009 人間って消えられないから
◇◇◇
必死で走った。地下通路を抜けて、みなみ西口から多少離れた出口から地上に出た。そこは人混みのない閑静なビル街だった。あたりを見回して、隠れられる場所を探す。四階建てぐらいの高さのビルとビルの隙間、路地裏に私たちは入り込む。どうやら、近くに人影はない。
「もう、大丈夫だよ。パパ……」
パパを地面に座らせて、私は言う。するとパパは、
「その呼び方をするな、今はまだ外だ」
優しい口調で注意した。私は「ごめん」と小声で謝った。彼は首を横に振った。そのまま、私たちはしばらく沈黙した。
重たい空気に押しつぶされそうな気持ちだ。パパに注意されたから、とかじゃなくて。
だって、私たちは明確に……、
「ミスったな……ははっ」
とパパが吐いた言葉が、私の気持ちとシンクロした。
そうだ。これは、明らかなミスだった。
階段から落下した時、パパは頭を打ち、後頭部から出血をした。地面に出来た血だまりは、まぎれもなくパパのものだ。だから私たちは急いであの場から立ち去り、この路地裏に逃げ込んだ。彼は今の今まで、その傷口を手で押さえている。
「見られて……無かったよね?」
恐る恐る尋ねると、パパは浅く肯いて、傷口から手をどかした。
「ああ、たぶんな」
私は右手で、パパの後頭部に触れる。
その傷口は──もう塞がっている。
「…………さすがに不自然だったかもな」
「そう、だね。でも……」溜息が口から漏れ出た。「よかった……」
それが、どの類の安堵からくるものなのか、自分で判別できない。誰にも見られなくてよかったね、それもあるだろう。傷が治ってよかったね、それもある。
あるいは、パパがミアキスで良かった。それも、あるかもしれない。
おかげで、私はギリギリ平静を保っていられる。パパは死なない。階段から転落するという大事故に遭っても、血だまりが出来るほど強く頭を打ちつけても、目の前のパパには傷一つない。ミアキスでよかった。って、心のどこかで思ってしまう。
けれど、それは人間ではあり得ないこと、だから。
「しかし、
「うん。私も心配、だけど……」
「ああ、そうだな。僕たちは、」
だから私たちは、ああするしかなかった。
夜の闇が深い。私たちを匿うような暗闇だった。
私たちは十二年間、こうやって「平穏」を守り続けてきた。
出会った時から、私はパパが人間じゃないことを知っていた。僕はミアキスだ、人間じゃない、と彼は言った。私はそれを信じたし、すぐに受け入れたし、今だってパパの正体が暴かれないように、「秘めごと」を貫き続けている。
暁月日々輝は普通じゃない。彼と生活を送る私だって同じく普通じゃない。この関係性そのものが、異質。言葉で確認することはないけど、それが私たちの共通認識だ。
平穏を保つのって難しい。きっと犠牲にしてきたものが、パパにはたくさんある。
でも……それでも。いや、だからこそ、だ。私は思う。
「くるみ」視線を斜め下に落として、パパは言った。「今日は楽しかったな」
彼は私のパパで大好きな人……そう、人だって。ミアキスと人間、そこにどんな差があるというんだろう。いまのパパの言葉がその証明でしょう? だったら、与えられた青春を謳歌してほしい。私と共に青春を享受してほしい。そう思っている。
うん。私は大きく肯いた。パパの手の甲に触れる。そして、微笑みかけようと──
「でも、」
──吊り上げた口角が、一瞬にして引きつり、固まった。無意識で、視線が上がった。
でも。……でも?
