012 ひとりぼっち、無我夢中で夜のなか

   ◆◆◆


 くるみの体調は、ずいぶんとマシになっているようだった。僕が背中を支えようとすると、一人でも歩けるよ、と目で伝えてくれた。


 谷川たにかわがマンション入り口の端末にキーをかざし、ロックが解除される。建物内に入り、エレベーターで三階へ向かう。


「ここ……先生の家なの……?」


 くるみの問いに、谷川は首を振った。


「セーフハウスだよ。かっこいいだろ?」

「セーフハウスって……?」

「なんだ、臥待ふしまち。スパイ映画とか観たことねーのか? 観た方がいいぜ、面白いから。先生のオススメは、『ミッションインポッシブル』の五作目だな。笑えるのがお好みなら、『ゲット・スマート』なんてどうだろう? 観やすいぜ」

「谷川。無駄口はそこまでにしろ」

「ちっ、相変わらず敬意が無いなあ、暁月あかつきは。お前は生徒なんだ、敬語を使いたまえよ」

「ロールプレイは、高校の中だけで充分だ」

「分かってないねえ。日ごろの行いを蔑ろにしちゃいかんのだよ」


 エレベーターが三階に到着する。チン、という音が鳴る。


「いかなるときも、教師である自覚を持つべきだ」扉が開く。「いい先生であるためにはな」


 エレベーターから一歩踏み出しながら、僕は言う。


「随分とまあ、ご立派な信条で。でも今は、分かってるよな?」

「ああ。S2CUエスツーシーユーの仕事、危険因子の排除に尽力するさ」


 僕らは、ある一室に入室した。


 ソファ、ダイニングテーブル、テレビ……など、必要最低限の家具だけが揃えられた内装で、生活感は一切ない。普段はだれも住んでいない部屋、隠れ家セーフハウスなのだし当然だ。とにかく、ここまで無事にこられて安堵した。これで一旦、くるみの安全は保障されたわけだ。


 くるみは、未だ何が起こっているか分からない様子で、ただただ黙り込んで立ち尽くしていた。ダイニングテーブルの周りに配置された椅子を引き、くるみにアイコンタクトをする。彼女は肯き、ゆっくりとそこに腰を下ろした。


