008 どうしよう。どうしようどうしようどうしよう。
◇◇◇
私たちが到着してから三度目のヨーコの番になり、イントロが流れ始めた。アコーディオンの音色が室内に響き渡る。ヨーコが、マイクを手に立ちあがった。
「さあ、この曲をくるみに捧げまーす!」
その曲名は、私の名前と同じだった。『くるみ』。初めて聴く曲だったけど、有名なアーティストの名前が表示されて驚いた。
「あはっ、
「キザな選曲だよね。これ、あんたの名前なんでしょ?」
対面に座る同じ顔をした二人が、交互に喋った。
「あ、一応。ウチが姉のフーカで」と名乗ったのは、右側の子で、
「ウチが、妹のセーラね」と名乗ったのは、左側の子。
二人はまたしても同時に、お揃いのミディアムヘアの襟足を持ち上げて、
「インナーカラー。アッシュがフーカ」
「ゴールドがセーラね。覚えやすいっしょ? よろしくね」
「で、
そのあとで、二人は互いに見合ってくすくすと笑いだした。
ヨーコが歌う曲は、サビに突入していた。導入は寂しい感じだったけど、どんどんと暖かくなっていく不思議な歌詞だ。その内容がなんとなく、きょう一日と共鳴して聴こえた。
寂しさや悲しさを感じた日だった。高校に入る前に抱いた希望が、失望に変わりかけそうな日だった。でも、そんな最悪な日が、いま、良い思い出に変わりかけている。
隣に座るパパを見た。目が合って、私は微笑む。
楽しい? アイコンタクトで尋ねる。伝わったかどうかは知らないけれど彼は、やれやれだよ、と言いたげな様子で、肩を上下に揺らした。
なんてさ、そんな感じの反応なのにさ、身体は音楽に合わせて小さく動いている。あまり感情を表には出さない、普段の彼をよく知っている私には、それが最大限の感情表現に見えた。
◇◇◇
帰り道も、とても愉快で騒がしいものだった。
みなみ西口前の大通りは、かなりの人でごった返していた。すっかり夜になっているからか、学生だけじゃなくてサラリーマンともたくさんすれ違う。前まで住んでいたところじゃ考えられないほどの人混みで、雑踏の音がけたたましい。それでも、たぶん、その音に負けないくらいのボリュームで、私たちの会話は盛り上がっていた。
「
隣を歩く
「え? いや、こちらこそ。……ありがとね、誘ってくれて」
留名ちゃんは首を振って、しばしの間をおいたあとで、
「気を遣ってくれたのですよね。体験入部のあと、わたくしが変なことを言ったものですから。でもおかげさまで、今なら胸を張って訊けます。わたくしたち、仲良くなれましたよね?」
うん、と返事をしようとした。けれど、それよりも早く、
「みずくせー、みずくせーだよ。お二人さん、」
「そんなの言葉にするまでもなく、イエス以外ないでしょ」
後ろを歩いていた千乃ちゃん達が、会話に合流した。
私と留名ちゃんはそれを聞いて、つい笑ってしまった。
大通りを駅まで歩いて戻ってきて、私たちは地下鉄の入り口の前まで到着していた。階段を下れば、改札だ。立ち止まった私たちで、小さな円ができた。全員が、なんだか帰りたくないな、と言いたげな表情に見えたのは、都合のいい解釈だろうか。
「じゃ、ウチらはこの辺で」
「今日は楽しかったよ~」
千乃ちゃん姉妹がそう言って、息ぴったりに右手をあげた。
「わたくしもこの辺で失礼します。本当に、良い日でした」
留名ちゃんが、深いお辞儀をした。
「私も。また遊びに行こうね。暁月さんのことも、また誘うね?」
と、私はパパの方を向いた。不思議と、勇気の要らない誘いだった。体験入部に誘うときと意味合いは一緒なのに、こうもスムーズに口から言葉が出てくると、自分でも驚くものだ。
たぶん、今日という日の余韻に背中を押されたのだろう。そしてパパは、
「あー、そうだな。くるみが行くなら、僕も行くよ」
特大の約束をしてくれた。こんなの、ガッツポーズを我慢できない。
