第1話「〈ミアキス〉の腕のなか」
001 部屋、行ってもいい?
◆暁月日々輝◆
春は桜の季節。とはいえ桜の花弁は短命だ。
先週あたりに「横浜市でも桜が満開を迎えました」というニュースを目にしたばかりだというのに、自宅近くの桜並木はすでに花弁を散らせ、葉をつけ始めている。どうせなら入学式に合わせて咲いてもらった方が風情があるんだけど、自然はそこまで人間に従順じゃない。
と、いつもの春なら気にしないことを考えてしまうぐらいには、僕も意識しているんだろう。
くるみと僕の、高校の入学式。それが、いよいよ明日に迫っていた。
入学前夜の午後六時すぎ。僕は夕飯を作るため、キッチンに立っていた。
今日の献立は、くるみの大好物、カレーだ。グツグツと煮立つ鍋をおたまでかき混ぜると、スパイシーで甘い匂いがほんのり香った。うん、いつもとおんなじ匂い。ニンジンやら玉ねぎやらを炒めて、出来合いのルーで煮込んだだけのものだが、なかなか上手に作れた気がする。
よし、完成。と、IHコンロを保温状態に切り替えたとき、後ろから、
「いいにおいっ」
無邪気な声が聞こえた。振り向くと、くるみが僕の肩越しに、鍋の中を覗き込んでいる。目をつむって鼻から香りを吸い込んで、んん~! と声を上げた。
「美味しそう~。パパのカレー、絶品なんだよなあ。はやく食べたいなあ~」
そう言ってくれるのは、僕も嬉しい。ただ、発言内容に矛盾したその恰好は何だ。
くるみの服装を眺めてから、僕は質問……いや、つっこみを入れる。
「なんで、もう制服着てるんだ」
すると、くるみは「言及、待ってました」と言わんばかりに笑って、身体を一回転させた。
制服のスカートが、ふわり、持ち上がる。中学時代のセーラー服と違って、紺色のブレザーは、くるみをほんのちょっとだけ大人びさせる。「綺麗」というよりは「可愛い」という方が似合うくるみの顔を、胸元の赤いリボンが映えさせていた。
「高校生活がさ、待ちきれなくて着ちゃった。どう? 似合ってる?」
めちゃくちゃ似合ってるぞ、という本音は、胸中に仕舞って、
「汚れたら困るから、早く部屋着に着替えてこい」
まさしく父親みたいなセリフをはいた。
くるみは、はーい、と明るく返事をして、自室へと戻っていった。
あいつ、ずいぶん浮かれているなあ、と苦笑いひとつ。それから、ラックに置かれたお皿を一枚、手に取った。
◆◆◆
十二年間におよぶ僕たちの生活は、今日も平常運転だ。
一緒に夕食の時間を過ごすときは、リビングのテーブルに向かい合って座る。部屋着姿のくるみが、カレーライスをスプーンですくって口に運ぶ。僕は、その様子を眺めている。
テーブルの上、僕の手元にカレーライスの皿は置かれていない。食事をとるのはくるみだけだ。僕に食事は必要ない。なのにわざわざ着席しているのは、くるみと会話をするためだ。
親子なのだし、一緒に食卓ぐらい囲もう。という、そういったお約束事みたいなもの。これは毎食のこと。我が家の日常風景だ。
「ん〜、美味しいっ。腕上げたねぇ、星あげよう」
律儀にカレーライスの感想を言ってくれるその感じも、上からの物言いを混ぜるからかいのニュアンスも、くるみのいつも通り。
「お褒めにあずかり光栄です。作りすぎちゃったので、たくさん食べてくれると助かります」
宮廷のシェフみたいな、かしこまった口調で彼女のノリに付き合う僕も、いつも通り。
「ふ~ん。それなら、パパも食べれば?」
と、皿の置かれていない僕の手元を、視線で指し示してから表情を窺ってくるこの感じも、
「まあ、余ったら、明日の朝食にすればいいか」
と、こいつの意地悪を軽く受け流す感じも。
僕たちは上手く、仲良くやれている。そういうことなのだと思う。
常磐西高校の合格発表のあと、この街、横浜に越してきてから二週間が経っていた。
引っ越しの段ボールの荷ほどきをしたり、突然インテリアに凝り出したくるみとカタログを見ながらあーでもないこーでもないと話し合ったり、制服を調達するなどの入学準備を進めたり……とまあ、あれこれしていたら瞬く間に時は流れた。
生まれて初めて踏み入れた地に浮足立って、旅行者さながら新天地を満喫──みたいな余裕は全然なかった。日々、意外とやることが多い。上手くやるって、わりと困難だ。
それでも、平穏を貫くためならどんな苦労もいとわない。明日も上手く仲良くやりたいな、なんて考えながら長いまつげを眺めていると、くるみがなにやら思い出したように声を上げた。
「あっ。そうだ。今日ね、みなとみらい行ってきたんだ」
「みなとみらい? ああ、あそこ」
つい先日、たまたま駅で手に取った観光ガイドの冊子を思い浮かべながら、返事をした。
みなとみらい。横浜港沿い、近未来的な街並みの地区の名称である。横浜という街の中でもひときわ人気の観光名所。「横浜」=「海の見える街」という印象も、「みなとみらい」があるから、といって過言でない、らしい。
なるほど。こいつはちゃっかり、旅行者さながら新天地を満喫していたってわけだ。
「昼間に出かけてたのって、それか」
「そう。せっかくだし、行ってみたかったんだよね。今度パパも連れてってあげるからね」
「おー。そりゃ、楽しみだな」
半分ぐらい空返事で返す。これも、いつも通りの他愛もない日常会話のうちだ。
と僕は思っていたのだけど、くるみの様子はどこか普段と違っていた。視線をカレーライスの皿へと落したまま、スプーンをくわえて、「えっと、それでね、あのね」と、なにやらその先を言うのに勇気が要るみたいで、口をモゴモゴさせてから、
「だから……その」ついに決心したのか、上目遣いで僕を見て、「後で、部屋、行ってもいい?」
なんて、訊くのだった。
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