第9話 発見

 三階に客が詰め掛けているせいか、他の階に人影はない。本来いるべき従業員達が軒並みいなくなってしまったのだから。

 スタッフの寮に通じる階段を下りながら、アリスはこの階段を通ったのが昨日の事のようにすら感じられた。遠くから僅かに聞こえてくる言葉にならない声が、先ほどの慌ただしさが現実の事だとアリスに知らしめてくる。

 未だに悪夢の様な現実だと実感しないまま、アリスは階段を降りきった所で反対側の客室前に転がっているであろう被害者の遺体の事を思い出し、立て続けに『L』と名乗った客の事を思い出した。


 アリスは目的地を変えて、遺体の傍に居るであろう『L』の元へと向かう事にした。アリスは彼にスタッフを探しに行くので近くで待っていて欲しいと頼んだ。怒涛の勢いで起きた出来事で失念していたが、もしも『L』が他人の言葉を律儀に守る人柄だった場合、まだそこに居る可能性がある。

 空気を読んで、自らの役目はお役御免だろうと部屋に戻っていたとしても、それをアリスが責めることは出来ない。実際に頼んだ張本人であるアリスがその事を忘れてしまっているのだから、無責任なのはむしろアリスの方だろう。


 ——そして、彼は融通が利かない律儀で真面目な性格だった。


「——長い事お待たせしてすみません」


 アリスが遺体のある廊下に戻ると、少し離れた所にある空きスペースに置かれたベンチで座り、布がかぶせられた遺体の方をチラ見する『L』の姿があった。おそらくは確実に死んでいると判断されたために、誰かが近くの部屋からシーツを持って来てかぶせたのだろうが、染み一つなかったはずの真っ白な布地がどす黒く染まっているのが遠めでも分かる。

 アリスの姿を見つけると『L』はすぐさま立ち上がり、小走りで駆け寄ってきた。周囲には『L』以外誰も居らず、三階に向かったか部屋に戻るなりしたのだろう。


「いえ。あの……上で誰か見つかったと聞いたのですが……」


「ええ。丁度こちら側の頭上にあるスイートルームでスタッフの一人が見つかったようです」


「……そうですか!」


 『L』の不安げな表情が和らぎほっと息をつく。何が起こっているか正確に分からないまま、この場にいた客が皆どこかへと行ってしまったようだ。一人っきりになるのは不用心としか言えないが、それでも周りに流される事なく頼まれ事を果たし続けた彼の不器用な律義さに、アリスは好感を持った。


「申し訳ありません。私も騒動で貴方に見張り番を頼んだことを失念してしまいまして……、恥ずかしながら先ほど思い出して確認をしに来た次第でして……」


「いえいえ。仕方がない事です。わたしもそうではないかと思ってはいましたが、どうも臆病な性格で、頼まれた事を中断する勇気が持てなかっただけでして」


 「よく、融通が利かないと同僚達にも苦笑されています」と『L』が申し訳なさそうに混じりを下げて苦笑を浮かべている。アリスも融通が利かないという言葉には同意はしたが、それでも自分の役割を全うしようとした彼に悪い印象など抱くことは出来ない。


「そんな事はありません。確かに融通が利かないと言えばそうなのでしょうが、死体を見張るという他の人が嫌がるような頼み事を、貴方は最後まで成し遂げて下さいました。どんな物事も受け取る側の思い一つで悪くも良くもなります」


 好意的に見れば、責任感の強い真面目な人。悪意を持って見れば、融通の利かない空気の読めない頑固者になる。

 アリス自身、絵に関して以外は自信を持てる事が思い当たらないために、時々自己嫌悪に陥る事がある。だがそれも、別の方面から見れば謙虚だと捉えらえる。


「たまに、マニュアル人間を悪く言う人がいますが、逆に言えばマニュアルがあればそれに沿って確実に動いてくれる、という事です。今はまともにマニュアルも読まずに自己判断で行動して、失敗をした挙句に他人のせいにする人も沢山いる。指示した通りに仕事をしてくれる人間も、集団行動を行う上では必要な事だと思います」


 アリスが素直に思った事を伝えると、『L』は目を見開いて固まってしまう。彼の反応に首を傾げたアリスが声をかけると再起動し始め、頬を染めてしきりに視線を動かしている。


「……すみません。あまり言われ慣れない事を言われたので、気恥しくて……」


 照れた様子で苦笑している『L』の様子に、彼を困らせた訳ではない事にアリスはほっとする。

 『L』の忙しなく動く視線から嫌なものを感じないのは、彼は本当に純粋に他人に褒められて嬉しいから。そして同い年ぐらいの同性相手に褒められて照れるのは、本当に褒められ慣れていないのだろう。


