第45話  苦悩

 偶に、アリスは今の自分の状況を、第三者視点で考えたりする。

 本人に罪が無いと言えば確かにそうだ。

 少なくともアリスは極一般的な感覚を持ち、周りの同年代の子達と同じように成長していく筈だった。


 —―最初の異変が起きたのは、とある保育所で世話になった保育士。


 数人の保育士で何倍もの園児の面倒を見て、全員に目を行き届かせなければならない。他人との関りを持ち、他人という生き物を理解して、自分以外の人間へと優しさと配慮をする事の大切さを根付かせていく大切な時期。

 幼いアリスは初めてできた友人達とともに遊んで学び、すくすくスト成長していき、やがて保育所を卒業していった。


 —―確かに、アリス自身、その保育士に好かれているという事は何となく分かっていた。


 それでも一般家庭で育った場合、幼い頃は、自分が無条件で好かれていると思い込んでいるものだ。

 基本的には幼い子供への対応は優しくなるものだし、無下にするのも罪悪感を感じてしまう。アリスだってそうだったし、それはある意味、その幼さで自身を守っている事でもある。肉食動物が、幼い草食動物を育てたという記録もあり、母性本能と無害で弱い存在であるという事は、そう馬鹿には出来ない。


 —―だからこそ、小学生になったアリスは、目の前に現れた保育士の女性を警戒する事など考えもしなかった。


 —―可愛い、可愛い。私のアリス。


 成長するにつれて薄れていく幼い頃の記憶の中で、その言葉と、それを吐きながら愛おしそうに微笑んで近づいてくる女性の姿を、アリスは今もはっきりと覚えている。

 とっくの昔に、その声がどんなものだったかは忘れてしまったが、それでもどういう声質だったのかはよく覚えている。どろどろに煮詰めた砂糖の様な、甘い甘い声。とろけるような、纏わりつく様な声を発しながら、頬を赤らめて、恍惚とした笑みを浮かべていた。

 それ以上の詳しい事をアリスは記憶していない。気が付けば病院に居て、両親が泣きながら、「良かった。無事で良かった」と繰り返し、アリスを強く抱きしめていた。

 母親がほんの少し目を離した隙に、事が起こってしまったそうだが、両親は詳しい事情を語ってはくれなかったし、幼いアリスも何か怖い目に逢ったという事だけは感じていて、思い出す事を望まなかった。



「——『J』さんは、彼らが狂ったのは、私のせいだと思いますか?」


 目を伏せて暗い過去を思い出しながら、アリスは目の前に居る第三者に問いかけた。

 少なくとも、アリスの周りに居る人間は、誰一人としてアリスを責める事は無かった。


 —―加害者の親族や知人に責められた事はあるが。


 ため息を吐くように吐き出された言葉に、『J』はいい加減な返答はしてはいけないだろうと、暫し思案して自分なりの言葉でそれを伝える。


「——私個人でいえば、君が切欠である事は確かだとは思う。……だが、君が唆したわけでも、誘ったわけでもなく、一人の人間として、常識の範囲内で接した結果なのは、周りの人間達の証言からも証明されているし、犯人もそれは認めている。さすがにそれを責めるのはお門違いだろう」


 淡々と理路整然に話す『J』の言葉はするりとアリスの中へと入りこんでくる。『J』の人柄のせいか、彼の言葉は聞いていて安心して信じられる。


「君の周りに居た、君を好いたり、大切に思ってくれる人間が、全員おかしくなるわけではない。……言い方は少々あれだが、芸術家が、月や桜や異性にのめり込み、狂ってしまうに近いのだろうな」


 ルナティックという言葉があるが、ラテン語が語源で、月から発せられる霊気に当たると気が狂うという由来からきている。満月の夜には人が狂うなど、太古の昔から、月はその神秘性と美しさで人間を魅了してきた。

 けれど、月はただそこにあるだけであり、それを見てどう感じるかは傍観者による。それで月を責める人間など、逆に頭がおかしいとさえ思う。


 芸術家の中には桜の美しさに魅了されて、ひたすら桜の絵を描き続けた者もいる。


 異性にによって身を亡ぼす人間など、はるか昔から古今東西、資料や物語として残っている。異性関係で戦争が起きたり、国が傾き、挙句の果てには滅ぼしてきた。規模は小さいが、現代でも珍しくない。


 アリスの容姿は整っていて、万人受けする顔立ちをしている。知性や気品を感じ、所作も美しい。だが、人を虜にして狂わせるほどの美しさかと問われれば、首を傾げてしまう。

 整っている事は好ましい事ではあるが、よほどの事が無ければ、ああ綺麗な人だなで終わり、印象に残り辛い。

 そういった傾国の美しさは、容姿の美しさだけではなく、治世や教養、巧みな話術や人心掌握の能力、 相手の求めるモノを察して振舞う演技力。そういった物が揃ってこそで、天賦才能の類だ。


