030 君をたっぷり愛してるけど、それだって

   ◇◇◇


 学校を飛び出して、夜の街へ逃げ込んでいく。あてなどない。ただただ、どこか遠くへ行ってしまいたかった。不意に、まだ三歳の私と、現在の私が重なったような気がした。あの夜。ひとりぼっち、無我夢中で夜の中を駆けたことを思い出す。同じじゃないか。私はずっと、同じだ。いくら高校生になったからって、大人への階段を上ったからって、それは暖かなパパとの暮らしの中だけの話で、その裏にあった真実を知ってしまった私は、すべての自信があっけなく霧散してしまって、はやくはやく誰か迎えに来てよ、助けに来てよ、って涙が零れた。でも、私は知っている。助けてくれる人なんて、この世のどこにもいない。泣きながら走るしかない。滲む視界の上部に、光が明滅した。


 その光の直後、大きな破裂音が聴こえた。

 その光の正体が花火だと、私は気づいた。


 それでも足は止まらない。花火の光の逆方向へ、もっともっと暗闇の方角へ、ひとりぼっちになれる場所まで、行ってしまいたかった。


 浴衣のせいで走りづらくて、草履は学校に置いてきちゃったから、裸足なのがもう最悪で、なんでこんな恰好しているんだろうとバカバカしくなってきた。パパを疑うようなことをして、そのせいで突き付けられた真実に、胸が苦しくて。また呼吸が苦しくなってきて、そうして私は足を止めた。視線を、上へと向けた。花火はまだ、夜空に咲いては散ってを繰り返している。随分と長い距離を走ってきたつもりだったけど、ここからでも花火は充分見えることを思い知らされて、なんだか、逃げるのも馬鹿らしくなった。


 どれだけ走っても、女子高生一人の脚力じゃ、どこにも行けやしないという諦めが、胸の奥底に芽吹いた。

 

 知らない住宅街の真ん中に、知らない広場があった。ベンチが二つに、自動販売機が一つの閑散とした広場。私はそのベンチに腰を下ろして、ただ、呆然と時間が経つのを待っていた。


 花火大会はとうに終わっていた。


 いよいよ、夜は真っ暗闇の中だった。私は、ひとりぼっちになれた。


 家に帰りたくなかった。パパに会いたくなかった。誰にも会いたくなかった。痛いのはヤだけど、死にたかった。今夜はこの広場で明かそうか、とも考えた。


 そのくらい、どん底だった。心の中はぐちゃぐちゃだった。こんがらがった毛糸の束を前にして、ほどく気が起きないような気分だった。だから、私は、今夜耳にしたこと全部、今夜起きたこと全部を、頭の隅に追いやって放置した。そうしてそのまま、ここにある暗闇と同化してしまえたらどれほど楽か、とだけ、願った。


 目を瞑ると、同じ暗闇があった。ああ、気持ちがいい。本当にこのまま、消えてしまえそうな心地がした。けれど、


「おーい。かーのじょッ」


 突然、声がした。瞼を開く。


「こんな夜中に一人、なーにしてんだ。危ないじゃんね」

「……大丈夫? くるみ」


 その声の方へ、視線をやる。千乃ちのちゃん姉妹とヨーコが、そこにいた。


 そうして私は、ひとりぼっちじゃなくなった。


   ◇◇◇


 開港祭が楽しくてさ、とヨーコは言った。このまま千乃ズの家にお泊りしちゃおう、って話になったんだよ。せっかくだし、くるみもどうかな? てかさ、来ちゃいなよ。


 首を縦にも横にも振る隙を与えられず、私はヨーコたちに捕まった。千乃ズの家、すぐそこらしいよ。ほら、歩ける? と手を引いてくれたヨーコに、私は首肯を返した。


 歩き出してから五分かからないぐらいで、千乃ちゃん姉妹の家に着いた。立派な一軒家だった。玄関で、笑顔のお母さんとお父さんに迎えられた。双子揃って、元気に「ただいま」の挨拶とぶっきらぼうな「ご飯いらないから」を言って、私を風呂場に案内した。


