第43話 糸口
一瞬何が起きたのか、その場に居る人間達には分からなかった。
目の前に居たソレらの群れの半数近くが床の中へと落ちていった—―としか表現できない。
突然起きた激しい揺れと轟音で、その場に居る人間達の大半は動けなくなった。辛うじて少女と『H』の連れの青年が、武器を構えてその場に踏みとどまるのが精いっぱいなほどの激しい揺れにより、ソレらの群れも当然のようにバランスを崩して倒れてしまう。
狭い通路でぎゅうぎゅうに人が詰まった状況下で、誰かが倒れて支え切れなければ、近くの者が巻き込まれて倒れ、ドミノ倒しのように連鎖していく。一番下になったモノは悲惨で、上に倒れてきたモノ達の重量が一気に伸し掛かってくる。
少女と青年はふらつきながらも後退して、倒れ込んできたソレらを避ける。そのままソレらの群れが全て倒れたのであれば、多少強引にでも強行突破するしかないとアリスは構えたのだが、倒れ込んだソレらが一瞬で床の中へと消えていく。
ここ数日で非現実的な目に散々あったが、それでも目の前で起きた現象に宿泊客達は目を白黒させた。
倒れていたソレの一体が、上に乗っていたモノを押し退けて立ち上がろうとする。上に伸し掛かっていた個体の体が転がり、空いていた床に触れた瞬間に床に吸い込まれていく。その場所が蜃気楼のように揺らぎ、階下にある玄関ホールと落ちていく様がぼんやりと透けて見えた。
よくよく見ると、体の一部だけが床の中にめり込んだ状態のモノも居り、それを見てアリスは目の前の光景に合点がいった。
「……此方側は平気だが、彼方側の床や壁が崩れ落ちたのか—―?」
重なっている個所が壊れたが、依然と楔により固定されている状態のため、こちら側の存在である宿泊客達には、変わらず床と壁があるように見えるが、地下にある屋敷の方は崩れてしまったのだろう。
もとより、それなりに古い建物で、長年地下に埋まったまま放置されている。風雨にさらされて風化する事は無いが、湿気などの影響は受けるし、常に一定の重量がかかった状態なのだから痛まない筈がない。どうやら神秘的な力にも、限度はあったようだ。
「……これは、私達が通っても大丈夫なのか?」
アリスの心配はもっともで、場所によっては三階から一階への落下になってしまう。二階に落ちるだけでも、当たり所が悪ければ即死になりかねないし、生身の人間はただでは済まない。
揺れが収まって立ち上がったソレら外側にある壁に寄り、内側にある壁と床を避けて近づいてこようとする。
「——失礼」
少女が一番手前に居た、ようやく立ち上がった個体を軽く警棒で殴ると、よろけて数歩横に進むと、そのまま壁の中へとめり込み、あっという間にいなくなってしまった。
「……いや……失礼って……」
その光景を間近で見ていた青年は顔を引きつらせながら、思わず突っ込んでしまうが、それも弱々しい。
アリスも通路を塞いでいる通行人にどいてもらうような口ぶりで、いとも容易く行われた犯行に呆気にとられてしまう。
そんなアリス達を尻目に、少女は警棒で床と壁を軽く叩いて、視界の光景通りであるかどうかを確かめると、慎重に自らの足を乗せた。数回靴底で床を叩き、壁も手で確かめる。
その間に近づいてきた相手は容赦なく殴り飛ばす。
「……とりあえず、気を付けて進みましょう」
悲鳴も上げずに見えない穴に落ちていくソレらを見送りながら、アリスはとりあえずはそう発言してみる事にした。
いきなり床が無くなって落下、という事態を避けるために、念には念を入れて、ソレらが通っている個所を出来る限り使用する事にした。もちろんそこを塞いでいる相手には、暴力づくで退いてもらう。
空いている個所を走り抜けるという案も出たが、どういう状況であるかが分からないので、それは避ける事にした。
幸いにもソレらの群れの数が半数まで減り、密閉されていた通路と違い、見た目には分からないが半分程度が崩れて穴が空いている状態だ。わざわざ動けなくして、首を切り落としたりする手間が省けるので、先ほどよりもサクサクと進む。
問題があるとすれば、下に落ちたモノ達があの塊に吸収される可能性が高い事と、床や壁をすり抜けて落ちていく光景を見る度に、もしかしたら自分も同じ目に逢うのではないかと、恐怖ですくむ足を叱咤しなければならなことだろう。
前者は正直避けたい事ではあるのだが、おそらくはあの爆発はあの塊に対して、何らかの足止めによるものと推測できるので、その手腕に期待して、宿泊客達が進む事を優先する事にした。
