第19話 少女

「——申し訳ございません。叔父様は体調が優れないので、しばらく休みたいとの事です」


 『М』と刻まれたプレートの付いた部屋の前で、少女が隣室の三人に頭を下げる。『C』は「いやいや、仕方がないから謝んないで」と両手を横に振り、『D』は「何か手伝えることがあったら言ってね」と血色がマシになった顔で心配そうに微笑みかけ、『L』は「ゆっくり養生をしてください。ご飯ならわたしが何とかしますので」と、全く料理に自信は無いが任せろと大きく頷く。


「……怪我は無いんだよね?」


 目を覚ましたホテルマンに突き飛ばされて体を強く打ったらしく、打ち身による青あざが出来てしまった程度で、不幸中の幸いで身体的損傷は殆ど無い。


 ——問題なのは精神的痛みの方だ。


 けれどそれを彼らに伝えるのは憚られるので、少女はこれ以上彼らを不安にさせまいと、努めて冷静に普段と変わらない様に振舞う。


「はい。体を床に強くぶつけましたが、打ち身であざが出来た事と痛みが残っているぐらいなので、しばらくすれば問題なく動けるはずです」



 不審な物音に警戒するのとほぼ同時に扉が勢いよく開き、飛び出してきたホテルマンの男がアリスを見た瞬間に歓喜するのが、アリスの斜め後ろにいた少女にははっきりと見て取れた。

 少女がそれに気をとられている間に、アリスは男に押し倒されて床に激しく背中から倒れ込んだ。男は酷く嬉しそうに口元を歪めていた。


 馬乗りで抑え込まれたアリスの顔からは感情が削げ落ちていた。いつもなら無表情でもアリスの人柄の様なモノが感じられるのだが、今はそれすらも無く精巧な作り物の様だ。感情豊かな彼の目が、無機質なガラス玉のように透き通っている。


 それらを確認し終わる頃には、既に少女は片足を後ろへと振り上げて、躊躇う事無くホテルマンの男の胴体に蹴り飛ばしていた。

 本当は男の頭を狙いたかったのだが、アリスとの顔の距離が近すぎたために、誤ってアリスに当たりでもしたら大事なので断念した。

 汚らしい呻き声と共に男の体が吹き飛び、床にぶつかって少し転がるのを確認しながら、手に持っていたポットを力の限り振りかぶる。

 生憎とポットといっても金属ではなく陶器だったために、激しく揺らされた中身が飛び散って少女にもかかったが、そんな事を気にする余裕などない。今度は見事に男の頭に飛んだのだが、咄嗟に腕で防がれてしまう。

 入れたばかりの熱い紅茶が飛び散り、男の制服にも染み込んでいく。その熱さに顔を顰めたが、ホテルマンの男はよろけながらも立ち上がり、スタッフの寮の方へと走り去っていった。


 一瞬その背中を追う事も考えたが、少女はすぐに考え直した。あの男を逃がせば再びアリスを狙ってくる確信が少女にはあったが、それよりも優先すべきはアリスの方だと瞬時に判断した。


 丁度アリスは自分で体を起こした所だった。床に押し付けられた際に髪が乱れ、後ろでまとめていた髪が解けてしまっている。男性にしては少し長い髪かもしれないが、光を通すとキラキラと銀色に輝くアリスの髪を少女は好んでいた。

 少女しゃがんで不安定なアリスの体を支えて、彼の身体に損傷がないか確かめる間、アリスは呆然とどこかを見つめている。

 確認を終えた少女はアリスの視線の先を追う。乱れた服装や髪を気にする事も無く、アリスはぼんやりと開いたままの扉の中を眺めている。

 スイートルームは入り口の扉から真っすぐにリビングまで通路が伸び、その途中にクローゼットと浴槽とトイレ、そしてベットルームへの扉がある。リビングは二階の客室よりも広く開放感に溢れているのだが、生憎ベランダに通じている筈の折り戸の向こう側は得体の知れない壁で真っ暗だ。


 けれど見るべきはそこでない事は少女にも分かる。ベットルームの扉が開き切らない様に、通路を歩くのを阻害するように、通路のど真ん中に障害物——正しくは成人男性が仰向けの姿勢で、こちらを仰ぐように倒れている。

 新鮮で鉄臭い香りが部屋の中から漂ってくる事に、少女は鬱陶しそうに顔を顰めた。ピクリとも動かない所を見ると、既に息はしていないのだろう。


 ……救助活動は無駄でしょう。


 少女はそう判断すると、一言もしゃべらず座り込んだままのアリスに話しかける。


「叔父様。大丈夫ですか?」


「ああ」


 少女の呼びかけにアリスはピクリと体を揺らし、視線が彼女の方へと向けられる。反応が返ってきた事に少女はほっとしながら、泣きそうな顔をした自分が感情のないガラス玉に映っているのを見てしまった。