「なんで裸足かしらんけどさ、足、汚れてるっしょ、さすがに、」

「バスタオル好きに使っちゃっていいし、あ、あとこのジャージも着ていいからさ、」

「綺麗にしてきなね。あ、そのままシャワーも浴びちゃいな」


 千乃ちゃん姉妹が脱衣所の外へ出て、パタリ、扉を閉めた。


 お言葉に甘えて、シャワーを借りた。


 汗も汚れも涙も綺麗さっぱり洗い流せて、お湯が気持ちよかったから、心臓のリズムがいつも通りに近くなった。頭の中の轟音も、お昼休みの雑踏ぐらいの静かさになった。


 脱衣所を出ると、千乃ちゃんのお母さんと鉢会った。二人の部屋は二階の突き当りだからね。そう優しく声をかけてくれた。私は部屋へ向かった。


「おかえりー」


 部屋の扉を開けると、浴衣から寝間着に着替えた三人が、笑顔で迎えてくれた。


「ほいじゃ、次はウチらが風呂ね」星頼せーらちゃんが言う。

蓮沼はすぬまとくるみっちは、なんかテキトーにやってて」続いて、風歌ふーかちゃんが言った。

「ちょっと待って。二人で入るの?」ヨーコが半笑いで言う。

「もちろんでしょ。だって、」

「ウチら、双子だよ?」

「双子、関係ある? それさ」


 あははー、とテキトーな笑い声を残して、千乃ちゃんたちが部屋を出ていく。


「ホント、仲いいよなー。あいつら」


 扉の方を見つめたまま、ヨーコが呟いた。私は、うん、と相槌を打とうとした。でも不思議と、声にならなかった。


 たぶん、そのせいだ。無反応みたいになってしまったから、ヨーコが私に視線をやって、


「……くるみ」消え入りそうな声を、私にかけた。「なにがあったの?」

「…………え、」


 ヨーコと視線がぶつかる。彼女の瞳は大きくて、吸い込まれそうになる。というか、たぶん、吸い込まれてしまった。意識も、さっきまでの複雑な感情も。そうして、私は返答の言葉を失って、何も言えず、またしても黙り込むかたちになってしまった。そんな私を見かねてか、


「ねぇ、くるみ。バルコニー、行ってみない? 眺めよさそうじゃない?」


 ヨーコが、私をバルコニーへと連れ出した。夜風が、私を撫でる。


 そこからの眺めは、絶景、とまでは言えずとも、それでも住宅街の明かりが美しかった。


 この辺りは起伏の激しい土地だから、この家もそこそこ標高の高い場所にあるらしく、ちっちゃな展望台みたいだった。ヨーコが手すりから両腕を外に出して、夜の街を眺めている。私は、その隣に並んで、彼女と同じ方角へ、視線をやっていた。


「ねぇ」ヨーコが、スマホを取り出した。「これ、見てよ」


 言われた通り、スマホの画面に目をやる。ヨーコが見せてくれたのは、花火の動画だった。


「今日の花火大会。綺麗すぎて撮っちゃった。よく撮れてるでしょ?」

「……だね」


 と私が声を出すと、ヨーコはスマホを持ったままの右手で、私の頬をつまんだ。


「ねぇ、口角下がってるよ。もったいない。ほら、笑ってよ」

「……強引だなあ」


 そんな私の言葉に、ヨーコは、あはは、と笑い声を発してから、


「くるみ。愛してんぜ」


「な、なに……急に……」


 突然のそれに、顔が熱くなるのを感じた。ヨーコが強い言葉を使うのなんて、今に始まったことじゃない。だのに、今の私にとって、彼女が吐く言葉のパワーは、かなり心に効いた。


 ヨーコはまた、にっ、と笑った。


「だって、くるみ……わたしを、夕辺ゆうなべ先輩と再会させてくれたじゃん。それにわたしはくるみと話すのが楽しいし、ホーム画面に設定したいぐらい可愛いし、あと……喩えが下手だしね。そういうのぜんぶひっくるめて、愛しかない。だから、悲しんでるのみるのは、結構イヤかも」

「……そう」

「うん。結構ってか、だいぶイヤ。だから、力になれることがあれば、なんでもしたい」

「………………」


 咄嗟に、ヨーコの顔から視線をそらしてしまった。真正面からの優しさに、胸をうたれたのだ。それと同時に、私は私が不甲斐なかった。ヨーコの真心を受け止めるためのキャパシティが今の自分にないことが、とても苦しかった。


