036 盛大に暴いてくれ。

   ◆◆◆


『お前ら親子も、先へ進むべきなんじゃないか、って思っただけだ』


 目的地へ向かう途中、立ち寄ったサービスエリアの喫煙所。そこで谷川たにかわは言った。


 相変わらず、谷川は腹の底が見えない。その発言だって、どういう意味があるか、最初は分からなかった。彼女は視線を遠くに向けたまま、続きを言う。


暁月あかつき。お前こないだ、あと三年の使命だって言っていただろ。その時に、先生は思ったんだ。なるほど、お前は臥待ふしまちとの日々を「任務」だと思っているんだな、ってさ。ま、最初はそういう約束だったな。臥待の保護期間は、高校卒業まで。それ以降は、彼女自身の人生を歩ませてやろう、と。なんというか理解ある大人の判断だ。いまでもそれは正しいと思うぜ』


 刀の男の襲撃事件から一か月後、谷川とした会話を思い出す。あと三年の使命、確かに僕はそう言った。さらに、その役目を果たすことに尽力したい、とも伝えた覚えがある。


 その話をいまさら持ち出して、なんだ? と僕は疑問に思った。その疑問に答えるように、


『けど残念だが、臥待はそう思っちゃいねーぜ。それが、お前と彼女との食い違いの正体さ』


 谷川は、あの時の種明かしをした。


『もっと言えばよ、お前の本心とも食い違ってんじゃねーか、って先生は邪推しちまうよ』

『……なに言ってんだ。僕は心の底から、くるみを護りたいと思っているさ』

『それはそうかもしれない。だが、こうも思ってるんじゃないか。暁月、お前は、』


 それから谷川は、


『臥待くるみとの暮らしが愛しい、ってな』


 僕の本心を、言い当てた。


『なあ、暁月。愛の解釈は人それぞれだ。先生はそう思うよ。始まり方はどうだっていい。国籍や性別や年齢、ましてや種族だって関係ないし、形だってそれぞれだ。問いは二人の中だけにあるんだ。そいつと真正面から向き合う、って姿勢が、最も重要だって思うさ』


 夜に同化した黒く美しい髪をたなびかせる女性が、僕に告げる。


『その問いに、そろそろ答えを出すべきなんじゃねーか。前に進むべきなんじゃねーか。ってな、先生は思ってんだよ。いつまでもパパと娘でいる気かい? なあ、どうなんだ』


 不思議だった。出会った時の彼女と、重なって見えたのはなぜだろう。


『……なんてな。ちと情が先走っちまったな。お前と出会って、二十年も経っちまったせいだ。まったく時間っつうもんは、愛にとって一番の栄養素なんだな』


 そして、谷川は最後に、


『私は、暁月の幸福を祈り続けているってわけさ。愛するお前の、な』




 谷川恵空。それは、僕がミアキスに成って初めて出会った女性の名だ。




 あの頃の僕はまだ、身も心も十五歳だった。「人生」という枠組みから突然外された僕にとって、なにより重量のある空言をくれたのが、彼女だ。谷川こそが、何もかもを棄てた気になっていた僕にとって、救済にほかならない美しい笑顔をくれた人だった。


 それからしばらく、僕は谷川と共に生活することとなる。上から物を言い、小馬鹿にし、「少年」などと僕を呼び、いっちょ前に大人の振る舞いをする彼女が、僕より生まれ年の遅い十四歳の少女であると知ったのは、わりとすぐのことだった。


 そんな日々の、ある日の彼女の言葉を思い出す。


『私はお前と出会えて、わりと満足してるんだ。暁月は、私にとって初めての友人だからな』


 後にも先にも、谷川が寂しそうな表情を浮かべたのはこの時だけだ。


『親が死に、なんだかよくわかんねー組織の見習いにされて、大人の階段を何十段も飛ばして生きなきゃならんハメになった私にとって、お前は安らぎなんだ。ずっと共に生きてくれよ』


 当時、S2CUエスツーシーユーの準職員・谷川恵空えそら──元・献餐孤児けんさんこじだった少女は、そして微笑んだ。


『私は、永遠にこのままの生活がいい。変わらないままでいたいと思っているんだ』




 けれど、変化の兆しは突然現れた。谷川と暮らし始めて、九度目の秋だった。

 いまから十二年前の夜。僕は、三歳の臥待くるみに出会うのだ。




 灯台の麓に訪れた危険因子の娘──その残酷な現実に僕は取り乱した。彼女を抱え、急いで谷川と暮らす部屋に戻った。谷川も驚き、ひどく混乱しているようだった。二人して、この状況をどうすべきか、判断がつかずにいた。


