032 文字通り、奇跡だったんだ
◆◆◆
「なッ……」思わず、声がうわずった。「くるみ、お前、何をッ……!」
顔の角度を元に戻して、改めて僕を見やって、
「はんこーき」
と、口角を緩く吊り上げながら、言った。
「………………」
「ねぇ、パパ。私、本気だよ。本気で、お母さんに会いに行くつもりだからね。パパが協力してくれないなら、
「お前は……自分が言っている意味、分かってんのか」
「当たり前でしょ。もし留名ちゃんが望むなら、私をミアキスにしたっていいよ。ミアキスとして、一緒に生きたっていい。そうなる覚悟だってあるよ。留名ちゃんは悪い子じゃないし、
「そんなわけないだろ」
「ううん。ぜんぜんあるよ。パパは忘れたの? 前に、私が言ったこと」
それから、くるみはいつかと同じ真剣な表情で、
「私にも命ぐらい懸けさせて。そう、言ったよね……?」
どう返答していいか分からなかった。必死に言葉を探して、喉を震わせる。
「よせ。間違っている、そんなこと──」
「間違ってる? なんでそう言い切れんの。間違ってないよ。私が決めたことなんだもん。それにさ、私──もともと、死ぬハズだったんでしょ?」
くるみの声を聴いて、僕は完全に言葉を失った。彼女の語尾は、小さく震えていた。
それは、彼女の葛藤と、苦悩と、絶望が詰め込まれた震えだった。そう聴こえた。
「あの夜、お母さんに見捨てられて、本当はパパに殺されるハズだったんだ。だから今生きているのは……なにかの間違いで……パパと暮らした幸せな毎日は、文字通り、奇跡だったんだ。だから……いまさら、人間として生きようが、ミアキスになろうが、むしろ死のうが……ぜんぶ、受け入れられるよ。なんでもいい」
「なんでもいいなんて……そんな、」
「今の私にとって大事なのは、お母さんに会うことだもん。それ以外は、どうなってもいい。どんな手段だって取るし、どんな選択だってするよ。だって……わッ……私はッ……」
くるみの瞳から、一筋の涙が零れた。
「わ……私…………お母さんに会って、訊きたいこと、たくさんあるんだもん……。なんで私を捨てたの、とか。私のこと、好きじゃなかったの、とか……」
次々と、涙が溢れるのを、僕はここから見ている。
「私はお母さんのこと大好きだったのに……お母さんは……ちがッ……。ううん……なんだろう……違ったの? って……あれ、ダメだ……。ちゃんと言えないや……こんなんじゃ……直接なんてムリだ……あはは……」
でも、見ているだけじゃ、耐えられるはずもなく、勝手に足が動いた。
くるみの元へ駆け寄る。抱きしめる。くるみの小さな頭を胸元で受け止める。
「……嫌なんだよぉ…………」
僕の服をぎゅっと掴みながら、くるみは泣く。泣いて、同時に、これまで我慢して溜め込んできたであろうすべてを吐き出している。
「──たし、やっぱムリなんだよ……信じられないんだ……
娘の誠心誠意こもった懇願を、僕は聞くことしか出来ずにいた。
気持ちは理解した。何をしたいかも分かった。彼女の苦しみにも寄り添いたいと思った。
けれど──でもしかし、の否定構文が脳裏を駆け巡っている。
「………………」
くるみと母親との間にある事情は、十二年間、彼女に見せずにいたものだ。と同時に、僕が見ようとしてこなかったものだった。目を背け続けていたことだった。
そいつと対峙する覚悟が、くるみにはあるという。僕はどうだ。くるみに対峙させる覚悟があるのか? あるのか……勇気が……。
勇気──そう、正直に言えば、勇気が無かったということになろう。だからこうして、彼女の願いを素直に受け入れられずにいる。けれど、でも、しかし、ばかりが浮かんで、どうにか逃げるための口実を仕立て上げようともがいている。
そして逡巡の果て、確信めいた「けれど」に突き当たる。彼女の願いを叶えたいという想いはある。けれど、この場合、願いが叶った先で苦しむことになるのは誰だ、くるみじゃないか。
くるみよ。やはり、母親の元へ行きたいなどと、考えるべきじゃない。
これ以上の悲しみを貰い受けに行かずとも、僕の隣で過ごしたらいい。辛いことは見て見ぬフリをして、知らなくていいことは知らないままで、これからも生きていけばいい。
それで、いいじゃないか。そうすべきなんだよ。
「くるみ──」
という、僕の思考を、
「……だらしない」真っ二つにぶった切ったのは、「それでもああた、父親ですか?」
ほとんど無意識に、僕の視線は椎名へと向いた。
「反吐がでます。ああたのその、自己弁護的な態度に。……いいですか、
僕が黙りこくっていると、椎名は視線を地面へと落とした。下唇を嚙んで、言葉を続ける。
「本音を言えば、わたくしは羨ましい。まるで、人間みたいな生き方をしているああたが」
「…………椎名、」
「わたくしにも、家族がいました。人間の頃の話です。もう何十年前のことか、数えるのも億劫なほど、昔の話ですが。ああたがたを見ていると……あの頃を、ふと回想してしまいたくなるんです。そして、どれほど安寧に満ちた日々だったか……取り戻したくもなります」
だから、と言って、椎名は顔をあげた。
「ああたが家族の想いに応えたくないといじけている様子を見ると、無性に腹立たしいです」
その次に聞こえたのは、谷川の豪快な笑い声だった。
「だはっ。いいねぇ、暁月。同級生から羨ましがられ、妬まれるなんて、まるでクラスの人気者じゃないか。一気にカーストトップだ。おめでとう」
まるで通常運転な、嘲るようなセリフを添えて。
「ちなみに……先生も、同意見だがな。お前は過保護すぎるんだよ。少しは、娘の無茶振りに付き合ってやった方がいい。たとえ、更に傷つけるハメになったとて、だ」
「…………谷川」僕はやっとの思いで、声を出す。「そんな無責任なこと──」
「何言ってんだよ。傷ついたとて、お前がいるだろ? なら、何をさせても安心じゃないか」
谷川の表情は柔いでいた。僕を小馬鹿にしてやろうなどという意思はそこに無い。その隣に立つ椎名の吊り上げた眉の裏にまでも、何かを託すといったような、情念が張り付いている。
なんだ、いったい。まったく、混乱してしまうな。この謎の一体感は、なんなんだ。
はたして、僕はどうすべきだ。
どの選択が、最もくるみを想ってのそれになるか、判別つくハズもない。とそこで僕は、またしても確信めいた「けれど」に辿り着く。さきほどまでの否定形とは違う、どちらかといえば開き直りにも似た、「けれど」。
これまでの僕はいつだってこうだった気がする。答えが分からず、行動に移すことを躊躇い、結果として空回ってばかりだった。ずっと不甲斐ない父親だったろう。臆病だったのだ。臆病の虫が騒いで、一歩も踏み出さずにいた。その顛末が現在だ。
けれど、もしも今答えが出ずとも、ここで行動したら、
「暁月日々輝」
「暁月」
その先に、
「────パパ」
答えが見つかるんじゃないか。そう思えた。
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