 けれど涙を流していないので問題はないと、少女は心の中で呟く。


 どたどたと忍ぶ気が全く無い足音が近づいてくるのを察し、少女はアリスに立ち上がるように促すと、無言で頷いて行動し、平時と変わらない立ち姿を見せてくれた。

 あれだけ騒いだので、当たり前のようにそれを聞きつけた招待客達が駆けつけてくる。その中には談話室で話した『H』の二人と——おそらくは『G』の三人組が共に駆けつけてくる。


「大丈夫ですか——!」


「何事だよ!……うわっ」


 真っ先に駆け寄ってきてくれた『H』がすぐにアリスの視線の先を向き、そこにある遺体に気が付き、『H』の連れも顔を顰めて呻く。他の三人も似た反応を示し、状況説明を求めた視線が、自然とアリスへと集まっていく。

 けれど当の本人はそれを気に留める事も無く、ぼんやりとした表情をしている。先ほどまで会話していたアリスとの雰囲気の違いに、『H』達が怪訝そうにしているのを見て、少女が代わりに説明をする事にする。


「『H』さん達とお話を聞いた後、交代要員が出来なかったせめてものお詫びとして差し入れをと思い、厨房に寄ってからこちらに来たのですが、叔父様がノックをして声をかけた途端に、扉が開いて男の人が飛び出してきました」


 様子のおかしいアリスを庇うように、少女は前へと一歩出て、後ろめたい事など何も無いと胸を張って態度で示す。

 自分の話した内容で、今更ながらにバスケットの中に入った軽食は酷い有様だろうなと、視界の端に無残に転がるピクニックバスケットを見遣る。


「——叔父様は飛び出してきた男に押し倒された衝撃で、まだ動揺していている様でして、上の空なのです」


 少女は自分が遠慮なく男を蹴り飛ばした事はうやむやにして、アリスの異変に対して思い付きで説明を付けた。


「もしかして、そっちで割れているポットと、このバスケットが差し入れ?」


「はい。軽食をと思いまして。叔父様が持っていたので押し倒された拍子に落としてしまいました。ポットは私がとっさに男に投げつけてしまい……」


 咄嗟の判断ではなく、頭をかち割るために全力で投擲したのだが、それも言わぬが花という物だろう。


「それで!そいつはどんなやつだった?どっちに逃げたんだ?」


 『G』内の一人が険しい表情で辺りを見回しながら尋ねてきたので、少女は正直にスタッフの寮の方へと走り去った事を伝える。忙しなくきょろきょろと周囲を探っているのは、どこかに犯人が潜んでいるかもしれないと警戒しているのだろう。


「……あれって、『K』さんだよね」


 『H』が隣にいる連れに聞くと、渋い顔をして頷いて同意を示す。


「……制服を着ていたので、ホテルマンだと思います」


 「はっ?」とアリスを除く全員がぎょっとした表情で少女の方を見る。「マジで?」と再度確認してきたので、少女は神妙な面持ちで頷いてみせる。


「……ホテルに来た時に、扉を開けてくれた人だ」


 ぽつりとつぶやいたアリスの声が、不気味なほど静まり返った廊下に響く。その声がその場に居る全員にそれが現実だと、無理やり納得させようとする。

 実際は扉を開け閉めをしていたホテルマンは数人いた筈なので、他の招待客は違ったかもしれないが、アリスの記憶の中にある男と特徴が一致しているので、おそらくは同一人物だ。


「……とりあえず部屋の中を調べよう。見張りは『K』さんと『I』さんの二人の筈だから」


 今更ながらに見張りは二人いた筈だという事を思い出し、様子のおかしいアリスと少女を心配した『H』が共に残り、他の四人が部屋の中へと入って行く。


 『K』の遺体は左首元から袈裟に切られてる。出血が激しい物であった事は壁や床に飛び散った血痕が物語っている。

 中に入った四人は口や鼻を拭くの袖やハンカチで覆い、生々しい血の匂いを少しでも緩和させようとするが、目からの視覚情報はどうしようもない。

 遺体は通路のとリビングの境目に倒れていたのだが、薄暗い部屋の中で、ベットに誰かがもたれ掛かる様にして気を失っているのを見つけた。


「『I』さん——」


 出来るだけ傷口を直接視界に入れない様に視線を逸らし、「ごめんなさい」と謝罪しながら遺体の上を跨いで奥へと進む。

 『I』の姿を見た瞬間、四人は『I』の服が血まみれな事に気が付き、慌てて駆け寄って体を調べたが幸いにも彼には大きな外傷はなく、ただ気を失っているだけだった。おそらくは『K』から噴き出した地が『I』にもかかってしまったようだった。


