第17話 少年
『C』達と別れて部屋に戻ったアリスがソファーに座って大きく息をつくと、それを労わるために少女が紅茶を差し出してくれる。
彼女が入れてくれる紅茶は、茶葉は市販されているものでも、同じようにアリスがが入れた物よりもずっと美味しい。アリスも習った通りに入れているし、客に出しても問題のないクオリティをしてはいるが、それでもやはり少女が入れてくれた紅茶は香り高く渋みが少なく飲みやすい。
「ありがとう。……しかし……これからどうしたものか……」
宿泊客達に出来る事は、集団で籠城でもして身を守るぐらいだ。けれど『B』の部屋は閉ざされていたにも拘らず、二人とも居なくなってしまった。
「本当に怪物が居るかどうかは置いておくにしても、どうやってここから逃れればいいのか」
「……それなんですけれど、本当にここは私達が居たホテルと全く同じ場所、なのでしょうか?」
少女はアリスの向かって正面のソファーに座り、自分の分の紅茶に砂糖とミルクを注ぐ。紅茶の透き通った赤みがかった橙色の中を乳白色がゆらゆらと漂い、匙によって混ぜられ溶け合って、明るい灰みの茶色と変わる。
「確かに客室にいる全員を移動させるのは難しいとは思いますが、建物全体を壁で覆うのと、どちらが難しいのかといわれれば、前者でしょう?」
「まあ、こんな不可解な状況下では、どっちもどっちだとは思うが……」
アリスは真っ黒なガラスの向こう側を横目で眺めながら、カップを口元に運ぶ。ふわりと温かい湯気と香りが不安を和らげてくれる。
「どっちにしろ出られないのは確かだ。となると一抹の希望に賭けてみる人間が出てくるだろう」
「……もしかして地下貯蔵庫の穴ですか?」
「ああ——、少なくとも壁の向こう側に伸びてはいるしな。もしかしたら昔に作られた緊急避難路や防空豪の可能性もある。調べてみる価値はあるだろうが……」
「駄目です」
地下貯蔵庫の穴を見た時の事を思い出し、渋い顔をするアリスに少女が間髪入れずに反対を強く主張してきたので、アリスは驚いて目を瞬かせながら少女を見る。
じっと見られている事が気恥ずかしいのか、少女は前のめりになっていた体を元に戻し、視線を紅茶の水面へと向ける。
「叔父様はあそこへは近づかない方が良い。きっと、飲み込まれてしまいます」
少女の言葉は何の証拠も無いのに酷く確信めいており、本気でアリスの身の心配をしているのが分かる。いつもであれば心配のしすぎだと苦笑して終わりなのだろうが、一度あの穴の前で前後不覚に陥っているために、一概に切り捨てることは出来ない。
「——ですが横が駄目であるのであれば、上を目指してみるのもありかもしれません」
「上……?」
「ええ。今の所確かめたのは、開閉できる扉と割れてしまったガラス壁の向こう側だけです。扉が開閉できないのは壁に塞がれて動かないからでしょう。横が駄目ならば、上はどうでしょうか?これだけ広い屋敷なのです。屋根裏部屋の一つや二つがあってもおかしくはないと思うのです」
「……そういえば、スイートルームの中はちゃんと調べていなかったな」
アリスは他の人間に任せてしまったために、一度もスートルームへと足を踏み入れていない。最初に何か客室とは違う物がある可能性を示唆したのは、アリス自身であったことを今更思い出した。
「……そういえばホテルマンの見張りの交代要員はどうなったんだろう。それを話していた『C』が風評被害で動けなくなってしまっている」
率先して動いていた『C』が籠城体勢に入った状態で、代わりに他の客達を先導する人間が居ない様に思えた。
「まあ、疑心暗鬼になっているのは確かですし、かといって『C』さんを矢面に立たせるのはちょっと憚られます。……そういえばもう一人いらっしゃったのでは?」
少女の問いかけにアリスは静かに首を横に振った。
「『I』さんは確かに率先して動いてはいたが、それらはすべて他人に先導された結果だ。自分で考えて動くのは苦手なんだろう。実際に『C』さんの後をついて回っていたし、誰にでも思いつく事だとしても、扉を壊すという意見も元は私が口にしたモノだった。だから他人の意見に良くも悪くも従順なんだろう。あの場には『C』さん以外に人々を引っ張っていく気概のある人間は、私も含めていなかった」
