パパと娘と秘めごとだらけのシェアユース

永原はる

プロローグ

 平穏とは秘めごとを貫くことで保たれる。かつて、そう言われたことがある。僕がまだ、身も心も十五歳だった頃の話だ。抽象的な話を理解するには人生経験が足りていなかったが、しかし「人生」という枠組みから突然外された僕にとって、なにより重量のある空言だった。


 彼女は「つまるところ、浮気はバレなきゃ浮気じゃない理論さ」と補足して微笑む。ゲスな物言いとは裏腹に、美しい笑顔だった。


 何もかもを棄てた気になっていた僕にとって、その笑顔は救済にほかならなかった。


   ◆◆◆


 あれから長い時が経ち、現在。

 僕の隣には、別の女性が立っている。


暁月あかつきさん。番号、あった?」


 肩の少し上ぐらいまで伸びた、緩くカーブがかったミディアムヘアが春風になびいている。大きく真ん丸な瞳が、僕を見ていた。


 中学校の卒業式を終えたばかりの、十五歳の少女──臥待ふしまちくるみ。彼女から質問されて、手元のハガキへと視線を落とす。そこに書かれた受験番号を記憶して、掲示板へと顔を上げた。


 掲示板を見上げているのは、僕ら以外にも大勢いた。「常盤西ときわにし高校」という名の高校、その学内に掲示された数字列と手元の受験番号を見合わせて、抱き合って喜んだり、号泣したりしている。皆、くるみと同じ、あどけなさを備えた十代だ。


 もちろん、この人混みの中、受験番号の書かれたハガキを手に、高校受験の合否を確認に来ている僕も、傍から見れば等しく思春期の青年だろう。それ以外の何に見えるというのだ。


 僕は笑顔を作って、隣に立ったくるみに言う。


「まあ。合格です。当然」

「なんか嫌味な言い方だなあ」

 と彼女は口先をツンと尖らせてから、

「私も。トーゼン、合格」

 なんて、笑った。


 そういうわけで、僕と臥待くるみは、常盤西高校に二人そろって合格した。


 合格発表からの帰り道。くるみはボソリ、この街好きだなあ、と呟いた。

 端から端まで網膜に焼き付けてやろう、と言わんばかりの真剣な顔つきで、くるみはジロジロと視線をあっちこっちに移動しながら歩く。本当は「危ないからちゃんと前見て歩け」と叱りたいところだが、彼女の無邪気さ相手じゃ無駄骨だろうし、同意の肯きだけ返した。


 いま歩いているこの道が、四月から僕らの通学路になる。

 どうも話に聞いていた「海の見える街」ではない。どちらかといえば、坂道の多い「山を開拓して作られた住宅街」という印象だ。そこまでワクワクする景色に思えない。

 けれどくるみは、少女探検家にでもなったように、足を弾ませて歩いていく。


「ま。登下校中に迷子にならないためにも、景色を覚えておく、ってのは大事だよな」

 と、前を行く背に声をかけると、くるみは立ち止まり振り返った。僕も足を止めた。

「あ、子供扱いしたでしょ」

 と、くるみは頬を膨らまして言う。


「あ~あ、やだやだ。私だって、もう高校生になるんだよ? いつまでも子供扱いされちゃたまったもんじゃないよ。私の尊厳はどうなるんだっちゅう話」

「尊厳、だなんて難しい言葉、よく知ってるじゃん」

「だ~から、そこ! そういうところっ!」

 腕をぴしっと伸ばして、人差し指を突き出す。くるみなりの糾弾のポーズだ。その割に、口角が吊り上がっているものだから、ちぐはぐったらありゃしない。

「いい? 私たちは四月から同じ高校に通うの。同級生なの。対等なの。だから、そういう風に接してよねっ! 私もそうするから」と、そこまでは勢いよく喋っていたのに、急に沈黙した。しばらくしてから、くるみは口をもごもご動かして、「あ、あともう一つ」