 その後アリスは少女に連れられて自室に戻り、『I』はとりあえずは三人がかりで談話室には運び、ブルーシートの上に布団を敷いた上に寝かせておく事になった。服はとりあえず客の一人が提供したシャツと短パンに着替えさせた。


 アリスと少女の証言と現場の状況から、『K』殺害の犯人は犯人は例のホテルマンの男だという事になり、出来るだけ複数人で固まって過ごす事になった。


 ——だが、客の誰もが『A』と『B』達については、ホテルマンが犯人だとは到底思えずにいた。



 部屋の中に響くのは鉛筆を紙に走らせる音。それが此処数時間ほぼ絶え間なく続いている。

 ソファーに座ったアリスは無心でひたすら絵を描いている。彼の周囲にはスケッチブックから破りとった紙が散乱していて、彼に近づこうとするならば足元を見ながら歩かねばならないだろう。

 気分転換にプレイオープンに参加するにあたって、着替えや愛用している小物やタオルやちょっとした保存食など以外にも、思いついた時に絵を描けるようにとスケッチブックを数冊と鉛筆を持って来ていた。さすがに本格的な画材道具を持ち込むのは難しいので、最低限の道具だけだ。

 少女はアリスの向かいがに座り、本を読んだり、お茶を入れたりしながら、時折芯が平たくなった鉛筆を手に取り、紙を敷いた上で小刀で削って鉛筆の芯を尖らせる作業を行う。


 アリスが一心不乱に描いているのは、このホテルの中で見た光景。それは人であったり部屋であったり、天井や壁や床であったり、別の角度や方向から見た物であったりする。

 アリスの周りの床が紙で覆われる度に、少女は散らばってい紙を拾い上げて一つにまとめて、隣の空いている席に積んでいく。

 紙の山の一番上にあるのは少女の絵。入り口側のベットに座り本を読んでいる様子で、俯瞰から見た自分の絵。アリスの目を通して見る自分の様子に思わず少女の口元に笑みが浮かぶ。

 アリスは実在の人物をモデルにした絵はあまり書かない。幼い頃はそうではなかったそうだが、成人して自分の意志で描いたのは家族ぐらいなものだ。

 先ほど描いている絵の中にもちらほら人間が描かれてはいるが、それはどちらかと言えば背景の一部として描かれている。それらはアリスにとっては風景画でしかない。


——もちろん例外はある。


 せっかくだから記念に貰おうと一番上の絵を手に取ると、その下にある絵もまた少女の物。人好きのする笑みを浮かべている少女の横顔。序でだからと、それも回収させてもらう。

 ぽきっと鉛筆の芯が折れる音がして、少女がアリスの方を見ると鉛筆を走らせていた手が止まっている。絵を描いているうちにマシになってきていたアリス顔から、再び表情が無くなっている事に気が付き、少女はアリスが今描いていた絵を確認すると、眉を顰めてスケッチブックを別の物と交換する。

 暫くぼんやりとしていた停止していたアリスが唐突に稼働し始めるのを確認してから、少女は手に持っているスケッやチブックから、先ほどアリスが描いていた紙を破りとる。


 ——白黒の色だけで表現されてなお、描かれている男の目が強い光を宿しているのが分かり、酷く嬉しそうに笑っている光景が精密な線で表現されている。


 とても上手いのはもちろんの事、その時の感情が本人以外にも伝わるほどの熱がそこに込められている。

 少女としてはアリスの描いた絵を処分するのは避けたいのだが、この絵を見たアリスがまた調子を崩す事は避けたいと思い。苦渋の決断をして、その絵を持って浴室へと向かう。

 中に入って鍵を掛けると洗面台の前に立つ。備え付けの鏡に映る少女の顔はお世辞にも他人に見せて良い物ではない。もし殺人犯が犯行後に鏡を見たらこんな顔をしているのだろうかと、少女は鏡に映る自分にそんな感想を抱いた。


 洗面台の上で紙の端を持ってかざし、ポケットらから取り出したライターで下から火であぶる。

 橙色と赤色が混ざり合う小さな火が、真っ白な紙に燃え移り、紙を黒い消し炭に変えながら上へと昇っていく。

 少女は描かれている男の顔が火に飲み込まれていく様を見届け、燃えたままの紙を洗面台の中へと落とし、そのまま全てが燃え尽きる様を静かに眺めていた。


 少女がアリスの元へと戻ると、彼はスケッチブックと鉛筆をローテーブルの上に置き、目を瞑ってうとうと夢と現の狭間を行き来している。

 顔の血色は部屋に戻ってきた時よりも随分といい。その事に少女は安堵しながら、先ほどまで座っていた向かい側の席に戻り、微睡むアリスを穏やかな様子で見守っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る