035 新しい僕たちを、

   ◆◆◆


 目的地を後にして、車はもっと先へ進む。我が家から、更に遠ざかる。北東を目指していく。


 すれ違う車はなく、歩く人もほとんどなく、ただただ殺風景な一本道が続く。まるで世界が終末を迎えたみたいな静寂が漂う土地だった。少しだけ空いた窓から波の音だけが聴こえる。


 谷川たにかわがどこへ向かっているのかは、谷川のみぞ知る。進行方向の右側、延々と配置された防波堤の向こう側にも海はあるのだろうが、車の中からじゃ見えない。かすかに聴こえる波音でのみ、存在を認知し得る。谷川が見せたい海は、そこにあるそれじゃないのか。


 十数分、走り続けた頃、唐突に、あちゃあ、と谷川が声をあげた。僕は前方を見やった。


 そこには、『車両進入禁止』の看板が立っていた。


「まじか。ついてないねえ」


 ため息一つ、谷川はブレーキをゆっくり踏んで、車を止めた。エンジンはかけたまま、ハンドルに両手を置いたまま、深呼吸を挟んで、


「……この先は、二人で行きな」


 僕らは呆気にとられてしまって、すぐには返事が出来なかった。


「海を一望できる絶好のスポットがあるんだ。そう遠くないから、歩いてでも行けるさ」

「……いや、でも」

「いーから、行けよ。この道を真っすぐだ。ほら、臥待ふしまち。降りな」


 言われるがまま、くるみは車を降りた。


 対して、僕は躊躇していた。谷川の思惑が理解できなかった、というのもある。思い付きで言っているにしては投げやりすぎる提案だし、説明が欲しかった。


 けれど、それ以上に、だ。……正直言って、僕自身、感情の整理がまだついていない。くるみと二人きりになる準備ができていなかった。彼女と海を見ても、きっと何も言えない。それが怖い。だから霊園を出てから現在まで、谷川や椎名しいなの存在に、ほんのちょっと安心していた。


 そんな僕の臆病さを、谷川は見透かしていたのかもしれない。


暁月あかつき

 谷川が、僕の目を真っすぐ見て、名を呼んだ。

「私は、どうしても連れてきたかったんだ。臥待は勿論、お前も、だよ」


 どこに? という疑問が浮かぶ。くるみの母親が眠る地に? 


 それとも──。


「母親に会いたい、って臥待に言われたとき、私は腹を決めたんだ。行ってこい」

「……すまない、意味がよく分からん」

「つまりだ。ちゃんと、話してこい。ケリつけてこい、ってこったよ。お前の気持ちと、臥待の気持ちに、だ。それに……私はこっから最後の仕事があるんだ」

「仕事って、なんの──」


 谷川は質問を無視して、僕の身体を押して、無理やり車から降ろした。


 車内には、谷川と椎名だけが残った。谷川はハンドルを握ったまま、まっすぐ前を向いている。椎名は後部座席に座り、俯いていた。その表情はどこか、受け入れがたい現実に必死で抗うような哀しみを孕んでいるように見えた。


 そして、僕はさきほどの彼女のセリフを思い出す。


 最後の願い。椎名は、そう言った。


 だから僕は急いで、車へと駆け寄った。後部座席の窓を二回、叩く。


 すると、椎名の視線がこちらへと向いた。


「まさか、椎名……」そして、彼女と目が合う。「最後って、お前……」

「そういうことだけちゃんと聞いてるのですね、ああたは」それから、「ええ。ここでお別れです。暁月日々輝ひびき、臥待さん」

「どういう……こと…………?」


 背後から、くるみの声がした。


「この旅の目的はもうひとつあったってことですよ、臥待さん」


 椎名は告げる。


「わたくしの逃避行、です」


 谷川の表情を窺う。そいつは真顔のまま、ただ遠くを見つめていた。否定するつもりもないらしい。椎名に視線を戻す。彼女も、真剣な表情のまま。冗談や嘘の類ではないみたいだ。


