第58話 懐古

「——ああ、彼は理解者に恵まれた事が、最大の幸運だろう」


 感慨深そうに息を吐くように呟いたウサギは、やはり剥製にしか見えないというのに、それでも確かに人間味の様な物を感じ取り、男はその矛盾から来る違和感に眩暈を覚えそうになり、気にしないように心掛けた。

 少なくともこれから彼は自分達と関わっていくのだから、お互いの配慮は必要だろうと考えている男に、ウサギが首を傾げる仕草をしながら、ずっと気になっていた事を尋ねた。


「叔父というには、少々血が遠い気がするのだが……」


 ウサギが日の光を浴びながら生活していた昔は、今よりももっと大人とみなされるのが早く、それと同時に結婚や出産もずっと早い。

 彼の知識の更新は屋敷が地下に埋まるまでで止まり、後はたまたま聞こえてきた他者の会話や、儀式の度に外部から持ち込まれる物品などで行われていたため、かなり知識が偏っている。彼自身もその自覚はあるらしい。


「体感として、外つ国の文化の流入が激しく、技術の発展が目覚ましい。ああ、後は成人の基準が変わり、それに伴い働きに出たり、婚姻を結ぶ年も上がったぐらいは分かる」


 贄になった人間達のおおよそ歳や、会話からの情報でその程度は察しがついていた。停滞はしていたが、彼は元より人間に依存している部分があり、そういった理由から完全に人から離れてしまうことは出来なかった。


「だから、血が遠いのに、随分と年の近い叔父と姪だなと思った」


 ウサギの素朴な疑問に、男は素直になるほどと納得してしまう。


「ああ――、正しく言えば……、あの姉妹の両親とアリスが従弟関係だな。アリスの父親が姉妹の祖母の年の離れた末弟になる」


 姉妹とアリスが初対面の時は、少なくとも叔父様呼びではなく、普通に名前に「さん」を付けて読んでいた。だが、姉妹の両親がアリスの事を弟の様に可愛がっていたたため、その関係で叔父様呼びへと移行していった形になる。

 アリス自身が叔父様呼びをあっさりと了承してしまったも大きい。さすがに本人が嫌がれば、呼び方を別のモノに変更はした筈だ。


「——ところで、妹の方は魅了されているわけではない様に思えるが……、あれは素なのか?」


 その言い回しで、ウサギが何を問うているのかが男にも十分伝わった。元より男は察しが良い方だ。


「……初めて顔を合わせた時からの初恋だそうだ」


 その可能性自体は周囲に居た親族達も懸念していたが、反応が今まで物とは違い、アリスに何かを強いる事は基本的に避けているし、当のアリスも今までの加害者達の様に怯える事も無く、純粋に姪っ子扱いをしている。


 —―向ける感情が、微妙にかみ合っていない。


「少なくともアリスの傍に居たい、というのが最優先の様だな。少々過保護なきらいはあるが……まあ、それに関しては周りが大概そうだしな。純粋な好意というか、何と言うか……」


 妹がアリスへ向ける感情は、間違いなく「恋」と呼ばれる類のモノだ。けれど具体性が無く、曖昧で、けれど強烈で、鮮烈なものだ。


「—―まるで信徒の様だな」


 ウサギの呟きを聞いた男は、曖昧な像を結んでいた物がはっきりと浮かび上がってくるのを感じた。


「ただ、縋るだけではない……ああ、それこそ祈りの様に澄んでいる。何の穢れも無い真水には、生き物は住めない様に、その感情を共有できるのは姉だけなのだろう。だから別の個体である貴方が、真に理解出来なくて当たり前だ。そういうモノだと知識として理解していれば問題はないだろう」


「……姉の方もアリスを慕ってはいるが、方向性は違うとは思ってる」


 姉もアリスを慕い、過保護ではあるが、あれは親愛の類なのは傍目にも分かる。だというのに、姉がアリスに向けるそれは広く、温かく、穏やかで、けれど重く、濃い。

 慈愛と言えばそうなのだろうが、やはりなんとも複雑かつ、具体性がない。


「—―それも仕方がないだろう。本来であれば、あの姉妹は二人だけで完結するはずだった。けれど、片翼が狂ってしまい、別のモノに変質してしまった。けれど、やはり片翼である事には変わりがないし、やはり半身のように感じてしまう。妹のその感情を自然と理解できてしまう。妹も彼も大切な家族であり、慈しむべき対象だ」