後者の問題は、想像するだけでもぞっとするというのに、目の前で落ちていく光景が何度も繰り返される事で、その光景が嫌でも焼き付いてしまう事だろう。
出来るだけ外側の壁側により、手や足で壁や床の有無を感触で確かめて進むしかないのだが、のろのろしていてはあの塊に追いつかれたり、残りの死者達に囲まれて積む可能性もある。それこそもたついているうちに、足元の床が無くなって落ちるかもしれない。
先頭を行く少女はこういう時の度胸が凄く、他に方法が無いのだから、覚悟を決めて進むしかないと割り切っている。傍を行く青年はどちらかと言えば、なる様にしかならないと捨て鉢になっている。
二人の頑張りのお陰で、何とか『アルファ』の棟へと辿り着く事が出来て、ほっと胸を撫で下ろした。少なくとも落ちても二階への落下という、出来れば避けたい事態だが、三階から落ちるのに比べれば随分とマシだ。
スイートルーム前にもそれなりに居るのだが、かなりの量が落下してしまったらしく、十数人程度。よほどのトラブルが無ければ、目的の奥の方のスイートルームに辿り着く事が出来る。
「——そういえば、手前のスイートルームの方は確認していませんでしたね」
少女が床に倒れた相手への追撃をしてから、ふと顔を上げてすぐ横にある厳かな雰囲気の木の扉を一瞥する。
「……一応、中を確認しておこう。外からは開けられなくとも、中からは開けられる。念のために、軽く確認をしておこう」
すでに扉が破壊されて出入りが自由の奥の部屋は、他の宿泊客に任せて、アリスは預かっていた鍵を鍵穴へと差し込む。後ろには念のために『J』が控えてくれている。その手にあるのは、逃げている最中に折れてしまった掃除道具の柄。しっかりとした木の棒はそれなりに長さがあるので、いざという時にはそれなりに使える。
どうやら『J』には武道の心得があるそうで、姉曰く、体感がしっかりしていて軸がぶれる事はなく、足運びに無駄がないとの事。
確かに『J』は無口で気難しそうで近寄りがたい雰囲気をしているが、話せばきちんと受け答えをしてくれるし、意見も中立性が高く、話し方も丁寧だ。標準語を話し、発音も綺麗で聞き取りやすい。
おそらくはそれなりにお堅い職業なのではないかと、アリスは勝手に推測をしている。
鍵穴に刺さった鍵を回すと音が鳴って、錠が外れた感触がした。アリスはそっと鍵を抜き、ドアノブを掴んで慎重に動かすと、抵抗なく扉が開く。警戒しながら半分ほど開いた隙間から、部屋の中を窺うが人気は無く、静まり返っている。
どうやら二つのスイートルームは左右対称に作られているらしく、奥にあるホテルマンが閉じ込められていた部屋のベットルームが、入って左側にあるのに対し、此方の部屋は右側にある。クローゼットや他の家具なども、全て隣の部屋と左右対称に配置されている。
アリスは限界まで扉を開いて中に入り、『J』に頼んで扉が閉まらないように抑えて貰う。
「私が確認した方が良いのではないか?」
「いえ。誰かが侵入した様子もないですし、何かあったら声を挙げますので、そこで扉の番をしていて頂いていいですか?」
アリスは『J』に退路の確保を頼み、とりあえず一番近い位置にあるクローゼットを開けて中を確認して、続けざまにベットルームの中もざっと改める。さすがに死角に入るのは億劫なので、出入り口から中を覗くだけにしておいた。
そのまま廊下を進み、トイレや浴室、そしてかなり広いリビング兼ベットルームを見回すと、隣の部屋と隣接する壁に、一枚の絵が飾られてることに気が付いた。
正面階段の踊り場に飾られていたのは『テセウス』と『ミノタウロス』の戦いの情景であったが、此処に飾られているのは真っ白な雄牛。背後に小さく描かれているのはおそらくは海。
「——ポセイドンから授かった白い牡牛か?海が遠いのは、返還しなかった事の暗喩か……?」
雄々しくも優美な白い牡牛は、筋肉の付き方や肌の質感が繊細な筆遣いで描かれており、今にも動き出しそうな生命力を感じさせる。
だが、スイートルームに飾るには少々妙な絵ではある。これ単体では白い牛が描かれているだけの絵画であり、意味をなさない。上客が泊まる部屋に飾るには少々不向きだ。
「『М』さん。とりあえずは死者達の排除が済んだようだ」
考えに没頭していたアリスは我に返り、開かれたままの扉を見る。扉が閉まらないように体で押さえてくれている『J』越しに見える廊下は静かだ。
「……『J』さん。確かホテルマンを見張るために、隣の部屋に入った事がありますよね?そこに女性の絵が飾ってあったと思うのですが……」
