第41話 境界線
アリスの手の中のマスターキーを強く握りしめると、冷たい金属に彼の体温が伝わっていく。緊張のせいでいつもより感覚が鈍く、うっかり鍵を手放してしまわないように強く握りしめる。
懐に仕舞うべきかとも思ったが、いざという時に取り出すのに手間取ったり、落としてしまった事に気が付かない方が問題なので、そのまま持ち歩く事にした。
とはいっても、主要な部屋の鍵は開錠されており、どちらかと言えば、いざという時に扉の開閉が自由にできるという、安心を感じるためのお守りにとしての役割が大きい。
妹もアリスに何かあった時の選択手段を増やすために、念のためという心づもりだった。
すぐ傍にある三階へのスタッフ用の階段を上るのは容易かったのだが、上がってすぐに先頭を進んでいた姉が足を止めた。彼女のすぐ後ろ、一段下の階段でアリスも足を止め、それに続いて後ろの客達も歩みを止める。
その理由は次の瞬間には皆が理解する事になった。
三階のスタッフの寮として使われていた区画には、ソレらが、まるでそこに住人かのように屯していた。
スタッフの部屋が並ぶ廊下と、彼らのための施設へと続く廊下、その両方に死者の群れが歩きまわっている。
何かを探すかのようにうろうろと視線を彷徨わせていたが、客人達の足音を聞きつけた死者達が、ゆっくりと彼らの方をへと振り向く。
生気のない死んだ魚の様な、けれど酷く透き通っていてガラス玉のように無機質な目が、生者達の姿をはっきりと映す。一番近い位置に居た一体がゆっくりと振り向いたのを皮切りに、次々に他のモノ達がそれに続く。
見た目は全く違う個体が同じ行動を行い、それに続くように隣の別個体がこちらを見る。人間としては簡単な振り向くという動作だが、おそらくは生きている人間はおおよそ行わない挙動に拒否反応を感じて、アリスは暢気にも感心してしまう。
単純な動きだからこそ恐ろしいのか、それとも微妙に生きている人間とは違う動き方をしていて、頭では分からなくとも、それを本能的に忌避しているからこそ感じるものなのか。アリスはその事が妙に気になってしまう。
しかし相手はそんな事はお構いなしに、出力されている行動を開始し始める。
視覚と聴覚で捉えた生贄達を、自らの群れへと加えるため、その中へと入り込むために、自らの手で生命活動を停止させなければならない。
「——多くない?」
『H』の連れの青年が、向かってくるソレら以外にも、廊下の奥で振り向いている様子を観察しながら、嫌そうにぼやいた。
「ああ—―、多すぎる」
すぐ傍に居た『H』が怪訝そうに同意し、それを背中後に聞いていたアリスも頷く。
妹から伝え聞いた話では、ソレらの群れは百体に届かない数だと聞いている。一階で目撃した群れは三~四十体程度。それを妹達がおおよそ破壊したとすれば、単純計算後は約七十体程度。
数としては十分に多いが、それが広いホテルの建物の中に広がっているのであれば、出くわす確率はそうは高くはないし、基本的には勝手に単独行動をしている様なので、数体程度であれば何とか撒く事が出来る。
けれど、目の前に居る数を見てしまえば、残りの個体が全て三階に集まっているのではないかという、嫌な予想が否応なしに浮かんできてしまう。
「も、もしかして……、やはりスイートルームに出口があって、彼らはそれを阻もうとしているのでしょうか?」
ようやく吐き気が収まり、口から声を出す事が出来るようになった『L』が、冷や汗をかいて震えながら、ぎりぎり全員に聞こえる程度の声を出す。
「——それは違うと思います」
アリスはにじり寄ってくる死者を淡々とした表情で観察しながら、物理的な根拠ではない、あくまで彼が得た情報と勘による考察を口にする。
「少年の話によれば、此処の人達は閉じ込められて亡くなったそうです。最初の犠牲者達はともかく、後の生贄の人達は少なくとも、私達と似たような状況だった筈です」
外部から何かを入れるのであれば、入れるための場所が必要になる。鳥を飼うために入れる鳥籠にも、餌や掃除をしたり、時には中に居る鳥を外へ出すための入り口が設けられている。
