013 珍しいか? 人間の食事シーン
◇◇◇
サラダとバタートースト、ブラックコーヒー。それが朝食のメニューだった。
目が覚めたばかりで、まだ頭がぽやぽやする。だから、この状況が現実かどうかも曖昧で、ダイニングテーブルのむこうに大人の女性が、
「なんだよ、そんなに見つめんな。照れるだろ」と言ってから、谷川先生はトーストをもう一口食べた。「……そんなに珍しいか? 人間の食事シーン」
私は無言で首を横に振り、トーストを食べた。
「ま、
口の中のパンと、先生の言葉をゆっくり咀嚼する。噛めば噛むほど、パンの甘味が口の中に広がって、それは紛れもなく現実の感覚だったから飲み込むしかないみたいだ、って知る。
だとすれば、よけいに引っ掛かるところが多くて、だって谷川先生が吐く言葉は、なにからなにまで、私たちの秘めごとが通用しないことの証明だったから。パパが人間じゃないこと、ミアキスであること、ゆえに人間の食事が出来ないこと。そして、私たちが一緒に暮らしていることまで……私たちが十二年間も隠し通してきたすべてを、先生は知っている。
「先生は、先生じゃないの? 本当は……なんなの?」
私が尋ねると、先生は、だはっ、と吹きだして、
「昨日、説明したはずだが……あんな状況じゃあな、頭に入んねーわな」
トーストの最後の一口を食べて、手のひらのパンくずをお皿に払い落としながら、言う。
「ざっくり言うと、お前らの協力者ってとこだよ。
「協力者……」
私のオウム返しに、先生は反応しなかった。代わりに、テレビリモコンを手に取って、
「そうだ。テレビ観るか? せっかくの休日、土曜日の朝だってのに無音じゃ寂しいわな」
テレビを点けた。ワイドショー番組が映る。ちらりと目をやると、今朝の一大トピックは芸能人の結婚報道らしかった。テレビの中には、事件もテロも戦争もない。なんだか日本中の人が、今日は平和な日、と口裏を合わせているみたいに思えたのは、どうしてだろう。
何事もなかったかのように、今この瞬間も「平穏」を装って世界は回っている。
「はぇー、結婚かぁ~。すげぇ組み合わせだな。まさに、ビッグカップルだ」
とテレビ画面に向かって、谷川先生が呟いた。
そんな日本中のどこにでも存在しそうな午前中の景色も、窓から差し込む陽光も、テレビの中の芸人が言うそれっぽいコメントも、微かに聞こえる鳥のさえずりも、トーストに塗られたバターの塩味と甘みのバランスも。あまりにも完成された「平穏」の形。
めまいがするほどの安心感と幸福感が、私の腹を満たす。
もしかしたら、本当にそうなのかも。ふと、そう思った。
昔、動画サイトかなにかで、「毎晩見る夢が奇妙で気持ちが悪いから、滅茶苦茶に壊してやろう!」と、ひたすらモラルに反した言動をした結果、夢だと思っていた方が現実でした……というバッドエンドなストーリーを観たことがある。ふいに、その話を思い出した。
いまの私は、それによく似た物語の登場人物なんじゃないだろうか。先生と和やかに朝食をとっている、この夢みたいな今が現実であることは確定事項だ。ともすれば現実だと思っていた昨日の出来事はやっぱり夢……そういうハッピーエンドなんじゃないか。
パパは出勤していった、と谷川先生は言った。その言葉通り、もしかしたら暁月日々輝は、現実の中では本当の父親なのかもしれない。で、谷川先生がお母さんで、私たちは三人で仲の良い幸せな家族なんだ。そうなんじゃない?
先生が、ガガガ、と音を立てて椅子を引いた。
「なんにせよ、普通にメシも食えてるし、問題なさそうだな」
それから食器を持って、キッチンへと向かった。食べきっていない私を椅子に残したまま。
「その感じなら、洗い物を任せても大丈夫そうだ」直後、たんっ、とシンクに食器を置く音が響いた。「先生、今日は忙しいからさ。家事はお前に任すよ」
ほら、このやりとりってさ、まさしく家族って感じがする。
キッチンに目をやる。すると、すでに先生はおらず、寝室の隣の部屋に入るところだった。
「先生、どこか行くの?」
「おー」と開けっ放しの扉の向こうから返事が聞こえた。「暁月と同じく、休日出勤さ」
しばらくして、スーツ姿に着替えた先生が部屋から出てきて、そのまま廊下へ向かった。
「ちなみに、お前にも仕事がある。ていうか、」
私の都合よすぎる解釈が、そっくりそのまま現実であるなら、どれほどよかっただろう。
私は私を騙しきりたかった。現実を妄想で上書きしてやりたかった。
「これは、命令だ」けれど、「先生たちが帰宅するまで、外出禁止だ。ここから一歩も出るな」
「…………え、」
先生の真剣な表情が、私の虚妄を暴く。
「ま、待って、待ってよ。先生っ」
食べかけの朝食を置き去りにして、私は廊下へ飛び出した。玄関の前に、こちらを向いて立ち止まっている先生が見えた。目が合う。
「約束、出来るな?」
その語気の強さに気圧されて、私は黙ってしまった。たしかに、命令みたいだ。普段はおちゃらけた雰囲気で生徒に接する先生が、初めて見せる真面目な顔、大人の表情。大人……そう、それは明確に私を「子供」として見ている目。
庇護対象に向ける目だ。
さすがの私だって、それぐらい気づく。
「ま、まって」
急いで駆け出せば腕を掴めるぐらいの距離に、先生はいる。だのに、私の足は動かなかった。
いまだ私は、事態を把握できていなかった。現実と夢の区別がついていない。いいや、区別しようと思えずにいた。だってもしも想像通りなら、この胸騒ぎが本当だったら、どうしていいか分からなかったから。直視したくなくて目を背けている。そういう自分に気づいている。
だから私は、先生が部屋の外へ出ていくのを、見ていることしかできなかった。
「そういうわけだ。留守番、よろしく頼むぜ」
バタン、と玄関のドアが閉まる音がした。
そうして私は、この部屋に一人、取り残された。
その直後だった。遠くで、スマホが音を立てた。
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