それは、たった二文字だった。けれど、いまの私がいちばん聞きたくない二文字。鼓膜を揺らしたその接続詞が、私の心に影を落とす。胸の内をザワザワさせた。嫌な予感がした。
なに? パパは、なにを言おうとして──だなんて、身構える間もなく、
「やっぱり、これからはやめておこう」
嫌な予感は、現実に変わった。
「え……?」胸のザワザワが、大きくなっていくのを感じた。「急に、なに……?」
「今日は楽しかった。その気持ちは嘘じゃない。みんないい人たちだった。でも……気を抜くとこうなる、って分かった。だから、もう僕はいいんだ。くるみの毎日が楽しければ、それで」
「ちがっ……え……?」
ザワザワは風船みたいに膨らんで、パンパンになって、私の中で破裂する気配がした。
「僕はくるみとの生活を守りたい。秘めごとを貫かなくちゃいけない。だったら、僕がするべきことは、友達を作ることなんかじゃないよな。むしろ逆だ。出来るかぎり人間と関わらず、リスクを最小限に抑えて、僕の正体が露見しないよう努めることだ」
待ってよ……なんで? だって、私たち、今日一日上手くやれたじゃん。楽しかったじゃん。完璧な日だったじゃん。なのに……どうして、そういう結論になるの?
分からない。私には、それが到底受け入れ難いものだった。
だから、
「こ、これは事故だよ。たまたまだよ。これからは気をつけようよ。無茶しないようにしよう。この件はそれで終わりにして……なにもヨーコたちと遊ぶのを諦めるって話にはならないでしょ。それはおかしいじゃん。一緒にしなくてよくない? そうでしょ? そう、じゃん」
勢い任せに、気持ちを訴えた。
「これまで通り、高校は行くよ」
けれどパパは冷静沈着に言う。結論を曲げない。
「だから……おかしいじゃん。滅茶苦茶じゃんっ! 行けばいいって話じゃあッ……」
あれ? 変だな。カラオケからの帰り道では、私、ずっと笑えていたのに……なんでいまは、こんなに悲しい気持ちなんだ? なんで……。
「私は、暁月さんとの高校生活が楽しみだったのに。暁月さんは違うの……?」
「僕には、それよりも大切なことが──」
「私たち高校生なのにッ……それより大切なことなんてないよっ!」
あー。だめだ、私。完全に、感情が暴走している。滅茶苦茶なのは、私の方じゃん。
パパを傷つけている自覚はあった。でも私の気持ちを理解してほしいっていう想いもある。それらの折り合いがつけられないから、消えたい。ふいに消えたくなった。
でも人間って消えられないから、せめて視界を真っ暗にするために、私はその場にしゃがみこんで、膝と膝の間に顔をうずめた。
「もういい。先、帰ってて」そして私は、もう一つ駄々をこねる。「いいから、帰ってよ」
「くるみ………」
返事はしなかった。しばらくして、近くで足音が鳴った。遠のいていく、音。パパ、ちゃんと帰っていったな、と分かってからも、当分の間はそこでじっとしていた。
どのくらい時間が経っただろう。
手の甲に水滴が当たって、ようやく私は顔を上げた。いつのまにか雨が降っていた。
「…………やば」
まだ小振りの雨だったけど、ここには屋根もないし、このままだとびしょ濡れになる。風邪だって引きたくないし。私は立ち上がり、駅へ向かって歩き始めた。
雨が強くなる前に、地下鉄の入り口まで戻ってこられた。階段を、一段一段、踏みしめて下りる。帰りたくないな、なんて考えながら。さっきまでは楽しくて帰りたくない、だったのに、気まずくて帰りたくない、に変わっていることに気づき、また落ち込んだ。
家にはパパがいる。喧嘩したばっかのパパが待っている。
「………………どんな顔して会おう」
とひとりごちてから、「いっそのこと家出しちゃおうかな」とか半分冗談で考えたとき、
「喧嘩……久々にしたなあ」
ふと脳裏に蘇ったのは、十年近く前の記憶だった。
◇◇◇
小学校に上がる直前の三月。私は、パパと二人でお出かけをしていた。
パパが「入学祝いに、なんでも一つ、好きなものを買ってやろう」と言ってくれたからだ。
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