なんか千乃ちゃんたちは「今の聞いた?」「くるみが行くなら、だってよ」「うへぇ~、とんでもねえノロケが出たなあ」とか、別ベクトルの沸き方をしていたけど、まあいいや。見なかったことにしよう。誤解ならいつだって解ける。けど、こんなに幸福感でいっぱいの一日の終わり際って、なかなかないから。
私は名残惜しくて、ひとりひとり目を合わせる。千乃ちゃん姉妹は、にっ、と歯を出してお揃いの笑顔を作る。留名ちゃんは、口元をほんの少し上げたあとで照れくさそうに目を逸らした。パパはフラットな表情。もっと幸せそうな顔してくれてもいいのに、とは思った。
それから、ヨーコの顔に視線を移した。
そこで私は気づく。ヨーコは視線を、明後日の方角へ向けていた。
「? ヨーコ、」
どうしたの。と、言葉にしたかどうか、自分でもハッキリしない。でも、そう思ったのは確かだ。私はヨーコの顔を見てすぐ、彼女の視線の先を追った。ヨーコは階段を下りていく女性の背中をぼーっと見つめていた。
「先輩?」
そして、ヨーコは気の抜けた声を発した。
その女性は、これだけの人混みの中にいても一発で見つけることが出来るくらい、派手な銀色のウルフカットをしていた。横顔が一瞬だけ見えた。綺麗な顔。だけど表情はとっても暗くて、まるで彷徨い歩くように、うつろうつろな目。
その背中めがけて、ヨーコは、
「せんぱぁいッ! ユウナベ先輩!」
大袈裟な声を上げた。そしてそのまま、追いかけるように、一歩踏み出した。
先輩……あの女性のこと? 派手な見た目で、大人びていて、まるで高校生には見えない。ヨーコの知り合いとは思えないほど、住む世界が違いそうな人だ……というのが、率直な印象だった。もしかしたら、
そのせいだろう。気づいたときには、もう、
「ッわっ────」
自分の身に何が起こった? という混乱を孕んだ、悲鳴にしては軽い声がして、
刹那、ヨーコの身体は──宙に浮いていた。
「っ! ヨ──」
ウルフカットの女性を追いかけて動かした足が、階段を踏み外したのだ。と、すぐに状況は理解した。このままじゃヨーコの身体は底へと落下していく。だから今すぐ手を掴まなきゃ、って思考だけは働く。
でも、伸ばそうとした手が伸びない、踏み出そうとした足が動かなかった。
そんな私の横を、パパが通り過ぎた。
「蓮沼ッ!」
パパの動きは素早かった。宙に浮いたヨーコへと駆け出して、精一杯手を伸ばして、彼女の左腕を掴んだ──けれど、パパの身体も落下の勢いにのまれた。ヨーコの腕を掴んだまま、パパの足が地面から離れる。倒れかかった彼女の後頭部を、パパは咄嗟に右手で押さえ、そして、抱き合うような態勢のまま、二人して階段を転がり落ちていった。
「暁月さんッ! ヨーコッ!」
私は叫んだ。そこでようやく、足が動いた。駆け出していく。
階段の底、ヨーコをぎゅっと抱きしめたまま地面に倒れこむ、パパの姿があった。
「ひー、君……」
というヨーコの声で、私は彼女の無事を確認する。
「ヨーコ、大丈夫……ケガはッ!」
「わたしは、だいじょうぶだけど……ひー君が……」
言って、ヨーコがパパの腕から抜け出して、上半身を起こした。
そこで私は、パパの頭の下に小さな血だまりを見つけた。
「あ……暁月……さん」
瞬間、呼吸が出来なくなりそうになった。不意に涙が溢れた。
どうしよう。どうしようどうしようどうしよう。うそ、ヤダ。……パパ。パパが……。
「くるみ」けど、パパの声が鳴って、私は我に返る。「蓮沼は、大丈夫だ」
右手で自分の頭を押さえて、ゆっくりと起き上がるパパと、目が合った。
「だから……僕たちは…………」
そうだ。取り乱している場合じゃない。
私は右腕で涙を拭って、覚悟を決める。
「千乃ちゃんッ! 留名ちゃんッ!」そして、階段の上にいる三人へと叫んだ。「ヨーコに大きなケガはないから! だから任せるからッ! わたッ私は、暁月さんを助けるからッ!」
私は、パパに肩を貸して立ち上がり、そのまま──この場から逃げ出した。
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