第15話 平穏

 「どうして俺達の事を庇おうと思ったんですか?」


 『L』の部屋に来た『C』は唐突にそんな事を尋ねた。

 『L』の好意で部屋を移動させてもらった『C』は、『D』達が来るまで手持無沙汰になり、何となく気になっていた事を尋ねる事にした。

 アリスと少女は『D』に付き添い、彼女の部屋の片づけを手伝っている。正しくは手伝いをしているのは姪である少女で、アリスはその付き添いとして同行しているだけだ。

 さすがに異性には見られたりしたくない物もあるだろうし、体調が芳しくない『D』を一人向かわせるのは不安が大きい。なので妥協案としてアリスは入り口の所で待機して、少女が『D』の荷物の整理を手伝う事にした。

 必要最低限の物以外は旅行鞄に入れっぱなしの『C』とは違い、『D』は使う物は全部外に出して分かりやすい所に置いておくとの事で、部屋中に荷物が広がっているそうだ。

 ベットメイキングや備品の追加や清掃のためにスタッフが入るのは良いのかとも思うが、そこは相手の仕事だからで割り切っているそうで、それでも見られたくない物や貴重品はちゃんとしまうので問題ないとの事。

 大荷物で廊下で待つのも周りの視線が気になるので、『C』と『L』は先に移動させてもらった。


「俺としてはありがたいけど、やっぱりほぼ初対面の人間相手に、そこまで親切にできないでしょう?」


 『C』の意見は至極まともで、危機管理能力が足りないと言われても仕方がない。それは『L』も重々承知で、それでも彼らを手助けすると決めたのは彼自身だ。


「……それほど立派なものではないですよ。——ただ、悪人にはなりたくなかっただけです」


 おそらくは『C』よりも一回りは年上であろう『L』は、眉を下げてふにゃりと情けない笑みを浮かべた。


「多分、あそこで貴方達を見捨てて何かあったら、わたしは一生罪悪感を背負って生きていかなければいけない。そして、わたしはそれに耐えられるほど強くない。臆病で弱虫なんですよ」


 それでも『C』からすれば十分に善人だと思うのだが、それを伝えた所で『L』は認めはしないだろう。根本的に、『L』には自分への評価が低く、自信が無い。故に、自分に関する事は後ろ向きに捉えてしまう。こればっかりは他人どうこう言うべきことではなく、自分で折り合いをつけていくしかない。


 世の中には強かで小狡い人間など山のようにいる。そういった人間の方が世の中を上手く渡っていけるし、『C』もどちらかと言えばそちら側の人間だ。


 ……らしくない事しているな。


 『C』はそんな事をふと思うのと同時に「日常から離れて、自分らしく」という、このホテルに着いた渡されたパンフレットに書かれていた文言が思い浮かぶ。

 少なくと『C』は自分が出来るだけ損をしない様にと、ふらふらと漂うように生きて生きた。別に厭うほどではないにしろ、思う事がないわけではない。

 子供の頃は漠然としてはいたが、他人に迷惑を掛ければ素直に謝り、むしろ人に感謝される人間になりたかった。子供らしく正義のヒーローに憧れていたし、将来の夢は警察官だった筈だ。

 気が付いた時には警察官も教師も消防士も、みんな自分と同じ小狡い人間で、正義のヒーローなどと呼べるような聖人ではなかった。


 ……せめて躊躇う事無く、偽善を行える人間になりたい。


 ——しない善より、する偽善。


 どこかで聞いた言葉を『C』は心の中でつぶやく。


「……わたしは良くマニュアル人間で、融通が利かないと言われます。自分でもそう思います。自分では何をしていいか分からない。わたしは所謂、社会の歯車にしかなれない人間です。だからその意見に反対でも、明確な理由があったとしても、周りの大多数の人間が賛成するのであればそれに習います。……わたしには、対案を思いつくほど賢い頭を持っていません」


