010 誰にでもできるけれど、あなたじゃなくちゃ

   ◇◇◇


 その日、二人でやってきたのは、当時住んでいた地区の中でも比較的大きなショッピングモールだった。おもちゃ屋、電機店、書店や食品売り場もあれば、有名なブティックも店を構えているような施設。「なんでも一つ」を選ぶには、絶好のスポットだった。


 けれど私は、入口近くに設置されたカプセルトイを見るなり、即決することになる。


 どこからどうみても安っぽい作りの、謎の犬のストラップ。私が一目ぼれしたのは、そんなものだった。二百円のカプセルトイ。同じ犬がそれぞれ別のポーズをとる、全六種。


「私、これ欲しい」


 パパの裾を握りしめて、私は言った。

 パパが「こんなのでいいのか?」と訊いた。私は一瞬も悩むことなく、首を縦に振った。


 そうして私は、めでたく謎の犬のストラップを手にすることとなる。


 念願の品を手に入れて、六歳の私はご満悦だった。一目惚れしたキャラクターが自分の掌の上にいる、という悦びは、ほかに代えがたいものだった。代えがたいもの、のはずだった。


 しかし、どうも子供の欲求とは歯止めが効かないもので。おもちゃ売り場にて、巨大なクマのぬいぐるみを発見した瞬間、私が直前まで抱いていたストラップへの盲目的な愛情は、一瞬にして蒸発してしまうこととなる。あっけなく目移りしてしまったのだ。


「パパ、見て」


 私は一発ジャブを入れるみたいに、ぬいぐるみを指さして言った。


 本音を言えば、「買って欲しい」だった。が、言えるはずもない。「なんでも」のあとに「ひとつ」と条件を提示されていたのだから。


 パパのシャツの裾を強く引っ張る。それから、もう一度、「見て」と唱える。でも、パパは素っ気ない態度を取った。だから、私は我慢できなくなった。


「やっぱり、あれが欲しい。あれ、買って」


 パパはいつも優しかった。出会ってから、一度も叱られなかったし、可能な限りワガママをきいてくれた。その甘さに付け込もうという魂胆がなかったといえば嘘になる。ストラップの価値は、たった百円玉二枚だ。せっかくの入学祝いならば、もっと価値のあるものを貰っていいはずだ、という自己中心的な発想さえあった。


 ならば当然、パパはこの頼み事を承諾するだろう。と、確信していた。けれど、


「さっき、ストラップ買ってあげただろ」


 パパは、私の願いを一蹴した。なんでも、を、パパは譲らなかった。


 私は、それがとても気に食わなかった。どれほど自分に都合がいい解釈で頼み事をしているか、無自覚なまま、駄々をこねた。おもちゃ売り場の前で立ち止まったまま、なんでどうして、いいじゃん買ってよ、と喚いた。それでもパパは、首を縦に振らなかった。


 初めて喧嘩になった。というか、この頃、私が感情を表に出した記憶ってあまりない。自分勝手な怒り。それが、パパに対して初めて与えた「感情」だったと思う。


 私は逃げ出した。トイレに行く、と嘘をついて、ショッピングモールから抜け出した。私は走った。一心不乱に走った……しかし、六歳の子供が逃げられる距離なんてたかが知れていて、駐車場近くの広場までやってきたあたりで、疲れて立ち止ってしまった。


 その時、遠くからぼんやり、楽しそうな音楽が聴こえた。

 なんだろう、と気になり、歩いていくと、視界に人だかりが映り込んだ。


 よくよく見れば、その人だかりは、誰かを囲んで円形になっていた。その中心にいる人物が、ボウリングのピンのような物を上空に投げてはキャッチして、を繰り返していた。


 ちょうど演目が終わって、拍手が起きた。拍手が鳴りやむと、中心にいた人物がおもむろに、観客の女性に近づいて、「次の演目はお手伝いが必要なんです。ちょっと手伝っていただけますか?」と声をかけた。その観客は軽い動揺まじりに「私ですか?」と言った。「そう、あなたです。誰にでもできる簡単なお手伝いですので、ご安心を」と彼は言う。


 しかし女性は、ためらいがちに「私じゃなくて、ほかの誰かに」と返した。


 するとすかさず彼が答えた。


「いいえ、あなたに手伝ってほしいんです」


 そのセリフに、私は笑ってしまった。誰にでもできる簡単なお手伝いじゃなかったのか。


「誰にでもできるけれど、あなたじゃなくちゃ」


 観客中で笑いが起きた。女性は勢いに飲まれるように、けれど、さほど迷惑がっている様子もなく、手伝いを承諾した。


 手伝い、とは、ジャグリング中に三本目のピンを投げ込む、というものだった。


 二本のピンをはるか上空に放たれる。直後、女性に合図が出され、三本目のピンが投げ込まれる……がしかし、それは明後日の方向へと飛んだ。それでも動揺するそぶりを見せることなく、その人は素早い動きで追いつき、見事キャッチ、合計三本のピンでジャグリングを続けた。