出入りするための場所があるからこそ、閉じ込めるという行為が出来る。
—―少年曰く、儀式として必要な物で、なければならないそうなので、出入り口を塞がれるという可能性は置いておく。
「彼らは自分達が生前知っている行動しかできないからこそ、順番を付けるための数字を避けている。……つまりは、彼らが知らない行動はとれない。彼らが出入り口の存在を知っていたのであれば、本能的に助かりたいと思っている彼らであれば、真っ先に出入り口に向かうのではないでしょうか?」
彼らはそれをせずに、自分達と同じ境遇のモノ達を仲間として取り込んでいる。人間は一人では生きていけない故に、群れで生きようとする。もちろん自らの境遇からくる錯乱や、八つ当たりの意味もあるのだろうが、それでも少年を求めるのは、助かりたい一心だからだという。
—―ならば、此処から逃れるために、真っ先に出入り口に向かうはずだ。
「それをしないのは、出来ないから。……知らないことは出来ない」
もしかしたら、生贄の中には脱出口に気が付いた者がいた可能性は、完全に否定することは出来ない。だが、そもそもアリス達がその可能性を知ったのは、ひとえに少年が人間を救ってやりたいと思い、接触をして来てくれたから。
少年はまともに話せた生贄達は、今回が初めてだという趣旨の事を口にしていた。
方法を知らないからこそ、一階で少年と鬼ごっこを繰り広げているわけだ。
「……もしかしたら、アレらは誰かを追いかけてきたのかもしれません」
その台詞でその場に居たモノ達は、アリスの言いたい事を何となく察してしまう。
「……此処に、ホテルマンか、『I』さんが逃げ込んでいる可能性がありますね」
この場に居ない生存者は、妹と少年、そして『C』と『G』の二人目の連れの青年、ホテルマンと『I』。
妹と少年はソレらの本体の相手で忙しいし、仮に『C』と『G』の連れの青年が動けるようになっていても、アリス達と接触せずにこっそりと三階に行ったとも思えない。
ならば消去法で、招待客達と顔を合わせたくない筈の、残りの二人の可能性が高い。
「おいおい……、あいつらも面倒だけど、凶器を持ち歩いている殺人犯はやばいだろう」
そんな事を言いながら、『H』の連れの青年が狭い階段を上り、招待客の横をすり抜けてアリスの前へと躍り出る。そしてその手には、件の犯人が持っているのと同タイプの消化斧。
「お前が言うなよ」
背後から投げかけられた友人からの突っ込みは聞き流し、青年は目の前まで迫ったソレが伸ばした腕を斧で払いのけ、容赦なく首を狙って斧を振りぬいた。
斧越しに伝わってくる肉を断ち、骨を抉る感触に、青年の顔が罪悪感と忌避感で歪む。
けれど斧が首に食い込みはしたが、完全に断ち切ることは出来ずに、斧の刃が当たった衝撃で、ソレは横へと倒れ込む。食い込んだ斧が持っていかれない様に、青年は力任せに引き抜いた。
「……やっぱ、一刀両断とはいかないな……」
青年の声は僅かにだが震えており、平時よりも激しく脈打つ心臓の鼓動を煩いと思いながらも、出来るだけ平静を装う。それは彼なりの自尊心であり、先陣を切るという覚悟の表れ。
長い付き合いの『H』には、それが責任感の強い青年のやせ我慢だとすぐに分かった。だからこそ、彼を鼓舞するために、いつも通りを装って言葉を紡ぐ。
「当たり前だろう。固定していても手元が狂って、死刑囚を苦しめる事があったからこそのギロチンだろう」
「一応は、高貴な身分の貴族を苦しめないで処刑するための物だったらしい」
思いがけない人物が発した言葉に、全員の視線が一瞬『J』の方へと向かったが、すぐに迫りくる敵へと戻る。
「……久しぶりに話したかと思ったら、その内容は無いでしょう……」
同じく久しく声を聞いていなかった気がする『E』が、呆れたように苦笑をする。らしくない自覚があるのか『J』が気恥ずかしそうに視線を逸らした。
一瞬だけ張り詰めた空気が途切れ、それが良い具合に青年の緊張を和らげて、硬くなった筋肉がほぐれていく。