『I』の在り方が悪いわけではない。自分出来る事と出来ない事を見極めて、サポートに徹する。先頭に立つ人間が居れば、それを支えるために後ろに立ち俯瞰して物事を見る人間も、集団の手足として率先して動く手足も必要だ。
——適材適所。
無能な働き者が一番迷惑なのは何処でも変わらない。無能であるならば、自分が一番マシにできる事を、失敗したとしても補える状況で、集団の一員として行う方が良いに決まっている。
とはいえ、これはあくまでアリスの意見であり、他の人間は別の意見を持っているだろうし、その無能と呼ばれた当人にだって意見はある。
後はどれだけ妥協し、譲歩して、先頭を行く人間が上手く彼らを誘導して動かすかによる。
生憎とアリスは先頭を走れるほど、能力的にも精神力の強さも不十分だ。誰かの人生の責任を終えるほど強くはない。だから教師の様だと言われても、自分には誰かを導いてあげられるほどの力など無いのだと、心の中で自嘲するしかできない。
「まあ、もしかしたら私のように、他人に任せられるのであれば任せる様な、怠け者の優秀な人間はいるのかもしれないし、後は当人達に任せるしかない」
遠巻きに『C』を見る者達の視線が、アリスには不快でならなかった。
本人は何も悪くないというのに、被害者だというのに、まるでお前が悪いのだと言いたげないくつもの視線が、一斉に一人を責め立てる。
集団生活の悪い部分、といえばそうなのだろう。人数の多い方へと傾いてしまうどっちつかずの人間。
アリスはああいった手合いの視線が苦手だ。
——子供にだって自我はあるし、大人の想像以上に聡い。
かつては子供だったとしても、大人になればそれを忘れてしまう。子供は言うほど愚かではない。ただ善悪の区別が分からないだけ。良くも悪くも無垢なだけ。そしてそれを教えるのが親の役目だろう。
けれど大人になればそうもいかない。どうするかの判断は本人にゆだねられる。何が正しいのか、何が間違っているのか。正しい答えがあるとは限らなくとも、答えを選ばねばならない事は幾らでもあるのだから。
時計の針だけが時を教える手段となり、それでも出来るだけ平時と変わらないように心掛ける事で精神の安定を保とうとしていた。
平時よりも多少のズレはあるが、朝には身支度を済ませたアリスはとりあえず朝食をとらなければと考えていた矢先、再び騒動が起こった。
部屋の前を乱暴な足音がバタバタと通り過ぎていくのを聞きつけて、アリスは扉に駆け寄り、ドアスコープから廊下の様子を覗いた。だがすでに足音の主はとっくに通り過ぎてしまい、全く状況がつかめない。
それから遅れて二人が通り過ぎていったのだが、咳やくしゃみを繰り返し、顔を顰めて涙を流しているのが確認できた。
ただ事ではないという事だけは分かったため、アリスはとりあえずは部屋を出て『L』の部屋へと向かう事にした。
アリスが部屋の前に立つのとほぼ同時に、勢いよく扉が開いたので思わず後ろへ一歩下がる。扉の中から出てきた『L』が狼狽した様子でアリスへと詰め寄る。
「『М』さん!姪御さんと『C』さんは部屋に戻っていませんか?」
「……い、いえ……戻ってきていませんが……そちらの部屋に行くと聞いていましたが……」
アリスは低血圧なせいか寝起きが良くない。時間通りに起きられるので朝にはすっと目が覚めはする。必要であれば無理矢理覚醒もするが、平時は目を覚ましてからしばらくの間はベットの上でぼんやりとしている事が多い。
今朝もぼんやりと時計の針を眺めているアリスに、少女は隣の様子を見てくると言って部屋を出ていった。
単独行動が危ないとはいえ、隣室に行く事すら禁止するのはさすがに過剰になりすぎだろうと、ちゃんと声をかけてから行くようにとだけ伝えてある。
「すみません。実は朝食を作りに行くからと『C』さんと一緒に厨房へ。最初は私がの行こうかと話したのですが、姪御さんが気分転換も兼ねているので自分が行きたいと仰いまして。正直わたしは殆ど料理が出来ませんし……。さすがに一人で行かせるわけにはいかないからと『C』さんが向かいました」