 姉の方はまだ成人もしていない少女だというのに、それこそ聖人の様に人が出来過ぎている。自らの欲がないわけでもなく、趣味趣向も持ち合わせている。だというのに人として出来ているが故に、人として何か足りない気がしてならない。

 男にとっては姉妹も幼い頃から見知っている親族であり、情もそれなりに持ち合わせている。


「——元より人間の感情をはっきりと形にして、明確な名を与えるのは難しい。おおよそ理解できていれば、それで十分だろう」



 不意に我に返った男は、自分がウサギに親族の相談をしている状況に気が付き、絵面が凄くシュールな事に思い至ってしまい、何だか気恥ずかしくなってしまう。


 —―ウサギに重要な相談する中年男性。


 個人宅内で行うのなら、まあ、人目に付かなければ問題は無い。けれどそれを傍目から見た場合、多様性が認められる昨今でも、なかなかに遠巻きにしたい部類の人間だ。


「……何で、ウサギなんだ?」


 化けるにしても、もっと他の犬や猫の方が何かと都合が良い気がする。確かにウサギは愛玩動物としても飼われているが、野生化では狩られる側というイメージが強い。


「……—―私は、昔はイナバという呼称で祭られていた」


「ああ――、因幡の白兎か」


「私とは全く違う個体ではあるし、彼方の方が私よりもずっと上位の存在だが、やはり神話という土台がある分、具体的で、形にしやすい。だからだろうな、器を得た際に、人間の形以外では、ウサギが一番楽な形なんだ」


 遠い過去の記憶の中で、社の中で世話をしてくれていた村人達が、自分をイナバ様と呼び、敬い、慕ってくれていた事を思い出し、温かい筈の毛皮と適度に暖房が聞いた車内であるにもかかわらず、少しだけ肌寒さを感じた。


「……俺もそう呼んだ方が良いか?」


 一応はかつて祭られていたモノへの最低限の敬意として、男は彼を何と呼称すればいいかと問う。

 ウサギは迷う素振りも無く、首を横に振った。


「……長い間、私はアレと混同され続け、神格を奪われかけた。そのせいもあって、懐かしくもあるし、最初に人間達がつけてくれた名前としては大切に思うが、そう呼ばれたいかどうかは分からない」


 元より一昔前は、元服で名前を改める事が当たり前であり、名を改める事自体はそう珍しい事ではなかった。


「……まあ、早急に必要でないのであれば、落ち着いたらアリス達と考えればいい。折角だから、自分で納得のいく名を名乗ればいい。名前が無いと、何かと不便だ」


 ウサギの長い耳がピクリと震え、遠い昔に聞いた自分を呼ぶ声が頭の中で木霊する。


「……私を最後にそう呼んだのは、この子だった」


 ウサギの顔が動き、傍に置かれた包みの方を向く。布越しの感触や重さから、おそらくは何かの割れ物だろうとは男も察しがついていたが、流石にその中身までは思い至ってはいなかった。