 翌朝、谷川は家にいなかった。判断を仰ぐために、S2CU本部へと向かったらしい。だから僕はひとり、取り残された。


 そんな僕の袖を、わずか三歳の臥待くるみは、泣きじゃくりながら掴んだ。


『お母さんのかわりになって』


 自分がどういう状況に置かれているのか、察してしまったのだろうか。すべて把握しきれていないとは思う。まさか母親の身代わりにされたことまでは気づいていないはずだ。それでも、少なくとももう母親とは会えない──そのことだけは理解してしまったんだろう。


 それから、臥待くるみは、


『私の、パパになって』




 谷川に連絡すると、彼女はまだS2CU本部に向かう途中だった。


 長い沈黙の後で、谷川はこう続けた。優しく、慈愛に満ちた声で、僕に語りかけた。


 分かった、すぐ戻るよ。組織への報告はヤメだ。この件は私がなんとか誤魔化すさ。いいぜ、暁月。お前の願いを受け入れてやるよ。一緒に守ろうや。

私たちで、その子を幸せにしてやろう。大人になるまで見守ってやろうぜ。


 私の人生は、お前とその子のためにあるって、ふと思ったんだ。極端かい? そうかもな。けど、そう思っちまったんだから仕方ねえだろ。


 私は、変化を受け入れるよ。


   ◆◆◆


 変化を受け入れる。遅くなってしまったけれど、僕にもその時が来たのかもしれない。


 そう心の底から思ったとき、空は白んでいた。夜が明け始めている。

 僕らの秘めごとを暴くような光が、空から降り注いでいた。


 くるみの横顔を見た。未だ、無表情に虚勢が張り付いたような表情がそこにある。喜怒哀楽を失って、それでもなお、僕を肯定する意思だけが残されているように見えた。


 その横顔さえ、夜空を割いて現れた太陽に照らされて、眩しく輝く。


 そうして僕は、時の流れを実感した。あの頃は三歳だった彼女も、いまや十五歳。あの頃は夜だったこの場所も、朝を迎えた。人間は変わる。世界は変わる。


 ならば、僕も、変わっているはずだ。


 僕はミアキスだ。そしてミアキスにとっての時間という川は、まるで写真で切り取った一瞬のように、制止したままだ。僕を同じ地点に固定したまま、決して流れ出すことがない。


 つまるところ僕は、永遠に十五歳のまま。そう思っていた。


 けれど、どうしてだろう。身体は永遠に変わらないのに、彼女と過ごしたこれまでの時間を想えば、胸が温かくなる。彼女と過ごすこれからを想うと、手のひらが熱を帯びる。


 川はいずれ海へたどり着く。なるほど、そういうことなのかもしれない。止まったままのようでいて、けれど僕たちは確かに雄大な海原の前に、出会いの地に、立っているじゃないか。


 なんて、都合がよすぎる解釈だって分かっている。言葉遊びでしかないって、現実は違うって知っている。どうしたって、僕は十五歳のままだ。ついに君に追いつかれてしまって、そしてこれから追い抜かれていく。


 君が大人になる様を、子供のままで見届けるしかないのだ。


 それでも、僕は君と同じ時間の上にいたい。同じ一秒の上にいたい。


 そう願っているから、僕は、


「ここ……」喉を震わせる。「この場所、こんなに綺麗だったんだな」


 あの日。出会った日は、夜だった。だから、僕たちはこの景色を知らなかった。


 この海原の雄大さを知れず、素晴らしい地だと認識できず、互いが互いの境遇のため、必然の邂逅を遂げただけの、ただそれだけの地として、記憶の中、モノトーンの景色として、存在していた。今まで僕はそう思っていた。


 本当は違ったのだ。快晴の下、太陽の光が完璧な形を見せてくれたから、それを知ることが出来た。こんなにも美しいことを知れた。


「うん。こんなに、綺麗な景色の前で、私たちは出会ったんだね」


 くるみの声が隣で鳴って、途端に、生きていてよかった、という想いが胸の内に芽吹いた。


 死ぬことが出来ない僕がそう思うのは滑稽だろうか。冗談めいているだろうか。

 いいや、そんなことはない。


「生きていてよかった」


 そして、直前には言わなかった部分を、付け足して。もう一度、言う。


「くるみが、生きていてよかった」


「うん。私、まだ生きてるよ」と、くるみが返事をした。「まだ生きてる」


 くるみの横顔に目をやる。どこまでが虚勢で、どこまでが本音なのか、分別がつかない。いまだ表情に明るさは戻っていない。失意の底で、暗闇に覆われたまま、笑顔が戻らずにいる。


 だから僕は、熱を帯びた手を強く握る。祈りを込めて、熱を伝える。


 僕たちの新しい日々を作り上げるために、

 僕たちの失敗と、僕たちの喪失と、僕たちの絶望を、希望で塗り替えるために、

 僕は身体の向きを変え、君を正面から見つめる。


「……ぱ、」くるみと目が合う。くるみの口元が動く。「ぱぱ、」


 ミアキスは不老不死だ。君の隣で生き続けることができる。比喩表現じゃなく、本当の意味で、君の生涯に寄り添うことができる。今はぽっかり空いた心の傷でも、その傷口をかさぶたのように覆うことができる。いつか癒える日まで、癒える日が来なくとも、一生、ずっと。