 一方でアリスは見目や所作や良いし、物腰は柔らかいので初対面の印象は良い。

 けれども、どこか一線を引いていて、深く踏み込む事を拒んでいる節が見える。大概の人間はそういう線引きを感じ取れば、それ以上踏み込もうとはしない。お互いに傷つけあう事が分かり切っているからこそ、よほどの覚悟を持たなければならない。でなければ、ただの浅慮の無遠慮な空気の読めない失礼な人間でしかない。



 『J』は最初の事件の際、アリスとは直接話す事はなく、遠目にちらりと見ただけだった。『J』は自分が取っ付きづらい性格をしていて、お世辞にも愛想が良いと言えないので、子供を怖がらせないようにと近づかない様にしていた。彼の先輩もしかり。

 こういった時は出来るだけ威圧感が少ない職員が、保護者同伴での聞き取りをするのだが、今回に限っては犯人が若い女性という事もあり、近い年の職員は逆に怖がらせてしまうだろうと、ベテランの愛想のいい年配の刑事に任せ理事になった。

 アリスのと取り調べは相手が低学年の小学生という事もあり、本当に必要な事をゆっくりとした口調で、相手を焦らせたり、怯えさせないように細心の注意を払って行われた。

 年の割には聡明だとベテランの刑事が褒めていた。同い年くらいの孫が居るとの事で、孫と重ねてしまうのか、痛ましそうに目を伏せていたのが印象的だった。


「ああ—―、可哀そうに。きっと、彼はこれからも苦労するだろう」


 その話を聞いた当時は、幼いながらに事件に巻き込まれた子供の心の傷にならないか心配、という意味だろうと『J』は勝手に解釈していたが、後にその言葉の本当の意味に気が付く事になる。

 先輩もベテランの刑事も、人を見抜く事に長けていたと、今さながらに関心をしてしまう。



「—―こういう仕事をしていると、常識や理屈では説明がつかない事件にも遭遇する事がある。今回ほど、とんでもない事件ではないのだが」


 大抵は何かしらの理由をこじつけるか、素直に原因不明と書類に記載して終わる。


「……偶にね……理由もなく、事件に巻き込まれたり、変質者に着け狙われる人間がいる。もちろん純粋に容姿に好かれていて、誰にでも優しいからと、目を付けられる被害者もいるんだが、容姿とか性格とか運が悪いとか……、そういったモノではなく、たまたますれ違ったり、数回会話した業者だったなんて理由で、全く違う別々の人間達から被害に遭う人もいる」


 遠目から見た幼いアリスは確かに可愛らしい少年だった。けれど、少し探せば同じぐらいの見目の良い子供は見つかる。だというのに、違う時と場所と人間から歪んだ好意を向けられ続けた。


 —―そう、間違いなく、アリスに向けられていたモノは、好意であり、悪意でも、敵意でもない。


 一歩通行の好意なんて碌なものじゃないと、ある程度大人になれば分かる事だ。だから少しずつ、距離を詰めて、お互いの事を知りながら歩み寄っていく過程が必要なのだ。

 それすら許されずに拒絶される事も珍しくは無いが、誰にだって相性や好みといった、趣味趣向が存在する。

 いくら時間や労力や金銭を消費しても、駄目な時は駄目だという事を理解していない人間もいるのが悩ましい所だ。

 自分の気持ちが相手と同じとは限らないし、幾ら願ってもその思いが成就するとは限らない。

 前提として、同じ人間、同じ国、同じ言語だとしても、全く別の考えを持った、他人なのだという事を理解すべきなのだ。


「……少なくとも、わたしは、あの事件で人からの身勝手な好意が、どれほど恐ろしいかを肌で感じたよ」


「……本当に、優しい人だった—―筈なんです。……ほとんど覚えてはいないですが」


 アリスは今でも思うのだ。自分と出会わなければ、きっと彼らは加害者にならずに、平穏な生活を送れていたのではないかと。


「それで良いとわたしは思う。狂った人間の事を完全に理解する事は難しい。話している言語も、話の内容も理解できるし、過程があってその結果という事も、全く共感は出来ないが、そういうモノだと頭では理解できる。……けれど、普通の人間は、思いついたからと言って、それを実行しようとしない物なんだ。相手からすれば、それは至極当然の事で、躊躇う理由がない」


 アリスの苦悩を察しているのか、『J』は悩んでも何も変わらないのであれば、悩むだけ苦しい思いをするだけなのだから、忘れてしまった方が良いと諭したが、アリスの顔が曇るのを見て、言い方を変える事にした。

 月や桜といった、美しい物の代名詞の様な、大仰なものよりも、もっと身近なもので例えた方が良いと考えたのだ。


「……そうだな……もっとわかりやすく言えば、君は酒やコーヒーといった、し好品の様な物だ。一般普及していて、法律的にも何ら問題がないし、それらを好む人間は沢山いる。けれど、その中の何パーセントかは、依存症にかかる。……けれど、それは誰が悪いとも言えないし、強いて言えば本人の体質や我慢をする理性次第で、周りの人間にはどうしようもない」