 けれどウサギの向ける寂し気な視線や言葉から、中身を察するのは容易なことだった。



 彼の人間よりも遥かに優れた感覚が、かつて自身が祭られていた土地を離れた事を感じ取る。

 生まれ落ち、祭られてきた土地への一抹の郷愁は感じたが、それよりもそこで営まれてきた人間との日々の方がずっと愛おしいと思う。


 慈しみ、祭り、供物を備え、身の回りの面倒を見てくれ、沢山の知識や遊びを教えてくれた。

 そして、その最後は自分と共にありたいと言ってくれた。


 不遇と言える境遇の中、それでも腐る事なく健やかに成長し、苦しんでいる他者のために無垢な祈りを捧げてくれた。


 故郷の兄弟達を重ね、彼を気遣い、寄り添おうとしてくれた。か弱くも、芯の強く、面倒見のいい者が、最後に願ったのは彼の幸せであり、故郷に残してきた家族の平穏な生活。

 何より、彼に最後の糸をもたらしてくれた。


 良い人間も、悪い人間も、どちらでもあってどちらでもない人間もいた。

 長い間暗い座敷牢に閉じ込められ、名を奪われかけ、挙句には成り代わられそうになっても、それでも人間を恨むことは結局は出来なかった。


 —―誰かの幸せを祈る声が木霊する。


 村の平穏と豊作を、産まれた幼子が大人の仲間入りを果たせるようにと、健やかに育ちますようにと、祈る声が聞こえる。


 皆の病が癒え、元気になりますようにと祈る声がする。


 故郷の家族達が、飢える事なく、人並みの幸せを得られますようにと祈る声がする。


 助けて欲しい、死にたくない、此処から出たいと悲痛な叫びが聞こえる。


 富を得たい、勝ちたい、美味しいものが食べたい、綺麗になりたい—―千差万別の願いが聞こえてくる。


 それらは等しく願いであり、祈りであり、叫びである。

 そこに差はなく、全て同等のもの。

 良いも悪いも無い。

 色も形も無い。

 それでも確かに彼には聞こえている。


 ……遠のいていく


 ……ああ、私は結局の所、お前達を救ってはやれなかったのか。


 ……それでも、お前たちが祈り続けるのであれば、その叫びが途絶える事が無いのであれば、いつの日か、必ずそこから出してやろう。


 私から始まった事。ならばその責を負うのは私の役目だろう。


 その日を迎えるその日まで、どうか苦しみを忘れて眠り続けると良い。


 かつての私がそうであったように、微睡み続け、何もなく、温かく、寂しく、静かで、優しい夢を見続ければいい。


 —―私は、此処にいるのだから。



 回想に耽っていた少年は、双子の姉妹の姉――マシロが言い出した事で意識を戻した。


「せっかくですから、祠を手作りしてみませんか?」


 アリスとシンクが驚きつつ顔を見合わせ、当の祠の主となる少年は不思議そうに首を傾げている。


「……とりあえずは体裁さえそろえれば、それで良いと思うのだが?」


 実際問題、古い祠には意思で家の形をしただけの物もある。屋内に置くので雨風の心配はしなくていい。


「君が決めると良い。私は出来る範囲で協力するつもりだ」


 アリスは優しい目を少年に向けて、彼に判断を委ねる事にする。何故なら、既にアリスは最初に庭の一角に業者に依頼して社と鳥居を建てようとして、少年に止められてしまっている。

 せっかくなら良い物にしようと、宮大工に頼もうと思っていたのだが、少年はそこまでの物を用意してもらうのは申し訳ないと、困らせてしまった事を反省している。


「……正直、面倒だとは思いますが、簡単な物であれば手伝います」


 シンクは眉を顰めたが、姉が善意で意見しているのを分かっているし、おそらく少年の了承が得られれば、彼女は一人でも実行に移す事が分かっていた。少年を自宅に連れ帰る事を賛成した手前、何もしないというのも多少は後ろめたさが残ってしまうので、さっさと終わらせてしまった方が建設的だろう。


 自然と視線が少年へと集まり、彼は視線を彷徨わせて暫し思案した後、小さく頷いて同意した。

 少年としては手作りの方が、手間暇は掛かるが経済的であり、少年自身も自分の祠を作るという事に興味があった。


 その日の内に材料を近くのホームセンターで購入し、次の日の朝から皆で製作に当たる事になった。

 アリスは制作中の絵があるために、最初の木材のの長さを計って印を入れたりするのを手伝ったが、以外と少年が手先が器用らしく、初めて使ったという鋸を駆使して、印通りに部品を切り出していった。

 ちなみに祠の設計図はアリスをマシロが制作し、力仕事はシンクと少年が担当する事になった。


 少しずつ形になっていく祠に、自然の少年の気分も高揚する。

 ずっと昔に、子供に竹トンボを作ってやった時の思い出が過り、気づけば口元に笑みが浮かんでいた。

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