「全員を救うには、まあこれしかねーと思ったわけさ」谷川は遠くをみつめたまま、「椎名留名を安全な地に逃がすこと。それが、唯一にして絶対の解決策だよ」

「まって、」か弱い声が聴こえた。くるみの声だ。「まってよ、先生。……なにそれ」

「あの地で椎名はデカい騒ぎを起こしちまった。となれば、S2CUエスツーシーユーが調査を始めるのも時間の問題だ。もしかしたらもう始めてるかもな。そうなれば、椎名の安寧は今度こそ完全にブチ壊れるだろうよ。そうさせたくねーからさ。椎名のためにも、まあ先生の保身のためにも、証拠隠滅、ってわけだ」


 振り向く。くるみは唇を震わせていた。何か言おうとして、でも言えなくて、苦悩の念を顔に滲ませて、じっと立ち尽くしていた。


「いいか、臥待」そして、谷川は言う。「平穏とは、秘めごとを貫くことで保たれる」


 それは懐かしい言葉だ。それでいて、骨の髄まで染み込んだ僕の信条でもあった。


「つまるところ、浮気はバレなきゃ浮気じゃない理論さ」


 そう言って谷川は、ゲスな物言いとは裏腹に、はるか昔に見たそれと同じ表情を浮かべた。


「そういうわけです、臥待さん」次に言葉を発したのは、椎名だった。「楽しかったです」

「そんな……いやだよ…………留名るなちゃん」

「ワガママ言わないでくださいよ。わたくしはもう決心したのです」


 椎名の堅い決心に抗えないと思ったのだろうか。くるみは何も言わなかった。

 代わりに口を開いたのは、椎名の方だった。


「こんなことになって、すみませんでした。せっかく、わたくしたち仲良くなれましたのに。臥待さんがカラオケに誘ってくれたこと、わたくし忘れませんから」


 それから、


「一生、忘れませんから」


 その言葉の重みが、僕には痛いほど分かった。


 僕たちはミアキスだ。不老不死だ。永遠に死ぬことのない生命体だ。その命が尽きることはない。その生涯を終えることなどできない。


 だから、彼女にとっての「一生」は「永遠」と同義だ。


 谷川の車は緩やかに走り出した。僕とくるみをこの場において、椎名を乗せて、どこかへと行ってしまう。くるみは車の後を追うように、弱弱しく足を動かす。二歩、三歩進んで、しかし立ち止る。車の速度に追いつけやしないことを、すぐに思い知らされたのだろう。


 走り去る車と、それを目で追いながら呆然と立ち尽くすくるみの背中が、視界の中にある。


 すべてが終わってしまったことと、なにも解決できなかったこと。それどころか、いろんなものを失ってしまっただけの事件が、幕を下ろそうとしていた。


「……ははっ、おかしいな。おかしいよ、パパ」


 くるみが肩を震わせていた。


「こんなことになったのに、私、泣けないや」


 僕は、それを見ていることしかできなかった。


「たぶん、泣きすぎたんだ。……こないだから、私、泣いてばかりだから。涙も枯れちゃった。……最悪だよね。いちばん大事な時に泣けないんだ、私。自分のためには泣けるのに、留名ちゃんとの別れでは泣けないなんて……」


 これで、すべてに片がついた。僕たちの生活を脅かす存在を退けた。また平穏の日々に戻ることができる。週が明けたら、卒業の時がくるまで僕は高校生に擬態して過ごし、くるみは一度きりの青春を謳歌する。そういう日々が、これからも続くだけだ。


 続くだけ。繰り返すだけ。これまでと何も変わらない毎日が────


「………………」


 ────変わらない毎日?