 誰もコーヒーや酒のせいだと言って、それらを禁止しない事と同じ事だと『J』は言う。けれど、それらがあるからこそ依存する者が居る、という事実は否定しない。


「——世の中には、どうしようもない事なんて幾らでもある。君だって、とっくの昔に理解しているだろう?」


 だからここで大人しく待つようにと、『J』は暗に促してくる。下手に動いて、これ以上余計な手間を増やさない事が、今のアリスが取るべき選択肢なのだと、自らを無理矢理納得させた。



「——例えが上手いな。近所の店で手軽に買えるコーヒーや酒に例えるとは」


「叔父様は何も悪い事はしていません。ただ、普通に生活しているだけです」


「それでも、日常生活の中で、それらが切欠で精神を病む場合もある」


 『J』が隣の部屋へと詳細を伝えに行くのを見送り、アリスは隣で寄り添う少女に思わず弱音を漏らしてしまう。それでも少女は平時と変わる事なく、本心から思っている事を言葉として彼に伝える。


「——確かに、割合でいえば、随分と多くはありますが、会う人全てに対してどうこうなるわけではないです。事故に遭う可能性があるからと言って、車を運転しないなんて、不便すぎるでしょう」


「—―同じ年の五月と八月に変質者に襲われてもか?」


「……先生も仰っていましたが、春を迎えて暖かくなって、色々変わってストレスを溜めこんだ結果と、夏になって熱さで頭をやられて、開放的になってしまったせいです」


 仕事のスケジュール管理もしてくれる、恩師がカラカラと笑いながら言い放ったのを思い出し、アリスは少しだけ口元に笑みを浮かべた。


「最近は、とりあえず時候のせいにしがちだな」


 流石のアリスも、その時には人の悩み事を季節の風物詩のように言わないで欲しいと、思わず突っ込んでしまった。


「その前は景気。その前は政治のせいだと仰っていました」


「……さすがに、それを政治家のせいにするのは……」


 何でもかんでも政治家のせいにされるのは、流石の彼らも遺憾の意を示したくなってしまうだろう。

 くだらない話をした事でアリスは少し気分が良くなり、感じていた息苦しさが薄らいでいく。


「……所で叔父様。こんな時に話す話題なのかとは思うのですが……」


 いつもの滑らかな口調ではなく、何か言い辛そうに口ごもりながら、おずおずと少女は言葉を選びながらアリスの方を見る。

 その仕草で少女が何かしらの頼み事をしたいのだ咄嗟したアリスは、話しやすいように努めて平静を装って、彼女が話し出すのを待った。

 少女は両手を組んで指をもじもじと動かして、気恥ずかしそうに視線を彷徨わせている。


「……その……」


 不意に目の前の少女の姿が、今よりも幼かった頃の少女の記憶と重なり、アリスは何となく彼女が言いたい事を察してしまう。


「—―構わないが、それなりに責任は負う事になる。それが分かっているのであれば、私は反対しない。私が手伝えることは協力しよう」


 まだアリスが姉妹と同じ家で住み始めて間もない頃、姉が一匹の子猫を拾ってきた。生まれて間もない姿で、小枝のように細い手足は今にも折れてしまいそうで、薄汚れた体が小刻みに震えていた。

 日頃から自分の事は自分でする上に、むしろ年上のアリスの面倒を見るほどしっかりとした姉が、何事かを言い辛そうに視線を彷徨わせていた。

 それだけで凡その事は察しがつき、アリスは姉が何かを言う前に、先ほど言ったのと殆ど同じ言葉を伝え、子猫と一緒に家に入るように促した。


 俯ていた顔を上げて、少女はアリスと正面から向き合い、頬を紅潮させて嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。


「ありがとうございます」


 アリスはずっと自分の味方として、傍に寄り添ってくれる少女達の願いを、出来る限りは叶えてやりたいと思っている。


「もちろん、当人が了承すれば、だが」


「はい。もちろんです。こういった事は無理強いはしたくありません」


 姉がアリスに話を通してきたという事は、姉妹間ではすでに話がまとまっているという事だ。この姉妹は、目を離した隙に、大概の事の打ち合わせが済んでいる事が間々ある。

 それこそテレパシーでも使えるのではと疑いたくなるぐらいには、以心伝心だ。何か隠し事をするときに、口裏を合わせてくるから厄介ではある。


「……ああ、そういえば、妹が、あのハルバートも持って帰りたいって言っていました。何か気に入ってしまったらしいです」


 ふと思い出した姉が、序でとばかりにそんな事を言い出すのを聞いて、アリスは頭を悩ませることになる。


「……二メートルの棒状の美術品。所有者との交渉と、輸送方法を考えないと」

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