 ため息交じりに苦笑する『L』の横顔は一瞬酷く老いているように見えたが、再び話し始めた事には元に戻っていた。


「そもそも対案も無いのに、反対を主張する方が愚かでしょう?自分が損をするから、心情的に嫌だからといって、ただ反対すればいいってものじゃない。それをしない事で自分以外の沢山の人間が損を被ると分かっていれば、多少の我慢は仕方がない」


 誰であっても大なり小なり妥協して、我慢をして生きている。『L』はその我慢を強いられる機会が多い人間という事だ。その我慢も耐えられないほどではないが、それが積み重なれば負担も大きくなる。


「今回に関していえば、私個人の意見としては、確かでも無い憶測で他人を窺ったり、傷つけたりするような真似はしたくなかった。けれど、わたしには具体的にはどうすればいいか分からなかった。——けど、今回に関しては、『М』さんが具体的な意見を述べてくれた。だからそれに賛成をして、それがわたしにも実行出来る事であったからそうしただけです」


 不器用だけれど根が良い人なのだろうなと、『C』は気恥ずかしそうに笑う『L』を眺めていた。


 二人がソファーに座って会話しているうちに時が過ぎ、アリスと少女と『D』が荷物を抱えて戻ってきた。キャリーケース二つ分をアリスが運び、少女は『D』に寄り添い転んだりしないように気遣っている。

 三人が部屋に着くと、入り口側のベットへと案内されたので、とりあえずそこに『D』を座らせる。


「空いている時間で色々話し合った結論なんですが、風呂やトイレが近い方が女性には何かと便利だろうという話になった。元々『L』さんが一番奥のベットを使っていたそうなんで、とりあえずは多目的室にあったパーテーションを運んできておいたんで、これをベットを目隠しとして置こうと思うんだけど……」


 『C』と『L』は荷物を運んですぐにその辺りの事を話し合い、『C』が目隠しになるようなものは最低限必要だろうという話になった。その時に『L』が多目的室にパーテーションがあるのを見かけた事を思い出したのだ。

 多目的室は今回は稼働されていないのだが、『L』が一階の施設を見学と避難経路を確認する際に見かけたとの事。


 ——今回に関しては、避難しようにも屋外に出られないので意味はないのだが。


「一応は会社の保養所として役割も考えられているみたいですね。あくまで案の一つの様ですが、その事もあって一時的にオフィスや会議室代わりに使える部屋があるみたいです」


 とりあえずは一番手前のベットの周りにパーテーションを置いて、疑似的な個室を形成する。避難所などでも段ボールの仕切りがあるだけでかなり違うと聞くので、多少は効果はある筈だ。

 正直『D』もその心遣いは大変ありがたいし、得体の知れない壁に囲われた状態で、薄いガラスを隔てただけなのは心もとないので、移動しやすい入り口付近のベットを譲ってくれた事はとてもありがたい。


「とりあえずは引っ越しも終了したし、何か胃に入れない?」


 とりあえずは一息付けた事で、どっと疲労感が押し寄せるとともに、忘れていた空腹感が戻ってきた。


「じゃあ、私が厨房に言って何か作ってきますね。叔父様は付き添いを頼みます」


 仕切りの向こうからひょっこりと顔を覗かせた少女がアリスの方を見て提案をする。


「……よく見ればもう昼過ぎているな。——所で皆さんにはアレルギー、もしくは好き嫌いはありますか?」


 外が常に真っ暗なせいで、体内時計が狂いやすくなっている事もあり、それぞれが置時計やら腕時計やら携帯端末で時間を確認すると、確かに正午を既に過ぎてしまっている。

 どうりでお腹がすくわけだと納得をした後、とりあえず食事をしながら今後の事を話し合う事になった。


 少女とアリスが部屋を出て言ってから三十分ほどしてから戻ってきたのだが、先に部屋に入ってきた少女の手には銀色の大きなトレイがあり、上にはどんぶりが三つ乗せられており、そこからは出汁の優しい香りが漂ってくる。