元々部屋を移動したのは、もしかしてアルファベット順に事が起きているのでは?という疑いによるものだ。ならば少女と『L』さんが部屋からいなくなっては宜しくないのでは?と考えての事。出来れば大人しく部屋に戻ってアリスに声をかけてくれればいいというのに。
「『М』さんが少しでも長く寝れるようにといっていましたので、彼女を叱らないであげて下さい」
アリスのスランプによる寝不足の方は気にならなくなったが、異常事態で眠りが浅く、夜中に何度も起きては寝てを繰り返している事に少女は気が付いていた。スランプによるストレスで交感神経がおかしくなって、ほとんど眠れないよりはずっとましではある。
なので少しでも寝かせてあげたいという親切心から来るものらしく、アリスも怒るに怒れない。
「——とりあえず私が様子を見てきますので、『L』さんは『D』さんと部屋で待っていてください。とりあえず最大三十分で戻ってきます」
留守番を頼むと『L』は頷いて「お気をつけて」とエールを送って部屋へと引っ込む。『L』は少々合理主義的な所があり、アリスと『L』のどちらかが動くか、『D』を含めて三人で動くのとどちらが良いかと考えた結果、体調不良で未だにベットで眠っている彼女を起こすのも忍びないし、体調不良が悪化するリスクを考えると、これが一番手っ取り早いと判断した。
単独行動に関しては多少は仕方がないと考えてもいる。故に言い合いをして無駄に時間を喰う事を避け、早急に少女たちの安否の確認を最優先した結果、不安そうな顔をしながらもアリスを見送ってくれた。
騒動の原因が分からないし、迂闊に出会った客相手に尋ねる事も憚られる状況ではあったが、アリスは人目を避けて最短距離で厨房へと向かった。
だが、その厨房内に少女と『C』の姿は見当たらない。もし彼女が朝食を作ったとしても、片付けなどはきっちりして立ち去るだろうから、来たかどうかの判別はつかない。
どうしたものかと悩みながらアリスは厨房周辺を探索してみた。手がかりがないのでとりあえずは周辺を調べるしかない。
そうこうしている内に、地下貯蔵庫近くの廊下までやってきてしまった事に気が付き、早々に離れてしまおうとしたが、地下へと通じる扉が僅かに開いているのを見て、アリスは嫌な予感を覚えて顔を顰めた。
それほど時間は経ってはいないが、早々にその場を後にして『L』の部屋へと戻ると、足音を聞きつけた『L』が扉を開けて、アリスの姿を捉えてほっとした様子で手招きをした。
何事かとアリスが首を傾げてながら部屋へと入ると、先ほどまで探していた少女と『C』の姿そこにはあった。二人はアリスと視線が合うと、申し訳なさそうに頭を下げて謝罪を口にする。
「心配させてしまったようで、ごめんなさい」
「……手間をとらせて、すみません」
先に少女が立ち上がって頭を下げ、それに続いて『C』が続く。
「いえ。二人が無事ならそれで良いので、頭を上げて下さい」
アリスが息を吐いてからそう告げると、二人は顔を上げてちらりと見合うと、ほっとした様子で再び着席をした。
「あの……、とりあえず食事にしませんか?」
テーブルの上には蓋の付いた長方形のピクニックバスケットが置かれている。柳で編まれた籠は風情があり、子供の頃に児童文学の挿絵で見たような形をしている。少女が徐に留め金を外して蓋を開くと、中にはサンドイッチが山の様に盛られた皿が置かれている。
シンプルに生野菜とハムやベーコン、卵とマヨネーズをあえた物、野菜だけの物、果物だけの物まで、様々な種類のサンドイッチが並んでいる。
「これなら好き嫌いにもある程度対応できますし、皆さんアレルギーは無いと仰っていましたので」
「具材を切って、ソースをつけて、パンにはさむだけなら俺でも手伝えるし」
この部屋にあったポットが空だったので新しいお湯を注いできたので、『L』が率先してお茶を入れて全員に配った。
食事の時間に事を荒立てるのも不本意なため、アリスも大人しく「いただきます」と口にした。
食事がひと段落すると、今朝の騒動の原因が『C』の口から語られる事となった。
「朝食作り終えてバスケットに入れて持って行こうとした時、なんか地下貯蔵庫の方が騒がしくなったんです。また事件か、もしくは遺体が無くなっている事に気が付いたのかと思って、俺が顔を出すと碌なことにならない気がしたんで、姪御さんが遠くから様子を窺ってきてくれたんです」