「なんだ?」

「やっ、やっぱりさ、呼び方、考え直さない?」

 だなんて、言った。これには即座に、首を横に振った。

「ダメだ」

「えー。なんでよー」


 くるみが抗議の声を上げたので、僕は嘆息した。


「いまさら何言ってんだよ。外では『暁月さん』呼びをすること、って決めただろ。それが同じ高校に通う条件だ」

「そうだけどさぁ。でも、別に学校じゃなかったら、いつも通りで良くない? なんかさ、この呼び方慣れなくて、ムズムズするんだよね」

「あのな、くるみ」

「しかも、あ、暁月さんだけ、そうやって普段通りでズルい!」


 彼女は人差し指を、またしても僕へと突き立てた。僕を責め立てるくせして、ちゃんと「暁月さん呼び」を守る健気さがなんだか可笑しくて、つい吹き出してしまった。それを見てか、彼女も笑った。


 じゃれ合いのように笑い合ったせいで、途端にどうでもよくなったのかもしれない。くるみは溜息を挟んだのちに、


「まあ、でも。慣れないのは暁月さんも一緒か」

 ひとりでに納得した様子で、そう言った。

「何事も、最初は慣れないもんだろ。頑張ろうよ。くるみがやりたかったことだろ」

 僕はそう返して、歩き出した。くるみも歩き出す。


 進行方向の先に、僕たちの家が見えた。

 この春から、二人で暮らす、新しい我が家だ。


「そうだね。私のお願い事だもんね。無茶してみるよ。けど、学校で間違えたらごめんね」

「そうだな。くるみなら間違いかねないし、今から誤魔化し方でも考えとくか」

「信用ないなあ。私はこんなに信頼してるっていうのに」

「十年以上も一緒にいりゃ、長所も短所もハッキリ分かっちゃうよね、って話だよ」

 良い話風にしないでよね、なんて言って、くるみは僕の頬を人差し指で突いた。


 ほどなくして、自宅に到着した。高校生ふたりが住むには贅沢な一軒家だ。停める車がない駐車場アリ、飼い犬がいたなら駆け回るであろう庭アリ、二階建て、バルコニー付きの我が家。


 二人の平穏のための、秘めごとだらけの我が家だ。


 平穏とは秘めごとを貫くことで保たれる。ふと、いつかのあいつのセリフを思い出した。

 この四月から始まる新生活は、きっとそういう日々になる。

 あの時には理解が難しかったその空言も、今となっては骨の髄まで染み込んだ僕の信条だ。この社会で僕たちが「平穏」に生きることはとても困難だ。でも、どうか平穏に、なるべく幸福に生きていたい。そう願ってしまうのは、罪深いことだろうか。そう願うくるみに寄り添いたい、と願うことは赦されるのだろうか。どうだろう。分からない。


 たしかなことは、二つだけ。

 僕には、僕たちには、誰にも知られてはならない「秘めごと」がある。

 そして、僕は、僕たちは、なによりも「平穏」を望んでいる。

 それだけだ。


 玄関の鍵を開けて、ドアノブを引く。ドアを開けて、くるみに「どうぞ」とアイコンタクト。先に、くるみが家の中へ入った。そのあとで僕も入り、ドアを閉めた。


「あー、早く四月にならないかなあ。一緒に高校通うの、楽しみだなあ」


 そうして、くるみは、満面の笑みを浮かべて、


「ね? パパ」


 ──イタズラっぽく、僕たちの「秘めごと」の正体を口にした。


   ◆◆◆


 僕、暁月日々輝あかつきひびきは、身体年齢十五歳の元・人間である。

 少女、臥待ふしまちくるみは、実年齢十五歳の人間である。


 僕たち二人は、十二年ものあいだ、共に生活してきた「親子」だ。

 そしてこの春からは、同じ高校に通う同級生でもある。


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