「何か消化が良さそうで食べ易そうな物をと考えていて、先ほど部屋を引越しした事を思い出しまして」


 少女が空いているローテーブルの上にトレイを下ろし、温かい蕎麦とだし汁の入った器を配膳しているうちにアリスも部屋に戻ってきた。同じトレイの上にはどんぶりが二つと沸かしたばかりのお湯が入ったポットが乗せられている。


「失礼。少し遅れてしまいました」


 謝罪をしながらアリスもトレイを置いて、器とポットをテーブルの上にそっと置く。

  少女が用意した料理はシンプルな蕎麦で、かつお出汁の汁の中に茹でた蕎麦が沈み、上にはネギ、かまぼこ、とろろ昆布が乗せられている。

 料理をするスタッフがいないために、宿泊客達はそれぞれが自身の食事を用意している状態なのだが、食材が減ればそれが元で争い事が起きるかもしれないという懸念が残っていたが、アリスは食事の時ぐらいはそういった事を忘れる事にした。


「とても美味しいです。若いのに料理出来るのは凄い事ですね。恥ずかしながら私はお惣菜ばかりで……」


 『L』は汁を啜って、その素朴ながらも純粋に美味しいといる味を堪能する。


「そう言ってもらえると、とても嬉しいです。とはいえ、顆粒出汁と砂糖とみりんと醤油を合わせただけなので、そこまで凄い物は無いんです。レシピ通りの内容ですから」


「そんな事は無いと思う。わたしが同い年の頃は、せいぜいお米を炊けて、みそ汁を作れて、魚と肉を焼くぐらいしかできなかった」


「あー、俺もそんなもんかな。家庭科の授業で作った物が辛うじて作れるぐらいかな」


「それだけ出来るのであれば上出来だと思いますよ。……私は料理が全く出来ないので」


 アリスは一つの事を集中して行う事は得意なのだが、複数の事柄を同時並行でする事が苦手だ。

 例えば鍋で煮ている間に別の食材の下処理をしようとすると、大概は鍋が吹きこぼれるか焦げ付いてしまう。料理の最中に電話がかかってきても気が付かないか、気が付いて電話に出て話しているうちに料理の事を忘れてしまったりと、何かを同時に行う事が極端に苦手だった。


「叔父様は料理をする能力自体は在るんですが、作業工程をこなすのが上手くいかない事が殆どですからね。仕事に集中すると、寝食を忘れてしまう人を初めて見て驚きました」


 何かに没頭すると周りが疎かになってしまうので、アリスの周りの人間は定期的に様子を見に来たり、携帯端末を大音量で鳴らして我に返るきっかけを与えたりする。一時期はアラームをセットしたりもしてみたのだが、そもそもアラームをセットする事を忘れてしまっていたりする。

 苦肉の策で仕事用の携帯端末を用意して、常に仕事場の充電器に設置したままにして、最大音量でいつでも鳴らせるようにしている。


「……面目ない」


 アリスは申し訳なさそうに視線を逸らす一方で、少女はにこにこと楽し気にアリスの横顔を見ている。


 本来このホテルでは他の宿泊客の内情を詮索するのはルール違反らしいが、話の内容として少し話す分には問題ないだろう。実際に彼らはお互いの名前も職業も知らない。必要になれば話すかもしれないが、今の距離感が丁度良いので、このままお互いの事を知らないままかもしれない。

 例えそうだとしても、それはそれでいいような気分になるから不思議なものだ。

 その場限りの付き合いだからこそ、面倒な気遣いはほどほどに本音を口にする事が出来る。

 

 ……浅くて狭い付き合いも、たまには悪くない。


 食事を食べ終わる頃には。その場にいた全員がそんな事を考えるに至っていた。


 扉を閉めて籠ってしまえば、今いる部屋だけが見える世界になる。少なくとも今いる世界は恐怖など度は無縁で、穏やかで優しいものだ。扉を開いて一歩廊下に出れば、それが瞬く間に無くなってしまう幻だとしても、少なくとも今は本当にそこにあるのだから。

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