少女が一人厨房を後にした後、『C』はすぐに外に飛び出せる位置で待機していた。すると少ししてから騒がしい音が聞こえてきて、すぐに少女が戻ってきて扉の中に飛び込んできた。
荒々しい集団の足跡が通り過ぎていき、厨房から出て気配を忍ばせて部屋に戻ろうとすると、謎の粉をまき散らせた涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃの二人が通り過ぎた。
彼らは口々に「何で煙が」「白い子供」「逃げた」「何か知っているに違いない」と言っているのが聞こえてきた。
念のために人目につかない通路を通って、職員用の階段で二階に上がってきたので、無駄に時間が掛かってしまったとの事。
何が起きたんだと首を捻る『C』と『D』と『L』をよそに、何となく心当たりが付いてしまったアリスはそっと少女の方を見る。
少女は先ほどと同じように申し訳なさそうに笑ったが、それが心配をかけた事にたする物では無い事にアリスは気が付いていた。
食事を終えていったん解散して、部屋に戻って施錠をしてからアリスは少女に事情説明を求めると、彼女は視線を彷徨わせたが、すぐに観念した様子で口を開いた。
「地下貯蔵庫に、白い髪の少年が居ました」
「そうか、やはりいたのか。……それでどうして彼らはあんなに殺気立っていたんだ?」
異変を感じ取った少女は声の方を調べに向かった。もちろん周囲の気配には気を配り、何かあったらすぐに逃げるつもりではあった。
どうやら騒ぎは地下貯蔵庫の方で起きており、よくない予感がして中を確かめるのを躊躇ったが、幾つもの声の中に聞き慣れない声がある事に気が付いた。
地下への階段を降り、貯蔵庫の扉をそっと開くと、今度ははっきりとした少年の声が響いてきた。
「この先へ行ってはいけない。危ないから引き返すんだ」
確かに少年の声だというのに酷く老成して聞こえ、抑揚が少なく淡々としている。けれどその声は貯蔵庫中に響き渡っていた。
「月が欠ければ、ここから解放される。だから大人しく息を潜めて隠れるんだ」
感情の少ない声ではあったが、それでも少年が必死に訴えている事は少女にも分かった。
その場にいた宿泊客は、得体の知れない少年の存在に怯えて、力づくで押さえて排除しようとしているのが分かった。そのまま少年が暴力を振るわれるのを放置している訳にもいかずどうしようかと悩んでいると、貯蔵庫の天井に煙感知器と消火設備が付いている事にも気が付いた。
「……なるほど、何となく予想が付いた」
「噴き出した消化用の粉に驚いている隙に少年が逃げ出してきたので、鉢合わせにならない様に一階の扉のある階段前まで戻りました。そして少年が通り過ぎたのを確認してから、持っていた防犯スプレーを扉の向こうに振りまいて、扉を閉めてからすぐに逃げました」
一階と貯蔵庫の間にある階段は、煉瓦に囲まれた空間は密封された状態で、そこに漂っている防犯スプレーの唐辛子成分を思いっきり吸ってしまったのだろう。
「確かに少年が逃げる時間を稼げたのかもしれないが、そこまで追い打ちをかけなくとも……」
とそこでアリスは目の前の少女が、少年に暴力をふるおうとした客達に対して怒っている事に気が付いた。
少女は確かに心優しいが、弱いもへ振るわれる暴力は嫌いだと断言している。
方法はどうであれ、少女は少年を救いたいと思い、咄嗟に行動してしまったのだろう。おそらくは、そう思うほどに少年は弱々しかったのだろう。
乱暴な方法をとってしまった少女の判断が正しいかは分からない。それでも彼女の他者を思いやる気持ちを、アリスは大切にして欲しいと思った。
「——そうか。……少しやり過ぎたことは反省するように。——だが、誰かを守ろうとしたのは間違っていない。いい子だ」
アリスはかつて少女が幼かった頃にしたように、彼女の頭を優しく撫でながら賛辞を贈る。気まずそうに苦笑を浮かべていた少女は、花が綻ぶように美しい笑顔を見せてくれた。
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