「ああ。確かに男女の絵があったと記憶しているが……」
『J』は戸惑いながらも自分の記憶を思い起こして、身なりの良い男女の絵が飾られていたの事を思い出す。おそらくはその絵の情報が欲しいのだろうと、出来るだけ事細かに情報を伝える事にする。
「その女性の方は手に何か持っていましたか?」
「いや、何も持っていなかったと思う。……ただ、所見ではあるが、おそらくは身分の高い—―それこそ王と王妃を描いたものではないかと思うが……。なんというか……男の方は女の方を見つめているが、女の方はそっぽを向いていた」
—―その女が見ているのは、おそらくは白い牡牛。
「……そちらの部屋の絵画は、おそらくは『ミノス』と『パシパエ』。『ミノタウロス』は、『ミノス』の王が『ポセイドン』との約束を破り、罰が『パシパエ』に呪いとして降りかかった。結果として、『パシパエ』は白い牡牛との間に『ミノタウロス』を設ける事になった」
ここに飾られている絵画は、隣の部屋の絵画と対になる様に制作されている。いわば『ミノタウロス』が生まれる原因が描かれている事になる。
そこでアリスは、とあることに気が付く。
—―『ミノタウロス』とは、少年と歴代の生贄達の塊、どちらを指しているのだろうか?
『C』が隣の部屋の絵画を、『テセウス』と『アリアドネ』だと勘違いした事自体は仕方がない。『テセウス』もアテナイの王であり、『アリアドネ』も王女なのだから、高貴な身分と言える。
このホテルの名称が『ラビリンス』であり、正面階段に飾られていた絵画が『ミノタウロス』と『テセウス』の戦いを描いたものだったために、同じ作者の連作だろうと考えたのだろう。この作者は気に入った題材の絵を複数描く事で知られているので、『C』もそれを知っていたのだろう。
絵画には題名が表示されていないので、こちらの部屋に入って白い牡牛の絵画を見なければ、隣の部屋の絵の題材に気付かなくてもおかしくはない。
迷宮に閉じ込めらられた怪物、という点においては少年にもアレにも当てはまりはするが、そもそも少年は怪物ではない。彼の話を聞く限り、むしろ祭られる側の存在だ。
少年は思慮深く、公正明大であり、—―悪く言えば、人間という種そのものに優しく、個人に対しては興味が薄い。
そもそも屋敷が土に埋まったのは自然災害であり、少年には与り知らぬところだったが、人間側がそれを『罪』に対する『罰』だと判断した。
その結果の生贄ではあるのだが、絵画などを準備して、これだけの大掛かりな儀式を行うに当たって、下調べぐらいはしたはずだ。
少年が言うには、少なくとも最初の頃は下の屋敷と上の屋敷を同期させて、生贄を放り込むだけだった。それが徐々に儀式の体を取り始めて、今に至っている。
少年に対する認識のズレが起きたにしても、自分の家で祭る相手の情報が全くないという事は無い筈だ。紙の情報媒体、もしくは口伝で残っていてもおかしくはない。それなりに組織だった家系であり、今まで家を残して血を繋いできたのだから、全員が愚かだとは考えづらい。
—―途中で祭る相手を取り違えている事に、気が付いた者が居たとすれば?
気が付いた時には既に相手は手に負えないほど強くなり、本来祭るべき相手と同一視されてしまっているならば、混ざり合ってしまったそれを再び分けるのは難しい筈だ。
祟る相手を大人しくするためには、退治するか、長い時間祭る事で宥めるしかない。退治は容易な事ではない事を考えると、祭って祟られないようにするしかない。
得られる利益がどれほどのモノかは分からないが、少なくとも降りかかる祟りとやらは致命的なモノになるだろう。そうでなければ、このご時世に生贄なんて時代錯誤な真似をおいそれとできない。
少年は長い時を生きているせいか大らかで、悪く言えば大雑把すぎる上に、根本的な所で人間との価値観の違いが見受けられる。
彼は単純に祭る手段を間違えている、と考えている様だが、実際は人間側にはそれ以外の何らかの目的も含んでいる気がするが、情報が少なすぎてこれ以上は分からない。
—―『アリアドネの糸』が『ラビリンス』を脱出するための道標だとして、この部屋にそれに該当する者が見当たらない。
自分の推測が間違っていたのだろうかと、アリスは目の前に飾られた白い牡牛の目を睨めつけるしかできなかった。
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