 これには大きな拍手が起きた。すげー、という歓声も聞こえた。


「すごいな」


 直後、聞き覚えのある声が斜め上から聴こえた。見上げると、パパがそこにいた。


 いつのまにか見つかっていたのだ、と知って動揺した。そんな私が咄嗟にはいた言葉は、

「…………すごい。かっこいい」

 ただ、それだけだった。


 本当は、ごめんなさい、を言うべきだったろう。でも、言えなかった。気まずくて、照れくさくて、パパを傷つけたことを認めたくなかったのもあると思う。よくない。ダメな娘だ。


「くるみ」そんな私の頭を撫でて、彼は微笑んだ。「見つかってよかった。もうどこにも行くな」


 その優しさが、私の胸を締め付けた。そしてなぜだか、直前に聞いたセリフが思い起こされて、それが魔法の呪文みたいに思えて、


「誰にでもできるけれど、あなたじゃなくちゃ」


 私は、気づけば口ずさんでいた。


「? どうしたんだ、急に」


 首を横に振ってから、私は謎犬のストラップを大切に握りしめた。


「ううん。なんだか……いい言葉だなって思ったの」


   ◇◇◇


 誰にでもできるけれど、あなたじゃなくちゃ。

 十五歳になった今でも、時折思い出す魔法の呪文だ。


 それは、私にとってのパパがそういう存在だからだと思う。


 三歳の時、私はひとりぼっちになった。夜の中を駆け巡って、その先で私はパパに出会った。あの夜から私の人生は新しく始まった。その人生が続くあいだ、隣にいてくれたのがパパだったからこそ今の私があることを、絶対に忘れちゃいけない。


「忘れちゃいけないのに、私は……」


 電車が最寄り駅に到着した。ホームに降りた。


 帰宅ラッシュはすでに終了していて終電にはまだ早い、中途半端な夜中だからか、ホームにはほとんど人通りがなかった。すれ違う人の傘はひどく濡れている。そうか、まだ雨は止んでいないのだ。それもあるかもしれない。


 地下鉄の駅から出ると、車通りは少なかった。土砂降りはさっきよりもひどくなっている。そんな地上出口の近く、薄暗い街灯の下に、


「おかえり、くるみ」


 傘を差したパパが立っているのを見つけて、私は呆然としてしまった。


「えっ……どう、して……」

「どうしてって……。お前、傘持ってなかっただろ」


 あっけらかんとパパは言う。これぐらい当然だろ、というトーン。その先は想像でしかないけれど、「父親なんだから」と続けそうな表情。


 でもやっぱり、どうして、の気持ちは強い。どうして迎えに来てくれたの。こんなに強い雨が降っているのに。いつ帰るかなんて言ってないのに。


 ずっと待っていたのだろうか。仮に私が帰らなかったら、一晩中待ち続けていたのだろうか。


「……ごめん。ごめんね、暁月あかつきさん…………」


 そう思うと、私の口から、自然と謝罪の言葉が溢れ出た。


「おい……謝らないでくれ」


 パパが、頭上に傘を広げた。私は顔を伏せる。


「謝らせてよ…………。私の気が済まないんだよ……」


 不思議な感じだ。十年前のあの日は素直になれなかったのに、高校生の私は素直に気持ちを言葉に乗せることができたことが、なんだか不思議だった。これって成長なのかな。分かんないけど、そういう自分でいられることに気づくと、少し、気持ちが晴れやかになった。


 渇いた笑い声が頭上で鳴った。パパの右手が、私の肩に触れた。


「わかった。じゃあ謝罪を許そう。一言だけな。それと、そのあとで僕にも謝らせてくれ」


 私は笑いそうになった。なにそれ。謝罪がターン制のことなんてある? 仲直りがこんなに形式的なことってあるんだ。そう、ツッコミを入れそうになった。けど、そうしたら思うツボな気がする。私はさ、パパに真心を伝えたいのに、茶化されたらたまったもんじゃないよ。


「ごめんなさい」なので私は、彼の目をまっすぐ見るために、「私、もう────」




 顔を上げた──直後のこと、だった。

 パパの右腕が、離れた。私の肩からではない──パパの身体から。




「へ……?」


 何が起こったのか、私には分からなかった。パパの肩から血飛沫が噴射して、雨の透明色は一気に真っ赤に染まって、その向こう側に黒い影が一つ見えた。


 その影の手には……なにあれ……刀?


 意味不明で処理できない。これが現実の光景かも分からない。まるでアクション映画の世界に迷い込んでしまったのかと錯覚するほど、現実離れした物体を持つ、現実離れした人影が、パパの腕を斬ったように見えた。……斬った? でも、斬ったってなに。分からない。


 確かなのは、雨音をかき消すほどの大声でパパが、


「くるみッ、逃げろッッッ!!!!!!!!」


 と叫んだこと。そして、手を伸ばせば届く距離にあるはずのパパの身体が、砂みたいにサラサラと消滅し始めたこと。黒い影が、私を睨みつけていること。


 そして私は、心の底から思い知る。


 この社会で、私たちが「平穏」に生きるのがどれほど難しいかということ。なのに、パパに高校生活を楽しんでほしくて、青春をシェアしたいと願ってしまったこと。その、浅はかさ。こんなことになるって分かっていたら、私、パパに無理を言わなかった。


 遅すぎる後悔の念が、脳内を占拠する。

 ああ。ほんとに、私はどれほど──


「パパぁああっああアああああッっッっっ!」






 ワガママ、だったんだろう。




   <第3話に続く>

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