 なにを言ってんだろう。これまで通りなんて、無理に決まっているだろう。


 僕たちの平穏は、もう壊れてしまったのだ。


 十二年間の秘めごとが暴かれてしまった。くるみの母親の真実も、くるみの正体も彼女は知ってしまって、その先にあったのは母親との死別と、友人との別離だった。そのどこにも救いはない。喪失だけが残されて、涙さえ枯れ果てて、つまり僕たちの十二年間の終着点は、絶望の底だったわけだ。


 見事なまでのバッドエンド──しかし、それでも人生は続く。僕たちの生活は続く。


 そうだ。続いてしまうのだ。僕たち二人の生活は、ここで終われないのだ。


「なあ、くるみ」


 だから、僕はこの絶望から這い上がりたい。くるみを絶望の底から救い上げたい。


 いまこの瞬間も続いている僕たちの時間を、壊れたままの平穏を、そのままになんてできないんだ。くるみはどう思っているのだろう。明日は笑っていたい、って思っているだろうか。だったらいいな、と祈る。ならば、僕はあがくことができる。


 十二年間、これまで保たれてきた平穏がぶち壊れたならば、


「君と、話したいことがあるんだ」


 僕たちの毎日を、新しい形で作り直そうよ。


 それは僕の願いであり、きっと谷川の祈りでもあったんだろう、と思う。


 なぜそう思ったか、だなんて馬鹿げた自問だ。頭上でぐるぐると回る光が、その答えだ。


 谷川は、僕たちをここへ連れてきたかったという。つまり、まんまと誘導されたんだ。


 くるみがこちらを向いた。僕は『車両進入禁止』の看板に目をやる。その横に、人ひとり分の幅の歩道を見つけた。行こう、とくるみにアイコンタクト。彼女は、無表情のまま、肯いた。


 抜け道のような歩道を歩いてほどなくして、森の入口のような場所に突き当たった。木々の隙間に、木造の階段がある。その脇に、案内看板があった。


 海を一望できる絶好のスポット、とはその看板が示す地に違いなかった。


 一歩踏み出して、階段を上がった。くるみも後に続いた。


 それから、案内看板に書かれた文字を、まんまと谷川に誘導されたその場所の名前を、


『この先、猫啼岬灯台ねこなきみさきとうだい』。


 僕とくるみが出会った場所の名を、頭の中でなぞった。




 暗闇の中を僕らは慎重に進む。靴の裏に、土の感触。木々のざわめき、風が通り抜けていく音。後ろから、くるみの呼吸音。正面から、わずかに聞こえる海の声。そいつに気を取られて、階段に躓いた。刹那、背後のくるみが、僕の背中を右手で支えた。


 背中を触れる彼女の右手。それがゆっくりと、僕の左肩まで撫でるように優しく動く。


 そのまま、くるみの手は、左肩から腕を伝って、僕の左手に触れた。

 左手のひらを、彼女の右手のひらが包み込む。

 僕も、それに応じた。


 綻んだ過去を抱えたままの僕らは、同じ歩幅で、同じ呼吸で、頂上を目指した。




 森の真ん中に伸びた階段を上り終えて、視界が開けて、そこが灯台の麓だって気づいてすぐ、その先に広がる雄大な海原が出迎えてくれたものだから、僕らは息をのんだ。


 世界が終末を迎えたような静寂の先、一本道の到達地点は、まるで世界の果てみたいだった。夜が覆う真っ暗闇の中、延々と海が続いている。陸地は到底見えない。ならばやはり、ここが陸の最果てなのだ。まさかそんなことは無いって知ってはいるけど、世界地図を見たことがあれば、こんな戯言をバカバカしいと一蹴できるけど、今はそういうことにしておきたい気分だった。それくらい、果てしない光景だった。


 僕の左手は、まだ、くるみの右手と繋がっている。長い時間繋がりあっていると、互いの皮膚の境界線が曖昧になる錯覚に陥る。でもちゃんと僕らは別の個体で、それぞれに意思があって、手を握り合っているのだ、という確認作業のように、僕は親指でゆっくりくるみの手の甲をさすった。呼応するように、くるみは握りしめる力を少しだけ強めた。


 だから、僕はなけなしの勇気を奮い立たせて、くるみに向き合った。


 バッドエンドのその先に、ハッピーエンドを作り出したい。幸福で平穏な君との日々をやり直したい。このままじゃ終われない。そもそも終わりじゃない。


 むしろ、ここから始めようよ。僕たちの出会いの地で、新しく出会いなおして、そして、


「なあ、くるみ────」


 新しい僕たちを、作り上げよう。

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