁や天井は無事なようだ。シャンデリアは装飾の硝子が砕けてしまっているが、本体は天井に吊るされたまま。外から光が差し込み、電気が無くても充分に明るい。


 やはり耐震工事は大切なのだなと、アリスは変な感想を抱いたが、よくよく考えれば、地下に屋敷が丸々埋まった状態で、その上に屋敷を建てるのは違法だろうと思い直す。地盤の強度調査をしていれば、おそらくは引っ掛かる筈なので建築法違反だろう。


 ――今、アリス達に取れる手段は、大まかに分ければ二つ。


 ――反撃するか、逃げるか。


 ――だが、アレ相手に正面切っての戦闘など愚の骨頂。自然と逃げるという選択肢を採る事になる。


 そもそも彼らが出来る抵抗など、アリスが思いつくのは正面階段の踊り場に飾られている絵画をどうにかするぐらいだろう。

 けれど、アレは此方と彼方を同調させて重ねた際、その状態を安定的に維持するための楔であり、アレがこちらに出てきている時点で然したる意味はない気がする。


「……地下の屋敷は、例えるのであれば社であり、座敷牢は本殿。この地上も言ってしまえば、神社の境内なのだと思う。まだ――完全にアレの領域内からの脱出はしていない」


 重なりが解けた所で、ホテルが領内であり、まだ終了条件を満たしていないと少年は予測を立てた。


「ならば――ホテルの敷地内から逃げるしかない」


 少年が玄関ホールの正面玄関の扉の前を示し、すぐさま妹が扉に近づこうとするが、それを少年が制した。


「上――!」


 妹はとっさに飛び退いて回避した次の瞬間には、扉の前に血と肉と骨の塊が落ちてきた。玄関ホールを満たすほどの大きさでもなく、最初に地下の座敷牢から這い出てきた体躯でもない、大人が一人で抱えられるほどの大きさ。


「……分裂してくるなんて、初めてだ……」


 今まで観測した事のない挙動に少年は驚き、目を見張る。しかし、近くで同じようにそれを観察していたアリスは、可能性としては考えていたので、それほど驚きはしなかったが、この時になって分離して、大きさではなく数の暴力を覚えた――思い出したアレを素直に讃辞を心の中で送る。

 いってしまえば、アレは人間らしい思考が戻ってきているのだ。人間の強みは想像力と汎用性の高さ。

 追われている立場の此方からすれば、舌打ちしたくなるような事態ではあるが、彼らからすれば人間性を取り戻しているのだから、同じ人間のとしては誉め言葉の一つでも送りたくなるのと同時に、哀れだという気持ちが強くなってくる。


 ――もし、アレが完全な人間性を取り戻した所で、彼らは既に死者であり、人間という枠組みを半分超えてしまっている。それに気が付いた時、アレらの意識は、それに耐えられるのだろうか?


 おそらくは塊の一部を切り離し、小型サイズにして敏捷性と機動力を上げ、狭い壁や天井の隙間や、通気口に入り込んで距離を短縮してきた。


「……合理的な思考能力を取り戻しつつあるのか?――ああ、そうか、憐れむ事も祈りだったな」


 あの血と肉と骨の塊は、屋敷が地下に埋まった際の犠牲者と、その後に放り込まれた生贄達で構成されている。

 今までの生贄達は、それに気が付く前に犠牲となってきた。

 けれど、今回は生贄達が生き残った事で、アレの――紛い物の正体を知ってしまった。それを見て、招待客達は恐怖すると同時に、犠牲となった彼らを憐れみ、無理だと分かっていても、彼らの苦しみが少しでも和らいで欲しいと願ってしまった。


 それ自体は決して悪い事ではない。むしろ、複雑な感情を持ち合わせる、人間という生き物としては正しいとされる、他者を慮る心。

 恐怖という畏怖よりも、ずっと暖かいもの。

 今までは少年という存在に対して向けられた祈りが、同一視されている紛い物にも影響を及ぼしてはいたが、所詮は間接的なもの。

 だが、招待客達は犠牲になった他の客達や、歴代の生贄達がさ迷い歩くのを見て、あのような姿になりたくはない、彼らを解放してやりたいと感じた筈だ。

 その結果、紛い物は人間達から直接の祈りを受け取った。

 それは、間接的に送られたモノよりも、遥かに尊いものだ。


「得体の知れないモノへの恐怖。具体性のない物が、正体を知って形をとり、明確にアレらに向けられた。……ああ、本当に、人間とは奇異な生き物だ。自分達を害する相手に向ける感情としては、柔く温かい」


 ……初めて自分の物として受けたものが、憐れみというのは、酷く悲しいが。



 少なくとも、少年が初めて受け取った祈りは、多くの人間達の幸福を願うものだった。

 自分は怒るべきなのだと指摘されたが、それでもやはり人間達を恨むことは出来ないでいる。

 彼らのした行為の数々は、人間基準でいえば間違いなく悪い事なのだろう。

 けれど、少年に器を授けた人間達は、皆の幸福を願い、純粋な祈りを捧げてくれた。

 その後も、ずっと少年を敬い、祭り、ずっと慈しんでくれた。

 