姉が特殊警棒で頭や顎を叩き、脳震盪を起こしてよろけて転んだ相手の首を狙って斧を振り下ろした。今度は完全に首と胴体とを切り離す事に成功して、ソレの体がビックと震えて、そのまま動かなくなった。
「……ごめん」
活動を停止した相手に、青年は謝罪を口にする。理由はどうであれ、青年がしている行動は死者への冒涜である事は、彼自身が一番理解している。それでも青年は自身と友人、そして他の仲間たちの命を優先する事を選んだ。
謝罪で許される事ではないのは百も承知だが、それでも被害者であった筈の彼らに謝らずにはいられなかった。
「……そのまま続けますか?」
すぐ近くに居たアリスには青年の呟きが聞こえていた。その覚悟に水を差すような行為だとは重々承知はしていたが、それは別に青年がしなければいけない事ではない。
ある程度の腕力があれば、もちろん手元が狂う事もあるだろうが、とどめを差すことは出来る。そもそも彼らは生きていない。当の昔に亡くなっているのだから、殺人ではなく、死体損壊に当たる。もちろんそれも法律的には罪ではあるし、倫理的にも良くない事ではある。
一般人は死体を見るだけでもトラウマを持ってもおかしくない。さらにそれを破壊するという行為は、精神の摩耗は激しい。
アリスはそこまで腕力に自信があるわけではなく、せいぜい平均かそれより少々高い程度だろう。もちろん死体を見るのは恐ろしいし、それを傷つける行為にも罪悪感を抱いてはいる。
—―だが、きっと—―他の人間よりも、その痛みはずっと少ない。
アリスは自分が一般世間よりも、色々な面でズレている事は理解しているし、納得もしていて、仕方がないと諦めている。
知識や常識として、おかしい事だとは理解していても、形のない感情はアリス自身にもどうしようもない。周りに合わせて取り繕う事が出来たとしても、本当の意味ではそれを持ち合わせていないのだから、どうしてもある程度の違和感は出てきてしまう。
それを経験則で補い、周りとの軋轢を減らす事しかできない。
アリスは人間だ。故に、人間の社会でしか生きていけないのだから、その社会常識に沿うように取り繕う事は悪い事ではない筈だ。
少なくとも、目の前に居る青年は、見知らぬ他人の死体を傷つけたことに心を痛めている。本人が決めた事だとしても、それでも未来ある青年の心を、少しでも守りたいと思うのは大人として間違っては無い。
「……ありがとう。—―けど、いい。これは俺がすると決めた事だ。今更、誰かに押し付けるつもりなんてない」
青年はそう言い放つと、掌の中にある斧の柄の感触を確かめながら、決して離さないようにと強く握りしめる。
警棒によって床に沈められたソレが、起き上がろうと手を付いている無防備な背中から、青年は躊躇う事無く斧を振り下ろした。
そんな青年の姿を見ながら、アリスは彼の姿を目を細めて眩しそうに見つめる。
青年の覚悟と勇気と、他人の心に重荷を背負わせたくないという優しさ。それが酷く眩しく、尊いものに見えて、アリスは目を逸らすことなくその光景を見守る。
「……かっこいいでしょう?俺の友人は」
いつの間にかアリスの隣に並んで立っていた『H』が、自分の事との様に誇らしげに、物悲し気に言う。他人を気遣い、自分を傷つけてしまう友人を好ましく思うのと同時に、酷く遠い所に居て、自分が一人取り残されてしまう様に思えて、寂寥感に打ちひしがれてしまう。
友人の自己犠牲が誇らしく感じるよりも、それをしてしまう友人の事が酷く恨めしい。そして彼にとってはかけがえのない友人で、何よりも大切だと思っている。
「本当に、彼に出会わなければ、きっと俺はずっと穏やかで、酷くつまらない日々だった筈だったのに」
「……そんなものだよ。世の中はままならない事ばかりだ」
画面越しに眺める景色などではなく、すぐ目の前で起きている出来事から目を離さず、それを見続けている『H』は十分にできた人間だとアリスは感じていた。彼らを好ましく感じたアリスは、先達としてアドバイスを送る。
「……傍に居てあげなさい。彼が境界線を踏み越えてしまわないように」
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