 でも、僕たちはそれだけの二人じゃないでしょう。僕は、君を護るためだけの存在じゃない。きっと君もそうでしょう。僕に護られるためだけの存在じゃないでしょう。


 なら、それを確かめたい。確かめ合いたい。言葉にしたい。君と、話がしたい。だから、


「くるみ、ここは外だよ。その呼び方は、やめてくれよ」


 僕は冗談めかして、


「いや、そうじゃない。僕が言いたいのは、そうじゃない。僕は──」


 いいや、冗談に包み隠していた、本音を口にする。


「──僕は、君と対等になりたいんだ」


 昇りかけた太陽の光が、僕たちと世界を照らす。それでも、僕はうろたえたりしない。もう僕らには、かつての秘めごとはない。いま、ここにいるのは、仮初の親子じゃない。新しく作り変えようとしている僕たちがいるだけだ。


 ならば、なんの問題もない。僕らを匿うような暗闇は要らない。盛大に暴いてくれ。


「私も、あなたと対等になりたいよ……!」


 僕たちの、本音と正体を、暴いてほしい。

 

 暁月日々輝は父親で、臥待くるみは娘。僕たちは、血の繋がらない親子。その秘めごとは、十二年前の一言から始まった。三歳の臥待くるみ、彼女が口にした願い。


『お母さんのかわりになって』


 その願いに応えたい、と僕も願った。そして僕たちは平穏を装ってきた。

けれど、いよいよ僕たちは限界なのだ。もう親子じゃいられない。


 いいや、いたくない────変わりたいのだ。

 

 そうして僕たちは、どちらともなく抱き合った。




 僕たちの秘めごとが、またひとつ、崩壊した瞬間だった。




 永遠のような時間が流れた。それはきっと、比喩じゃない。これまでの十二年間分が凝縮されたような永い抱擁で、これから始まる未来を確かめるように、僕らは抱き合い続けた。


 そう、未来。僕らには、これからくる未来がある。


 僕にとっての時間は価値がないものだ。だのに、くるみとのこれからを愛したいと思っている。その矛盾にどう折り合いをつけようか。どういう秘めごとを作って、どう騙してみせようか。僕は、そんなことを考えていた。


 抱擁を解いた後で僕らは、しばらく、黙って海を眺めていた。


「暁月さん」


 そして、ある時、くるみはふと呟いた。海風に、ミディアムヘアがなびく。


「ごめんね」

 なにが、と返事をすると、くるみは首を振って、

「約束、破っちゃって。……一緒に、花火見に行けなくて」

「なんだ、そのことか。いいんだ。また、来年いこうよ」


 僕は言った。そんなの、気にしなくたっていい。開港祭は毎年あるらしいし、それに、一緒に花火を見られなかったからこそ、いまの僕たちがいるんじゃないか。そう思ったのだけど、


「ううん。よくないよ。今年の花火は、今年しか見られないんだよ」


 くるみはなぜか、自分を許さない。かと思えば、おもむろにスマホを取り出した。


「だからさ、ちゃんと見ようよ。二人で」


 それから、なにやら画面をタップしたあとで──それを晴れ渡る空に掲げた。


 僕はそれを見上げる。すると、画面上には、夜空に打ちあがる花火の光景が映っていた。


「いいでしょ? ヨーコに動画もらったんだ」そして、くるみは、「持ち歩き式、花火大会」


 そう言って、微笑みをくれた。


 画面の中には、透き通った夜空がある。そこに、次々と花火が打ちあがる。暗闇に咲く光が、とっても綺麗で、なんだか泣きそうになる。けれど、スマホの外側には青空があって、その境界はハッキリしてしまっているものだから、没入感が削がれて、すぐに涙は引っ込んだ。


「なあ、それさ。夜空でやった方がよくないか?」

 僕は言う。


「そうだね。私もやってから思ったよ。これじゃ、なんだかちぐはぐだ」

 くるみが言う。


 そのあとで僕らは、しばらく沈黙して見つめ合ってから、同時に笑い出した。まるでじゃれあいのようにひとしきり笑って、とはいえやっぱり花火は綺麗だからと二人そろって視線をスマホに戻して、まるで約束の辻褄を合わせるみたいに、青空に咲く花火を眺めて、


「暁月さん」


 それからくるみは、すぐに広大な海のどこかへと消えてしまいそうな、かすかな声量で、


「なんだ、くるみ」


 けれど、たしかに僕の耳へと届く声量で、言った。





「愛してんぜ」


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