「いえ。私こそ失礼をしました。少し不躾な物言いをしてしまいました」


「いえいえ、そんな事は決してありません」


 お互い頭を下げ合ったところで、アリスの視界の隅に布が掛けられた遺体が入り、今の状況を思い出したので話を仕切り直す事にした。


「——話を戻しますね。スイートルームは施錠されており、私達の話し声が聞こえたらしく、中で暴れて助けを求めてきました。その場にいた方が消化斧を取りに行き、その際に他の客に事の次第が伝わった様です。ここから先は私は傍観者の立場でしたが、扉を斧で破壊して中に入り、件のスタッフを見つけたという次第です」


「他の方は上にいらっしゃるのですか?」


「はい。それなりに人数が居ましたので、後の事は皆さんにお任せして引き上げてきたところです」


 あの人数が一斉に部屋に押し掛けたあげく、一人に対して複数の人間が質問を浴びせかける様を眺めていてもしょうがない。明日にでも『C』か『D』か『I』を捕まえて事情を聞けばいいだけの事だ。彼らが部屋の中に入ったのは確認した。


「——ですので、『L』さんもご自分の部屋にお戻りになられてはいかがでしょうか。このままずっと遺体を眺めていても何も変わりませんし、夜も随分と更けています」


 アリスがそう伝えるの同時に『L』の肩の力ががくっと抜けて、ふらふらとよろけた。とっさに手を伸ばしたアリスを『L』が制し、壁に手をついて自重を支える。


「……大丈夫です。ご心配させて申し訳ありません。……事件現場の死体なんて見たことが初めてでして、ずっと緊張していたで力が一気に抜けただけです」


 「お恥ずかしい話、昔から血を見るのが苦手して……」と語る『L』の顔は先ほどよりも青白い。ずっと無理をさせていた事にアリスは罪悪感を覚えたが、『L』が大丈夫だと言うので彼が落ち着くのを待ち、彼の体調が落ち着いてから共に各々の部屋へと戻っていった。


 アリスは眠るのが遅かった事と、極度の緊張のせいで眠るのに時間が掛かったせいで、癖づいたいつもの時間に起きる事が出来ず、姪に声を掛けながら体を揺さぶられて目を覚ます事になった。

 ベットの上で上半身を起こしてはいるが、睡眠不足と無理矢理起こされたために頭が重く、意識がはっきりとせずにぼんやりとしたアリスは目の前にいる少女のを顔を見て、反射的に「おはよう」と口にする。

 夢と現の狭間をゆらゆらと揺れるアリスの様子を見て、少女はすぐさまインスタントコーヒーを入れる事にした。

 漂ってくるコーヒーの香りがアリスの覚醒を促し、差し出されたカップを受け取り、湯気が立つコーヒーで火傷しない様にそっと口を付ける。じんわりと口の中に広がるコーヒーの味にアリスは僅かに顔を顰めた。


「お砂糖が無い方が目が覚めるかと思いまして」


 アリスはどちらかと言えば甘党で、コーヒーは好きではあるが砂糖とミルクを入れて飲む。なので頭の中のイメージとのギャップに混乱してしまう。実際にガツンと来た苦みがアリスの意識をはっきりとさせてくれたのだが、口の中に残る旨味の少ないインスタントコーヒーの苦みに耐える。


「——何かあったのか?」


 アリスが昨晩戻ってきたのが遅い事を知っている少女が、らしくない方法でアリスを起こしたという事は何か異変があったいう事だ。

 ベットの脇でアリスの顔を覗き込んでいた少女が体を離し、扉に近い方のベットに腰かける。


「——ええ。異常事態です。窓の外を見て下さい」


 カーテンが開け放たれたガラス壁の向こうは、黒の絵の具を直接塗りたくったかのように真っ暗だ。逆に黒すぎで違和感が酷い。


「……今は何時だ?」


「午前十時です」


 日の出はとっくに迎えているにも拘らず、窓の外が黒い。暗いのではなく黒い。外光が差し込む事はおろか、室内の光が外へと全く届いていない。ガラス一枚隔てただけで全ての光が遮断されている。


「本当はもっと早い段階で気が付いていたのですが、叔父様を起こすの憚られたので出来るだけ寝かせて差し上げたかったのですが、どうやら外で客が騒いでいるようです。一応は部屋の主である叔父様が顔を出した方が良いかと判断しました」


 少女は自分が座っているベットの上に置いてあったアリスの着替えを手渡した。それを受け取ったアリスは残っているコーヒーを全て飲み干し、着替えのために少女の横を通り過ぎて浴室へと移動する。