 彼女のセリフは、私を救いうるものだったろう。でも、哀しみが押し勝つ。


「わッ……私……」


 まずい。また、だ。


「…………私……わかんない……」


 涙が、あふれた。


「……信じたいのに……なにを信じたらいいか…………もう私──」


 瞬間。ヨーコが、私を思いっきり抱きしめた。


 彼女の手が髪を撫でる。柔らかな肌の感触が、頬を優しく包む。体温が布越しに伝う。


「いいよ。いいから」


 頭上で、ヨーコの声がする。


「なにがあったか、もう聞かないから。なんでもいいから。とりあえず、泣きなよ」


 それから私は、さんざん泣きじゃくった。身体の中の水分が涸れ果てるまで泣いて、喉が壊れるくらいに声を出して、それでも哀しみは失くならないから、更に泣いた。


「わたしはくるみをたっぷり愛してるけど、それだって、信じたくなったら信じればいいから」


   ◇◇◇


 泣きじゃくった分、ちゃんと疲れて眠れるかと思ったけど、結局一睡もできぬまま、朝を迎えてしまった。千乃ちゃん姉妹の部屋の中。時計を見ると、午前五時。


 上体を起こし、部屋の中をボーっと眺める。まだヨーコも千乃ちゃんたちもぐっすりと眠っていて、それはそれは気持ちよさそうに寝息を立てていた。


 よし、いこう。心の中で呟いて、私は布団を抜けだした。

私は借りたジャージから自分の浴衣に着替え、部屋を出る。


 階段を降りると、一階の廊下で、千乃ちゃんのお母さんにばったり会った。


「あら、もう帰るの?」

「はい、お邪魔しました」


 の挨拶を交わし、家を出ようとしたとき、


「ちょ、ちょいちょい。勝手に帰んなよって」


 と、背後で声がした。


「……あ。ウチ、ウチ。風歌の方」


 振り返ると、風歌ちゃんがいた。アッシュグレーのインナーカラーが朝陽に透けて、綺麗だ。


「覚えといて。寝相が悪くていびきをかく方が星頼。ウチは比較的、ぐっすりタイプ」


 と言って、ピースサインを突き出した後、風歌ちゃんは豪快にあくびをした。


「てかてか。もうちょっとゆっくりしていっても、いいんだよ?」

「……ううん。やっぱり、帰るよ」

「そう……か。あ、いちおー、家出て左曲がってすぐの坂をずーっと降りていけば、大通りに出るし、そこをずーっと真っすぐいくと和田町駅があるから、そこから電車に乗るといいよ。あ、くるみっちの家ってどっち方面? 和田町からだと横浜行きに乗ることになるのかな? だったら二番線ね、二番線。逆方向に乗らないように……」

「大丈夫だよ、風歌ちゃん。ありがとう」

「…………おう。……あ、歩いて帰るなら──」


 と言いかけて、風歌ちゃんは口をつぐんだ。それから、一呼吸入れて、


「ごめん」


 と言って、俯いた。


「え?」


 突然見たことない表情をするものだったから、つい間抜けな声が出た。千乃ちゃん姉妹はいつだって快活で、大胆不敵って感じで、自由奔放さがウリなのに、そんな繊細な表情をされたら、私だって戸惑ってしまう。


 風歌ちゃんが、顔をあげた。


「ウチら、たぶん、なんもしてあげられてないからさ。友達として」

「………………」


 なんだ、そういうことか。直前の戸惑いが解けて、私は口角を吊り上げて、


「ううん。嬉しかった」


 言った。


「ひとりでも、大丈夫だよ」


 千乃ちゃんの家を後にして、風歌ちゃんに教わった道を歩けば、和田町駅に到着した。


 土曜日の朝だから、ホームにはあまり人がいなかった。もちろん浴衣姿はひとつもなくて、人ごみに紛れられないのは、ちょっとだけ恥ずかしいな、なんて思った。


 目を閉じて、午前中の新鮮な空気を吸い込む。日光を全身で浴びる。心地が良いな、と感じると同時に、これまでの十二年間が瞼の裏に浮かんだ。私とパパの暮らしだ。


 お母さんに捨てられてからの、私の暮らしだ。


 そのどこを切り取っても、どの角度から見ても、幸福に満ち満ちた暮らし。パパが私のことを、お母さんの代わりに育てるって決めてくれたから産まれた、最高で完璧な日常だ。


 なにひとつとして、不満はない。それは、本音だよ。……でも、でもね。


「でも、私は──」


 ジリリリリリ。ホームに電車の到着音が響く。続けて、アナウンス。


『一番線、電車が参ります。危ないですので、黄色い線の内側までお下がりください』


 瞼を開ける。


 風歌ちゃんが教えてくれた、私の家に帰るための二番線のホームが向かい側に見える。その視界を、一番線に到着した電車が遮った。


 ドアが開く。


 私は、その電車に乗り込んだ。




   <第7話に続く>

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