「ねぇ、暁月さん」とくるみは口を開いた。「これから……どうするの」


 不安なのだろう、語尾が下がっている。返答したのは、谷川だった。


「とりあえずお前ら二人は、ここに待機しろ。まずは先生が調査に向かう」

「待て。僕も行く」


 と言いかけたとき、くるみが口を開いた。


「調査って? あの、刀の……」しかし直後、右手で口元を押さえた。「……うぷっ」


 心配になって駆け寄ると、くるみは首を振ってから、よろよろと立ち上がろうとした。


 あの光景がフラッシュバックしたのかもしれない。それで吐き気を……。


「ほら、臥待の体調は万全じゃない。なら、保護者が必要だ」

「それでも、お前ひとりじゃ……」

「いいから。寝室はそっち、そいつを安静にさせておけ。……臥待も。とにかく安心してくれ、大丈夫だから。ここにいる以上は、なにも心配はいらない」


 谷川は、スーツ姿のままサングラスを装着した。そして、


「それとな。今回の件だが、お前には何の責任も無いから、妙なことは考えるなよ。すべては暁月の過失だ。責めるなら好きなだけ責めりゃいいぜ、」


 と僕を指さしたあとで、イヤらしい笑みを浮かべて、


「お前のパパを、な」


   ◆◆◆


 ひとしきり吐いて、しばらくして落ち着いた後で、くるみは眠りについた。


 午後十一時すぎ。僕はくるみの手を握りしめながら、ベッドの横で連絡を待っていた。


 谷川から通信があったのは、それから一時間以上あと。午前零時半前のことだ。


 くるみが眠っていることを確認。念のため、会話を聞かれることがないよう、寝室を出た。


 ここから先は、僕と谷川──ミアキスとS2CUの問題だ。


『やあやあ。臥待の体調はどうだい? 落ち着いたかい?』


 緊張感のない軽薄なトーンだ。僕は肯き返してから、


「谷川。こんなはずじゃなかったはずだ」

『? こんなはず、とは?』


 現状を把握するための会話を紡ぐ。


「人間と高校に通うだけの簡単なお仕事です……じゃ、無かったのかよ?」




      ◇臥待くるみ◇


 夢を見ていた。

 その時の私は、夜の真ん中にいた。少し向こうに、灯台の光がぐるぐるしている。


 左手に体温。を感じて、視線をあげれば、懐かしい顔がそこにあった。


 おかあさん。


 私がその顔の方向へ呼びかける。するとおかあさんは、私の方を一切見ることなく、今からあの灯台へ行くんだよ、とつぶやくように言った。


 やったあ。行こう、おかあさん。


 でも、おかあさんは首を横に振った。それから、しゃがみこんで、私に視線の高さを合わせて、両手を優しく握りしめた。


 違うのよ、あなたひとりで行くの。


 そう言って、おかあさんはポケットから■■を取り出して、私の右手に握らせた。


 いい? はじめてのおつかいよ。この■■を、あの灯台にいる男の人に渡してきてほしいの。できるかしら?


 できないよ、と思った。し、そう言った。たぶん、そのときの私は泣いていた。


 できるわよ、わたしの娘だもの。さあ、行って。決して、振り返らないで。


 おかあさんが背中を押す。私の足は一歩前に動いて、その勢いのまま、歩き出す。二歩、三歩、暗闇の中を進んでいく。灯台の光だけを頼りに、行く。光が近づくほど、おかあさんとの距離が離れていくことが思い出されて、心細くなる。寂しい。だって三歳の私には──そう、私はたった三歳だった──ひとりぼっち、無我夢中で夜のなかを駆けていくことがあまりにも恐ろしくて、はやくはやく誰か迎えに来てよ、助けに来てよ、ってわんわん泣いた。泣きながら走った。滲む視界の上部に、ぐるぐる回る灯台の光。それからしばらくして、人影。……人影? 人だ。誰かいる! その誰かを見つけて私の足は速くなる。どんどんと、人影に近づいていく。その影が、ほとんど目の前まできて、私は涙を拭う。顔を上げる。そこには……あれ、見覚えのある顔。というか、いつも見ている顔だ。安心する顔。パパ。


 そう、パパだ。


「パパっ────」


 がばっ、と布団から上半身を起こす。


 目が覚めると、知らない部屋だった。知らない……けれど見覚えがある。寝ぼけているからか、よく思い出せない。私の部屋じゃない。昨晩なにがあったっけ……あ、そうだ。たしか、私たち、谷川先生に連れられて──


「やあ、臥待。目が覚めたかい?」


 聞き慣れた声。その方向に視線を向けると、Tシャツ姿の谷川先生がそこにいた。


 椅子に座って足を組み、私の方をじっと見ている。


 それでようやく、私の記憶は鮮明になった。ここは確か、セーフハウスとかいう場所で、えすつーなんとかという組織が所有する部屋で、先生はそこの職員だとかなんとか。


 そのえすつーなんとか所属の谷川先生が、私たちをここに匿ってくれたんだっけ。あんな出来事があったから。あんな…………パパが、パパの腕がっ、


「だはっ。案ずるな。暁月は、さっき元気に出勤していったよ」

「出……勤?」


 分からないフレーズだ、と思った。いや意味ぐらいは知っている、さすがにね。そういうことじゃなくて、パパは会社勤めではなく現役高校生のはずだ。


 まだ目が覚めていないのかも、夢の中なのかもしれないと思った。いろんな事が起こり過ぎて、それを処理できていないまま、さらにワケの分からない展開がまた起きて、その永遠のループ。私の頭は、まったく追いついていない。けれど目の前の谷川先生は、まるでいつも通りの一日が始まりましたよ、というテンションで、


「ま、とにかく起きれるか? 朝ごはんを用意したから、よければ先生と一緒にどうだい?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る