 人間は受けた事のある感情しか他人に返せないと、何時かの誰かが言っていた。

 ならば、少年が人間達に向けるモノは、慈しみの心であり、隣人の幸せを、家族の幸せを、人間という種の幸せを願うものでなくてはいけない。

 ならば、元人間であり、人間の境界を踏み越えようとしているアレらが、誰かに慈しまれる存在であって欲しいと願うのは、少年にとっては当たり前の事。


 ――きっと、これから先も、アレらを恨む事など無いのだろう。



 百人近い人間を地上へと上げるには、狭い隠し通路は蜘蛛の糸の様に細く、出る事に手間取っていたため、分離させた一部を先行させるという判断を取った。

 最初は純粋に恐怖と苦痛から逃れるために、祭られていた少年を求めていた。土台となった屋敷の使用人達は、雇用主から詳しい事柄は伏せられてはいたが、少年を目の前にした瞬間、彼が自分達とは全く違う、尊い存在なのだと本能的に察した。


 だからこそ使用人達は少年を敬い、丁寧に扱ったが、それと同時に恐れ、その尊顔を拝する事も、言葉を授かる事も恐れ多いと感じていた。

 それを察した少年が口を噤み、時折の礼を口にする事以外をしなくなった時、ほっとするのと同時に、酷く残念に感じた。


 彼らは皆、故郷での生活が儘ならず、奉公に出て、その給与を故郷で待つ家族に仕送りをしていた。

 苦しい状況下で、目にした尊い存在。

 美しく、気高く、尊い存在。

 少年が屋敷の地価の座敷牢に閉じ込められている事も、彼らかすれば、尊い存在を悪しき者達から守るためには止む無しと判断した。


 ――少年の意思を聞く事も無く、勝手にそう判断した。


 けれど、その中の一番若い使用人が、その事に疑問を持った。その使用人も、例にもれずに故郷の家族を養うために働きに来ていたが、他の使用によりもずっと若く、まだ現実打ちのめされておらず、将来を完全には諦めていなかった。

 可能性を信じ、諦観しておらず、固定概念に縛られていない。

 沢山の兄弟を持つ長子の使用人は、故郷で待つ弟妹達と少年を重ね、日が差す事も無い、座敷牢に閉じ込められた少年を不憫に思い、他の使用人が居ない時には、彼に二言三言話しかけるようになり、少年もそれに応える様になり、短い時間ではあったが交流を重ねた。


 ――純粋で、お人好しで、世間知らずで、けれど聡明で賢く、優しい子供。


 少年と使用人がお互いに向けた印象が、殆ど一緒であったことに、彼らは気づかぬままだった。

 若い使用人には力はなく、少年を其処から連れ出す事は敵わない。それでも、少しでも、少年の取り巻く環境が良くなればと、同僚達に悟られぬように努力した。

 見返りなど求めない。ただ、守るべき相手として、目の前の子供の幸せを願っていた。


 そして原因不明の災害で、屋敷が地下深くに埋もれた時、若い使用人は少年を連れ出す最後の機会だと思って行動しようとしたが、他の使用人たちは現実を受け止めきられずに発狂し、争い、少年に縋ろうとした。

 若い使用人とって、少年は庇護するべき相手であり、縋り希い存在ではない。もし、他の使用人達の願いが叶わなかったとき、彼らが少年にどういった反応を示すのかは明確には分からなかったが、それでもそれは良くないと思い、彼の部屋へと通じる鍵を持ち出して隠した。


 最後の力を振り絞り、若い使用人は少年の元を訪れた頃には、屋敷の中の人間は若い使用人ただ一人になっていた。


 死ぬことは恐ろしい。家族を残していくのは申し訳ない。それでも、少年を一人残していく事だけは、どうしても嫌だった。


 ふらふらと、ふわふわと、定まらない思考の中で、ただ少年の事を思い、ただひたすら足を動かし、手の中の鍵を握りしめた。

 地下の座敷牢へと続く扉を開き、階段を下りた頃には、もう何も考えられなくなっていたが、それでも座敷牢に向かわなければいけない事だけは分かっていた。


 僅かな光源も無くなり、屋敷の中は深淵に飲まれていたが、それでも手探りで、何とか少年の元へと辿り着いた。

 人間の視界はおろか、意識すら飲み込むほどの闇の中、少年の姿だけははっきりと捉えられた。


 少年は深い眠りと、浅い覚醒を繰り返しており、使用人達が近づくと僅かに顔を上げて、その姿を確認すると礼を口にして、再び眠りへと落ちていく。

 若い使用人が話しかけるようになると、滞在している間は目を開いて、他愛のない言葉を交わしてくれていた。


 意識が遠のいていき、脚の感覚が無くなる。自身が地面に倒れたのは分かったが、もう、それ以上足を動かすことは出来なかった。

 ぼんやりと霞む視界の中、少年が目を覚まして視線が向くのを感じ、若い使用人は鍵を握りしめていた腕を少年へと差し出すと、動かなくなった。


 ……お休みなさい。


 それが自身の声だったのか、少年の声だったのかは、若い使用人にはもう分からなかった。 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る