「叔父様。着替えながら聞いて下さい。まず、叔父様を起こす前にいったん部屋の外の様子を確認してきました」


「……そうか」


 昨晩はアリスは散々単独行動を行っていたために、彼女の外出を責める事が出来ないが、それでも今後は気を付けて欲しいとは思う。


「やはり従業員スタッフの姿はなく、すでにご遺体を地下の貯蔵室へと移動させたそうです」


 往来のある廊下に遺体を放置するのは、精神衛生上も清潔を保つという意味でも放置するのは宜しくない。幸いにも救急患者の担架があったので、放置反対の有志がそれに乗せて移動させたそうだ。

 部屋の前を死体に陣取られている人達はその有志達に感謝した事だろうなと、アリスは手を動かしながら話を促す。


「そうしたら、地下貯蔵庫が良く分からない穴——洞窟があったそうです」


「——洞窟?」


 見取り図では貯蔵庫はそれなりの広さがあったが、行き止まりの部屋だけだったはずだ。


「私も気になったので、丁度それを確認したいと言った人達と一緒に確認だけしてきました。部屋の中は煉瓦の壁でかなり涼しかったです。今は使われていないのか物は殆どありませんでした。貯蔵庫の奥に鉄製の扉があって、開いた状態で、その奥は地面を掘って支柱と梁を建てた感じの洞窟がずっと奥まで続いていました」


「……まさか、誰も奥へと行っていないだろうな?」


「さすがに皆さん一目見てやばいと思ったのか、すぐさま立ち去りました。……なんだか、こう……じめっとした、嫌な感じの空気が漂っていましたから」


 さすがに未確認の洞窟へ、何の装備も無く突撃するような馬鹿はいなかったようで、アリスは心底ほっとした。

 着替え終わったのでアリスが浴室から出てくると、少女は視線を向けてくる。異常事態にも拘らず、少女は酷く落ち着き払っており、他人からすれば彼女こそ異常なのかもしれないとアリスはふと考えたが、それを口にする事はしない。


「……それで一番の問題は、見ての通り真っ暗闇で外の様子が全く分からないという事です。インフラの類は今の所は無事の様です。一応は自家発電機と地下水を汲み上げるポンプもあるそうなので、よほどの事がない限りはその辺りは大丈夫かとは思います」


「……とはいえその地下水のポンプも電気で動くわけだろうし、どっちにしろ電機が無くなるとまずいな。もちろん食糧問題もあるわけだが……」


 上水道もそうだが下水道の方はどうなっているのだろうかとアリスは首を傾げるが、今のところは使用可能らしく一安心だ。


「一応は聞くが、その真っ暗闇に挑む挑戦者はいたのか?」


「挑戦は失敗の様です。そもそも扉が全く動かないそうです。何と言うか扉を固定でもされているというか、向こうから押さえつけられているみたいにビクともしないそうです。破壊も不可能だったそうで」


「挑戦失敗というよりは、試す前に終わっているな」


 昨晩のスイートルームの扉の破壊の様子が浮かび上がり、アリスは自分がいらぬ引き金を引いたのではないかと自己嫌悪を感じてしまう。そもそも破壊行動自体が最終手段だと昨晩に言ったはずなのだが、非日常の空気が人々をおかしな行動へと導いているのだろうかと、アリスは軽い頭痛を感じた。


「つまりは当面は異常を察した、外部の誰か助けに来てくれるまで待つしかないという事になるな」


 インフラが保たれているのであれば、最悪水があれば人間は三週間ぐらいなら何とかなるという話もある。食料も調理する人間はいないが、冷蔵庫も冷凍庫も稼働しており、食料は十分にあるそうだ。


 ——だが、あくまでもそれは短期間で迎えが来るという前提での話。


 もしかすればそれ以上の期間を、此処に閉じ込められて生活しなければならないかもしれない。

 最低限のインフラ設備が整っているのは感謝しているが、こうなってくると面倒になってくる原因は人間だ。

 アリスが思いつく事など、他の宿泊客達とて思いついている筈だ。


 ……いつだって、一番恐ろしいのは人間だ。


 確かに今起きていることが非日常の超常現象ではあるが、大概の人間は人生で体験する災いは、天災か人災——自然現象か人間が起こす現象のどちらかしかない。

 今の状態では早々に精神が駄目になる人間が出てくる。ホテルがそれなりの広さがあるとしても、密室空間に複数の人間が閉じ込められている状況。すでに犠牲者らしき人間がいる状況下では、精神の摩耗速度はさらに早い筈だ。


 ……とるべき行動は、部屋に籠城するか、大きな部屋に宿泊客と立てこもるか。


 どちらの行動をするにしろ、今の状況を把握するためには動かなくてはならない。特に年若い姪を守らなくてはと、アリスは拳を強く握りしめた。

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